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橘くんとのサシ飲みは、初めてと思えないほど驚くほどリラックスできた。
それは僕らの信頼関係云々よりも、彼のコミュニケーション能力によるところが大きいと思う。
僕の下手な言葉を優しく拾い上げ、柔らかな沈黙は静かに微笑んでグラスを傾ける。
互いに言葉を口にせずに目を合わせている時間は妙な幸福感があって、まるで恋人同士になったような気がした。
理性が酒に溶けていくと、身も心も任せて甘い空気に染まりたい衝動がじわじわと胸に膨らんでいく。今さらそんなこと、馬鹿げている。そう分かっているのに、僕の心を浮き立たせるアルコールと、目が合うや優しく微笑む橘くんの表情が、まるで初恋をやり直しているような錯覚に陥らせていた。
僕はその誘惑から逃れようとするように、いつもよりも早いペースで杯を重ねていた。
おちょこを傾けてあっという顔をした僕を見て、橘くんが口を開く。
「もう、空いてる?」
「あ、うん……次は」
何にする。
僕はそう聞こうとして、つい引き寄せられる目を彼から離そうと、立てかけたドリンクメニューに手を伸ばした。
その手を、大きな手が包む。
びくりと、肩が震えた。
同時に、心臓が暴れ出す。
馬鹿な。
男同士なのに、どうしてそんなに、動揺する必要があるんだ。
橘くんだって――きっと。
アルコールで熱を持った喉が、妙に乾いていた。ごくりと唾を飲み込んで、おそるおそる、橘くんの顔に目を向ける。
橘くんの微笑みは、ただただ穏やかで紳士的だった。
……泣きそうなほどに、優しい微笑み。
「飲み過ぎ。もう、やめておいた方がいいよ」
橘くんの敬語は、知らないうちに取れていた。だから僕に、恋人のような錯覚を起こさせるのだと気づく。
冗談めかして指摘しようかと開き書けた口は、そのままゆっくり引き結んだ。
可能性が、あったんだろうか。
八割方、アルコールに溶けた脳。
その残り二割が、僕に問いかける。
彼と、僕が、こうして、二人で過ごす可能性が。
僕の選ぶ道次第では、あったんだろうか。
橘くんと――恋人になる、可能性が。
喉の奥に、涙の気配を感じて飲み込んだ。
目を逸らし、うつむく。思わず、机の上に置かれた彼の左手を見た。
その指には、何の装飾もない。
僕の左手に添えられた右手にも、何もない。
彼の手の下で、僕は指を握りこみ、親指で自分の薬指を撫でた。
二週間前、彼女と試着した結婚指輪の感触を思い出す。
固くてきれいなプラチナリングは、気恥ずかしさや喜びと同時に、緊張と不安を抱かせた。
ショーケースから取り出され、僕の指にはめられるや、それは僕の体温をわずかに、でも確実に奪っていって。
直感的に、怖い、とすら、思った。
おそろいのリングを、照れくさそうな笑顔で掲げる彼女を見て、僕はようやく、笑うことができた。
あのとき僕は、一瞬だけ、思ったのだ。
その小さな指輪が、これから、僕の人生を縛りつけるものなのだと。
実際には、そうじゃない。指輪なんてオマケに過ぎない。僕はこれからを、彼女と生きていく。その印として、その小さな輪を指にはめる。ただそれだけのことだ。
僕らの将来は、穏やかで優しい姿で、僕の前にたたずんでいるはず――
僕ははっとして、手を引いた。
橘くんの手が、わずかに、僕の薬指を撫でたような気がしたからだ。
自分の膝上に手を引っ込めてから、そんな自分にうろたえる。
橘くんが僕の手を撫でるだなんて、そんなことあるわけがないのに。
あったとしても、別に何の意図があったはずもない。
自意識過剰にもほどがある。
気恥ずかしさに、うつむいたまま唇を引き結んだ。
「……すみません」
小さな声がして、はっと息を止めた。
目だけを上げると、橘くんが、気まずそうに目を逸らしたような気がする。
「お茶、頼みましょう。ウーロン茶でいいっすか?」
一瞬前の気まずさなどなかったかのように、橘くんは笑った。
僕の勘違いだったんだろうか。
アルコールのせいで落ち着かない動悸が、頭の中心で鐘のように鳴り響いている。
とっさに口が利けなくなってこくこくうなずいた僕に、橘くんは微笑んで手を挙げた。
店員がはいと気前のいい声で近づいて来る。橘くんは店に入ったときと同じ快活な笑顔でウーロン茶を二つ注文した。
その横顔をじっと見ていた僕は、橘くんがこちらに向き直るのに合わせて目を泳がせた。
期待めいたものが胸に浮かんでは、常識と理性が心の中に押し込める。春風のように心をかき回す困惑の気配を、僕はじっと、自分の手を見つめてやり過ごす。
「うち、父よりも、父の弟の結婚が先だったんですけどね」
立ち働く店員の姿を眺めながら、橘くんは唐突に話し始めた。
「その結婚式に、母が父に、結婚指輪をつけて行かせたらしくて。まだ婚約しただけなのに」
笑みを含んだ横顔は、両親への親愛を思わせる。
妹の話も出てくるくらいだから、仲のいい家族なのだろう。そうは思ったけれど、その話題を口にした彼の意図が分からないまま、僕はあいづちを打った。
「――確かに、男にも、婚約指輪って必要かもしれませんね」
