色づく景色に君がいた

松丹子

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 受験を終えた僕は、空手部への挨拶がてら武道場に行った。
 内心、姿を見られるかと期待したけど、そこに橘くんはいなかった。進学校である我が校では、二年の冬の大会を最後に代替わりを済ませることが多い。橘くんもご多分に漏れず、そうしたのだろう。
 予想はしていたけれどがっかりして、それから自分から彼を探すことはやめた。
 とはいえ、数少ない登校時間に、まったく橘くんのことを見なかったわけではない。
 一応、姿は二、三度見た。階段や、窓越しに。
 つまりは、親しくもない人間が声をかけるには無理のある距離でだけ、彼を見かけたのだ。
 自信も勇気もない僕には、声をかけることなんてできずじまいだった。
 一度だけ、僕に気づいた橘くんは、ウィンクをするようにわずかに目を細めてくれたことがある。
 けどそれも、ただの気まぐれか、気のせいかもしれない。ゴミが目に入って閉じただけ、とか。
 そう思い込もうとして――半ば思い込んでいて、卒業の日を迎えた。

 もう橘くんを見かけることもなくなるのだと、感慨にふけっていたその日。
 卒業式の後、橘くんを見かけたのは偶然だった。
 式には関係ない場所にある武道場の裏。いつだったか、橘くんと会ったそこに、僕の足はふと向いていて。
 その途中、橘くんが誰かと話していた。
 橘くんと正対して立っていたのは、学ラン姿だった。
 僕と同じく、胸には卒業生がつける紙花が飾ってある。
 男子は困惑したような、怒ったような顔で、必死そうに何かを言った。
 そして目を上げた瞬間、僕に気づいたらしい。
 とたんにうろたえた彼は、慌てたように僕の横をすり抜けて行った。

「あっ――先輩!」

 橘くんの声に、僕はぎくりと動きを止めた。
 それが、走り去った男子への呼びかけだと気づいたのは、橘くんと目が合った後だ。

「あ……どうも」
「……どうも」

 橘くんが気まずそうに、後ろ頭を掻いて目を逸らす。
 その視線の先を無意識に目で追って、冷えた風にそよぐ木を黙って眺めた。
 校舎の方から、わいわいと賑やかな声が聞こえている。
 僕らは表舞台から隔てられた場所で二人、じっとたたずんでいた。
 相手の出方を出るつもりで選んだ沈黙は、思いの外長かった。
 それなら僕から何か言うべきだろうか、と自問する。
 いったい二人の間に何があったかは分からないけれど、どうにも間が悪かったらしいことは察しがついた。それなら、形だけでも謝るべきだろうか。もちろん邪魔をするつもりはなかったのだけれど。
 僕は口を開きかけて、橘くんがすぐ目の前にまで近づいて来ていた。
 風がそよいで、彼の横顔を撫でて行く。短く刈り上げていた髪は、だいぶ伸びている。そのことにようやく気づいた。
 それまでも何度か見かけてはいたけれど、遠かったり、僕に余裕がなかったりで、そういう小さな変化に気づかなかったのだ。
 そうか、彼ももう部活を辞めたのか。分かっていたはずのことが、また違う実感になって胸に降りてきた。
 だから、口から出たのは、自分でも思っていたのとは違う言葉だった。

「……髪、伸びたね」

 橘くんは驚いたようにまばたきして、戸惑うように目を泳がせて、困ったように笑った。
 一度は取り繕おうとした表情が、たまらず崩れたような破顔に、僕の胸がぎゅうっと苦しくなる。
 ああ、やっぱり僕は、彼のことが好きなんだ。
 自分でそう思って、切なさに自嘲した。
 よりによって初恋が、僕と同じ男で、誰をも魅了する人だなんて――なんて救われないんだろう。
 そう思ったとき、僕は突然気づいた。
 もしかして、さっきの男子――

「勘違いさせるから、気をつけろって言われてます」
「え?」

 男子が立ち去った方に目を向けかけた僕は、言葉の意味が理解できずにまばたきした。
 橘くんは優しい微笑みを浮かべていたけれど、僕はそこに、今にも壊れそうなはかなさを見て戸惑う。

「俺は人目を引くから……その分、人を傷つけやすいって」

 呟くように言うと、ズボンのポケットに手を突っ込む。まるでただの独白のように、橘くんは遠い目をして揺れる木を眺めた。
 もう梅は花を落としたけれど、桜が咲くにはまだ早い。学校の樹木に、これという華やかさはなかった。

「……そう、なんだ」

 分からないながらに、僕はうなずいた。
 何を言えばいいか分からずに、うつむく。
 風がそよいだ。
 足元を、落ち葉が転がっていく。
 僕と橘くんの間の一歩の距離を、カラカラと通り抜けて、止まった。
 どこかから――たぶん、吹奏楽部のファンファーレが聞こえた。
 卒業生を賑やかに送ろうというのだろう。
 自分もその、送られる側なのだということを思い出した。
 足元の落ち葉が、また風に吹かれて転がっていく。
 橘くんが動く気配を感じたのは、それと同時だった。

「待って」

 橘くんの制服の袖を掴んだとき、僕は急に、目の前に別の世界が広がった気がした。
 急速に乾いていく喉。驚いた顔で僕を見下ろす端正な顔。わずかに空いた形のいい唇と、ゴツゴツした喉――
 それまで遠くに感じていた橘くんのひとつひとつが、急にひどく鮮明に僕の前にたたずんでいて。
 どうして、今まで気づかなかったんだろう。
 手にした布の感触は、僕の制服とあまり変わらない。
 彼は雲でもなんでもない。掴めない何かじゃなかった。
 一歩だったのだ。いつでも、橘くんと僕を隔てる距離は。
 たった一歩、勇気を出して踏み込めば――彼の舞台は僕の舞台になり得たのに。

 吊りぎみの猫目が、優しく細められて僕だけを映している。
 ずっと、気づかないふりをしていた。僕が彼と同じ世界に行けるだなんて。彼はきっと、誰をも拒むことはないのだろう、と分かっていたのに――

「俺……」

 泣きそうになりながら、僕は口を開いた。

「橘くんのことが……」

 みっともなく、震える声。けれど、その先は言えなかった。
 ふっと、笑う気配がして、僕は知らないうちにうつむいていた顔を上げた。

「卒業と合格、おめでとうございます」

 一歩、橘くんが僕に近づく。
 彼の陰が、僕をつつむ。

「先輩、キス、したことあります?」

 少しだけからかうような笑みで問われて、僕は真っ赤になったまま首を横に振った。
 橘くんには予想通りだったのか、「そうですか」と微笑んで、僕の頬に手を添える。
 僕は何が起こっているのか分からないまま、揺れる目で彼を見上げた。

「じゃあ、ファーストキスだけ、もらっていきます」

 今までにないほど近くで聞こえた橘くんの声。
 乾いた唇に触れる、柔らかい熱。
 僕を覆っていた陰が、離れて行く。
 そして彼は笑った。

「忘れられるなら、忘れてください。もし、“そうじゃない“んなら、その方がきっと先輩も楽に生きられるから」

 橘くんが何を言おうとしているのか、あのときの僕には分からなかった。
 けれどただ、彼がひどく切なく、苦しそうな顔をしたことだけが、ずっと胸に残っていた。
 ――ずっと。
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