色づく景色に君がいた

松丹子

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 橘くんが淹れてくれたコーヒーは、本当においしかった。
 聞けば、インスタントを溶かすのではなくて、ドリップで淹れていたらしい。
 少し値は張るけれど美味しいからと、橘くんのこだわりだったようだ。
 時間はもう、店じまいに近づいていた。受付は終わったからと、手の空いた橘くんは数言、僕と会話を交わした。
 武道場以外の場所で交わした会話の中で、たぶんこれが一番長かったと思うのに、何を話したのかは全然覚えていない。
 僕はその間、ずっとふわふわと、宙に漂っているような感覚を抱いていた。
 一杯のコーヒーを飲み終わり、「ありがとうございました」と頭を下げると、橘くんはいたずらっぽく笑った。

「行ってらっしゃいませ、お坊ちゃま」

 ああそうか、執事喫茶だから。
 そう思って、僕は笑った。

「うん、行ってきます」

 照れくさくて、嬉しかった。行ってらっしゃい、行ってきます。そんな挨拶を交わすのは家族ばかりだった僕に、橘くんはこのときだけ、少し身近な存在に思えた。
 そうして教室を出て、僕はまた日常に戻った。橘くんはそれ以降も、これといって近づくこともなく、遠ざかることもなかったけれど、目が合えば微笑み合うようにはなった。
 そうなってようやく、僕は気づいた。それまで、目が合うと僕がどぎまぎしてすぐに逸らすか、会釈でごまかしていたのだけれど、橘くんはちゃんと、僕に微笑みかけてくれていたんだってこと。
 橘くんを見かけると、なんだか気分がよかった。朝会えば今日はツイてると思えたし、昼に会えば午後がんばろうと思えた。午後に会えば明日も会えるかなと期待したし、一日会えない日には、今日は味気ない一日だったと落ち込んだりもした。
 それがどういう感情なのか、僕はあまり考えないようにしていた。

 別に、自分の気持ちを否定してたわけでも、認めようとしなかったのでもない。きっとそれは、僕が女であっても、同じことだったと思う。
 なぜって、彼と僕の接点の一つ一つは、あまりに小さすぎて、これという決定打に欠けていたから。

 すらりと高い背。がっちりした肩と背中。引き締まった臀部。
 その上に乗った小さな頭。切りそろえられた短髪、やや細めに整えられた眉毛。吊り目がちな、猫のような愛嬌のある目。常に余裕ありげな微笑が浮かんでいる口元。
 彼は誰もの目を引いた。僕だけじゃない。女子も男子も、先生も生徒も関係なく、彼は人気があった。
 僕だけじゃない。誰でもそうなのだ。
 彼は誰に対しても、そういう気持ちにさせる、磁石みたいな吸引力がある。
 だから、僕は僕の気持ちが、特別なものだと思いきれなかった。

 少しでも近くにいたくて、一声かけられれば有頂天になる。
 ときどき目が合って、視線を交わした1秒後に微笑まれれば、それだけで胸が高鳴る――

 そんな気持ちに名前をつけるなら、これこそまさに恋というものなのだと――自覚したのは受験のまっただ中だった。
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