橘くんはようやく僕の方を向き直り、大人びた顔で笑った。
それは僕らの信頼関係云々よりも、彼のコミュニケーション能力によるところが大きいと思う。
僕の下手な言葉を優しく拾い上げ、柔らかな沈黙は静かに微笑んでグラスを傾ける。
互いに言葉を口にせずに目を合わせている時間は妙な幸福感があって、まるで恋人同士になったような気がした。
理性が酒に溶けていくと、身も心も任せて甘い空気に染まりたい衝動がじわじわと胸に膨らんでいく。今さらそんなこと、馬鹿げている。そう分かっているのに、僕の心を浮き立たせるアルコールと、目が合うや優しく微笑む橘くんの表情が、まるで初恋をやり直しているような錯覚に陥らせていた。
僕はその誘惑から逃れようとするように、いつもよりも早いペースで杯を重ねていた。
おちょこを傾けてあっという顔をした僕を見て、橘くんが口を開く。
「もう、空いてる?」
「あ、うん……次は」
何にする。
僕はそう聞こうとして、つい引き寄せられる目を彼から離そうと、立てかけたドリンクメニューに手を伸ばした。
その手を、大きな手が包む。
びくりと、肩が震えた。
同時に、心臓が暴れ出す。
馬鹿な。
男同士なのに、どうしてそんなに、動揺する必要があるんだ。
橘くんだって――きっと。
アルコールで熱を持った喉が、妙に乾いていた。ごくりと唾を飲み込んで、おそるおそる、橘くんの顔に目を向ける。
橘くんの微笑みは、ただただ穏やかで紳士的だった。
……泣きそうなほどに、優しい微笑み。
「飲み過ぎ。もう、やめておいた方がいいよ」
橘くんの敬語は、知らないうちに取れていた。だから僕に、恋人のような錯覚を起こさせるのだと気づく。
冗談めかして指摘しようかと開き書けた口は、そのままゆっくり引き結んだ。
可能性が、あったんだろうか。
八割方、アルコールに溶けた脳。
その残り二割が、僕に問いかける。
彼と、僕が、こうして、二人で過ごす可能性が。
僕の選ぶ道次第では、あったんだろうか。
橘くんと――恋人になる、可能性が。
喉の奥に、涙の気配を感じて飲み込んだ。
目を逸らし、うつむく。思わず、机の上に置かれた彼の左手を見た。
その指には、何の装飾もない。
僕の左手に添えられた右手にも、何もない。
彼の手の下で、僕は指を握りこみ、親指で自分の薬指を撫でた。
二週間前、彼女と試着した結婚指輪の感触を思い出す。
固くてきれいなプラチナリングは、気恥ずかしさや喜びと同時に、緊張と不安を抱かせた。
ショーケースから取り出され、僕の指にはめられるや、それは僕の体温をわずかに、でも確実に奪っていって。
直感的に、怖い、とすら、思った。
おそろいのリングを、照れくさそうな笑顔で掲げる彼女を見て、僕はようやく、笑うことができた。
あのとき僕は、一瞬だけ、思ったのだ。
その小さな指輪が、これから、僕の人生を縛りつけるものなのだと。
実際には、そうじゃない。指輪なんてオマケに過ぎない。僕はこれからを、彼女と生きていく。その印として、その小さな輪を指にはめる。ただそれだけのことだ。
僕らの将来は、穏やかで優しい姿で、僕の前にたたずんでいるはず――
僕ははっとして、手を引いた。
橘くんの手が、わずかに、僕の薬指を撫でたような気がしたからだ。
自分の膝上に手を引っ込めてから、そんな自分にうろたえる。
橘くんが僕の手を撫でるだなんて、そんなことあるわけがないのに。
あったとしても、別に何の意図があったはずもない。
自意識過剰にもほどがある。
気恥ずかしさに、うつむいたまま唇を引き結んだ。
「……すみません」
小さな声がして、はっと息を止めた。
目だけを上げると、橘くんが、気まずそうに目を逸らしたような気がする。
「お茶、頼みましょう。ウーロン茶でいいっすか?」
一瞬前の気まずさなどなかったかのように、橘くんは笑った。
僕の勘違いだったんだろうか。
アルコールのせいで落ち着かない動悸が、頭の中心で鐘のように鳴り響いている。
とっさに口が利けなくなってこくこくうなずいた僕に、橘くんは微笑んで手を挙げた。
店員がはいと気前のいい声で近づいて来る。橘くんは店に入ったときと同じ快活な笑顔でウーロン茶を二つ注文した。
その横顔をじっと見ていた僕は、橘くんがこちらに向き直るのに合わせて目を泳がせた。
期待めいたものが胸に浮かんでは、常識と理性が心の中に押し込める。春風のように心をかき回す困惑の気配を、僕はじっと、自分の手を見つめてやり過ごす。
「うち、父よりも、父の弟の結婚が先だったんですけどね」
立ち働く店員の姿を眺めながら、橘くんは唐突に話し始めた。
「その結婚式に、母が父に、結婚指輪をつけて行かせたらしくて。まだ婚約しただけなのに」
笑みを含んだ横顔は、両親への親愛を思わせる。
妹の話も出てくるくらいだから、仲のいい家族なのだろう。そうは思ったけれど、その話題を口にした彼の意図が分からないまま、僕はあいづちを打った。
「――確かに、男にも、婚約指輪って必要かもしれませんね」
橘くんはようやく僕の方を向き直り、大人びた顔で笑った。
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