色づく景色に君がいた

松丹子

文字の大きさ
上 下
10 / 14

.09

しおりを挟む
 橘くんとのサシ飲みは、初めてと思えないほど驚くほどリラックスできた。
 それは僕らの信頼関係云々よりも、彼のコミュニケーション能力によるところが大きいと思う。
 僕の下手な言葉を優しく拾い上げ、柔らかな沈黙は静かに微笑んでグラスを傾ける。
 互いに言葉を口にせずに目を合わせている時間は妙な幸福感があって、まるで恋人同士になったような気がした。
 理性が酒に溶けていくと、身も心も任せて甘い空気に染まりたい衝動がじわじわと胸に膨らんでいく。今さらそんなこと、馬鹿げている。そう分かっているのに、僕の心を浮き立たせるアルコールと、目が合うや優しく微笑む橘くんの表情が、まるで初恋をやり直しているような錯覚に陥らせていた。
 僕はその誘惑から逃れようとするように、いつもよりも早いペースで杯を重ねていた。
 おちょこを傾けてあっという顔をした僕を見て、橘くんが口を開く。

「もう、空いてる?」
「あ、うん……次は」

 何にする。
 僕はそう聞こうとして、つい引き寄せられる目を彼から離そうと、立てかけたドリンクメニューに手を伸ばした。
 その手を、大きな手が包む。
 びくりと、肩が震えた。
 同時に、心臓が暴れ出す。
 馬鹿な。
 男同士なのに、どうしてそんなに、動揺する必要があるんだ。
 橘くんだって――きっと。
 アルコールで熱を持った喉が、妙に乾いていた。ごくりと唾を飲み込んで、おそるおそる、橘くんの顔に目を向ける。
 橘くんの微笑みは、ただただ穏やかで紳士的だった。
 ……泣きそうなほどに、優しい微笑み。

「飲み過ぎ。もう、やめておいた方がいいよ」

 橘くんの敬語は、知らないうちに取れていた。だから僕に、恋人のような錯覚を起こさせるのだと気づく。
 冗談めかして指摘しようかと開き書けた口は、そのままゆっくり引き結んだ。

 可能性が、あったんだろうか。

 八割方、アルコールに溶けた脳。
 その残り二割が、僕に問いかける。

 彼と、僕が、こうして、二人で過ごす可能性が。
 僕の選ぶ道次第では、あったんだろうか。
 橘くんと――恋人になる、可能性が。

 喉の奥に、涙の気配を感じて飲み込んだ。
 目を逸らし、うつむく。思わず、机の上に置かれた彼の左手を見た。
 その指には、何の装飾もない。
 僕の左手に添えられた右手にも、何もない。
 彼の手の下で、僕は指を握りこみ、親指で自分の薬指を撫でた。
 二週間前、彼女と試着した結婚指輪の感触を思い出す。
 固くてきれいなプラチナリングは、気恥ずかしさや喜びと同時に、緊張と不安を抱かせた。
 ショーケースから取り出され、僕の指にはめられるや、それは僕の体温をわずかに、でも確実に奪っていって。
 直感的に、怖い、とすら、思った。
 おそろいのリングを、照れくさそうな笑顔で掲げる彼女を見て、僕はようやく、笑うことができた。
 あのとき僕は、一瞬だけ、思ったのだ。
 その小さな指輪が、これから、僕の人生を縛りつけるものなのだと。
 実際には、そうじゃない。指輪なんてオマケに過ぎない。僕はこれからを、彼女と生きていく。その印として、その小さな輪を指にはめる。ただそれだけのことだ。
 僕らの将来は、穏やかで優しい姿で、僕の前にたたずんでいるはず――

 僕ははっとして、手を引いた。
 橘くんの手が、わずかに、僕の薬指を撫でたような気がしたからだ。
 自分の膝上に手を引っ込めてから、そんな自分にうろたえる。
 橘くんが僕の手を撫でるだなんて、そんなことあるわけがないのに。
 あったとしても、別に何の意図があったはずもない。
 自意識過剰にもほどがある。
 気恥ずかしさに、うつむいたまま唇を引き結んだ。

「……すみません」

 小さな声がして、はっと息を止めた。
 目だけを上げると、橘くんが、気まずそうに目を逸らしたような気がする。

「お茶、頼みましょう。ウーロン茶でいいっすか?」

 一瞬前の気まずさなどなかったかのように、橘くんは笑った。
 僕の勘違いだったんだろうか。
 アルコールのせいで落ち着かない動悸が、頭の中心で鐘のように鳴り響いている。
 とっさに口が利けなくなってこくこくうなずいた僕に、橘くんは微笑んで手を挙げた。
 店員がはいと気前のいい声で近づいて来る。橘くんは店に入ったときと同じ快活な笑顔でウーロン茶を二つ注文した。
 その横顔をじっと見ていた僕は、橘くんがこちらに向き直るのに合わせて目を泳がせた。
 期待めいたものが胸に浮かんでは、常識と理性が心の中に押し込める。春風のように心をかき回す困惑の気配を、僕はじっと、自分の手を見つめてやり過ごす。

「うち、父よりも、父の弟の結婚が先だったんですけどね」

 立ち働く店員の姿を眺めながら、橘くんは唐突に話し始めた。

「その結婚式に、母が父に、結婚指輪をつけて行かせたらしくて。まだ婚約しただけなのに」

 笑みを含んだ横顔は、両親への親愛を思わせる。
 妹の話も出てくるくらいだから、仲のいい家族なのだろう。そうは思ったけれど、その話題を口にした彼の意図が分からないまま、僕はあいづちを打った。

「――確かに、男にも、婚約指輪って必要かもしれませんね」

 橘くんはようやく僕の方を向き直り、大人びた顔で笑った。
しおりを挟む
感想 1

あなたにおすすめの小説

私の入る余地なんてないことはわかってる。だけど……。

さくしゃ
恋愛
キャロルは知っていた。 許嫁であるリオンと、親友のサンが互いを想い合っていることを。 幼い頃からずっと想ってきたリオン、失いたくない大切な親友であるサン。キャロルは苦悩の末に、リオンへの想いを封じ、身を引くと決めていた——はずだった。 (ああ、もう、) やり過ごせると思ってた。でも、そんなことを言われたら。 (ずるいよ……) リオンはサンのことだけを見ていると思っていた。けれど——違った。 こんな私なんかのことを。 友情と恋情の狭間で揺れ動くキャロル、リオン、サンの想い。 彼らが最後に選ぶ答えとは——? ⚠️好みが非常に分かれる作品となっております。

明日のために、昨日にサヨナラ(goodbye,hello)

松丹子
恋愛
スパダリな父、優しい長兄、愛想のいい次兄、チャラい従兄に囲まれて、男に抱く理想が高くなってしまった女子高生、橘礼奈。 平凡な自分に見合うフツーな高校生活をエンジョイしようと…思っているはずなのに、幼い頃から抱いていた淡い想いを自覚せざるを得なくなり…… 恋愛、家族愛、友情、部活に進路…… 緩やかでほんのり甘い青春模様。 *関連作品は下記の通りです。単体でお読みいただけるようにしているつもりです(が、ひたすらキャラクターが多いのであまりオススメできません…) ★展開の都合上、礼奈の誕生日は親世代の作品と齟齬があります。一種のパラレルワールドとしてご了承いただければ幸いです。 *関連作品 『神崎くんは残念なイケメン』(香子視点) 『モテ男とデキ女の奥手な恋』(政人視点)  上記二作を読めばキャラクターは押さえられると思います。 (以降、時系列順『物狂ほしや色と情』、『期待ハズレな吉田さん、自由人な前田くん』、『さくやこの』、『爆走織姫はやさぐれ彦星と結ばれたい』、『色ハくれなゐ 情ハ愛』、『初恋旅行に出かけます』)

冬の水葬

束原ミヤコ
青春
夕霧七瀬(ユウギリナナセ)は、一つ年上の幼なじみ、凪蓮水(ナギハスミ)が好き。 凪が高校生になってから疎遠になってしまっていたけれど、ずっと好きだった。 高校一年生になった夕霧は、凪と同じ高校に通えることを楽しみにしていた。 美術部の凪を追いかけて美術部に入り、気安い幼なじみの間柄に戻ることができたと思っていた―― けれど、そのときにはすでに、凪の心には消えない傷ができてしまっていた。 ある女性に捕らわれた凪と、それを追いかける夕霧の、繰り返す冬の話。

されど服飾師の夢を見る

雪華
青春
第6回ライト文芸大賞 奨励賞ありがとうございました! ――怖いと思ってしまった。自分がどの程度で、才能があるのかないのか、実力が試されることも、他人から評価されることも―― 高校二年生の啓介には密かな夢があった。 「服飾デザイナーになりたい」 しかしそれはあまりにも高望みで無謀なことのように思え、挑戦する前から諦めていた。 それでも思いが断ち切れず、「少し見るだけ」のつもりで訪れた国内最高峰の服飾大学オープンカレッジ。 ひょんなことから、学園コンテストでショーモデルを務めることになった。 そこで目にしたのは、臆病で慎重で大胆で負けず嫌いな生徒たちが、己の才能を駆使してステージ上で競い合う姿。 それでもここは、まだ井戸の中だと先輩は言う―――― 正解も不正解の判断も自分だけが頼りの世界。 才能のある者達が更に努力を積み重ねてしのぎを削る大きな海へ、船を出す事は出来るのだろうか。

ハイブリッド・ブレイン

青木ぬかり
ミステリー
「人とアリ、命の永さは同じだよ。……たぶん」  14歳女子の死、その理由に迫る物語です。

【完結・BL】胃袋と掴まれただけでなく、心も身体も掴まれそうなんだが!?【弁当屋×サラリーマン】

彩華
BL
 俺の名前は水野圭。年は25。 自慢じゃないが、年齢=彼女いない歴。まだ魔法使いになるまでには、余裕がある年。人並の人生を歩んでいるが、これといった楽しみが無い。ただ食べることは好きなので、せめて夕食くらいは……と美味しい弁当を買ったりしているつもりだが!(結局弁当なのかというのは、お愛嬌ということで) だがそんなある日。いつものスーパーで弁当を買えなかった俺はワンチャンいつもと違う店に寄ってみたが……────。 凄い! 美味そうな弁当が並んでいる!  凄い! 店員もイケメン! と、実は穴場? な店を見つけたわけで。 (今度からこの店で弁当を買おう) 浮かれていた俺は、夕飯は美味い弁当を食べれてハッピ~! な日々。店員さんにも顔を覚えられ、名前を聞かれ……? 「胃袋掴みたいなぁ」 その一言が、どんな意味があったなんて、俺は知る由もなかった。 ****** そんな感じの健全なBLを緩く、短く出来ればいいなと思っています お気軽にコメント頂けると嬉しいです ■表紙お借りしました

復讐のための五つの方法

炭田おと
恋愛
 皇后として皇帝カエキリウスのもとに嫁いだイネスは、カエキリウスに愛人ルジェナがいることを知った。皇宮ではルジェナが権威を誇示していて、イネスは肩身が狭い思いをすることになる。  それでも耐えていたイネスだったが、父親に反逆の罪を着せられ、家族も、彼女自身も、処断されることが決まった。  グレゴリウス卿の手を借りて、一人生き残ったイネスは復讐を誓う。  72話で完結です。

後宮の胡蝶 ~皇帝陛下の秘密の妃~

菱沼あゆ
キャラ文芸
 突然の譲位により、若き皇帝となった苑楊は封印されているはずの宮殿で女官らしき娘、洋蘭と出会う。  洋蘭はこの宮殿の牢に住む老人の世話をしているのだと言う。  天女のごとき外見と豊富な知識を持つ洋蘭に心惹かれはじめる苑楊だったが。  洋蘭はまったく思い通りにならないうえに、なにかが怪しい女だった――。  中華後宮ラブコメディ。

処理中です...