8 / 14
.07
しおりを挟む
橘くんが淹れてくれたコーヒーは、本当においしかった。
聞けば、インスタントを溶かすのではなくて、ドリップで淹れていたらしい。
少し値は張るけれど美味しいからと、橘くんのこだわりだったようだ。
時間はもう、店じまいに近づいていた。受付は終わったからと、手の空いた橘くんは数言、僕と会話を交わした。
武道場以外の場所で交わした会話の中で、たぶんこれが一番長かったと思うのに、何を話したのかは全然覚えていない。
僕はその間、ずっとふわふわと、宙に漂っているような感覚を抱いていた。
一杯のコーヒーを飲み終わり、「ありがとうございました」と頭を下げると、橘くんはいたずらっぽく笑った。
「行ってらっしゃいませ、お坊ちゃま」
ああそうか、執事喫茶だから。
そう思って、僕は笑った。
「うん、行ってきます」
照れくさくて、嬉しかった。行ってらっしゃい、行ってきます。そんな挨拶を交わすのは家族ばかりだった僕に、橘くんはこのときだけ、少し身近な存在に思えた。
そうして教室を出て、僕はまた日常に戻った。橘くんはそれ以降も、これといって近づくこともなく、遠ざかることもなかったけれど、目が合えば微笑み合うようにはなった。
そうなってようやく、僕は気づいた。それまで、目が合うと僕がどぎまぎしてすぐに逸らすか、会釈でごまかしていたのだけれど、橘くんはちゃんと、僕に微笑みかけてくれていたんだってこと。
橘くんを見かけると、なんだか気分がよかった。朝会えば今日はツイてると思えたし、昼に会えば午後がんばろうと思えた。午後に会えば明日も会えるかなと期待したし、一日会えない日には、今日は味気ない一日だったと落ち込んだりもした。
それがどういう感情なのか、僕はあまり考えないようにしていた。
別に、自分の気持ちを否定してたわけでも、認めようとしなかったのでもない。きっとそれは、僕が女であっても、同じことだったと思う。
なぜって、彼と僕の接点の一つ一つは、あまりに小さすぎて、これという決定打に欠けていたから。
すらりと高い背。がっちりした肩と背中。引き締まった臀部。
その上に乗った小さな頭。切りそろえられた短髪、やや細めに整えられた眉毛。吊り目がちな、猫のような愛嬌のある目。常に余裕ありげな微笑が浮かんでいる口元。
彼は誰もの目を引いた。僕だけじゃない。女子も男子も、先生も生徒も関係なく、彼は人気があった。
僕だけじゃない。誰でもそうなのだ。
彼は誰に対しても、そういう気持ちにさせる、磁石みたいな吸引力がある。
だから、僕は僕の気持ちが、特別なものだと思いきれなかった。
少しでも近くにいたくて、一声かけられれば有頂天になる。
ときどき目が合って、視線を交わした1秒後に微笑まれれば、それだけで胸が高鳴る――
そんな気持ちに名前をつけるなら、これこそまさに恋というものなのだと――自覚したのは受験のまっただ中だった。
聞けば、インスタントを溶かすのではなくて、ドリップで淹れていたらしい。
少し値は張るけれど美味しいからと、橘くんのこだわりだったようだ。
時間はもう、店じまいに近づいていた。受付は終わったからと、手の空いた橘くんは数言、僕と会話を交わした。
武道場以外の場所で交わした会話の中で、たぶんこれが一番長かったと思うのに、何を話したのかは全然覚えていない。
僕はその間、ずっとふわふわと、宙に漂っているような感覚を抱いていた。
一杯のコーヒーを飲み終わり、「ありがとうございました」と頭を下げると、橘くんはいたずらっぽく笑った。
「行ってらっしゃいませ、お坊ちゃま」
ああそうか、執事喫茶だから。
そう思って、僕は笑った。
「うん、行ってきます」
照れくさくて、嬉しかった。行ってらっしゃい、行ってきます。そんな挨拶を交わすのは家族ばかりだった僕に、橘くんはこのときだけ、少し身近な存在に思えた。
そうして教室を出て、僕はまた日常に戻った。橘くんはそれ以降も、これといって近づくこともなく、遠ざかることもなかったけれど、目が合えば微笑み合うようにはなった。
そうなってようやく、僕は気づいた。それまで、目が合うと僕がどぎまぎしてすぐに逸らすか、会釈でごまかしていたのだけれど、橘くんはちゃんと、僕に微笑みかけてくれていたんだってこと。
橘くんを見かけると、なんだか気分がよかった。朝会えば今日はツイてると思えたし、昼に会えば午後がんばろうと思えた。午後に会えば明日も会えるかなと期待したし、一日会えない日には、今日は味気ない一日だったと落ち込んだりもした。
それがどういう感情なのか、僕はあまり考えないようにしていた。
別に、自分の気持ちを否定してたわけでも、認めようとしなかったのでもない。きっとそれは、僕が女であっても、同じことだったと思う。
なぜって、彼と僕の接点の一つ一つは、あまりに小さすぎて、これという決定打に欠けていたから。
すらりと高い背。がっちりした肩と背中。引き締まった臀部。
その上に乗った小さな頭。切りそろえられた短髪、やや細めに整えられた眉毛。吊り目がちな、猫のような愛嬌のある目。常に余裕ありげな微笑が浮かんでいる口元。
彼は誰もの目を引いた。僕だけじゃない。女子も男子も、先生も生徒も関係なく、彼は人気があった。
僕だけじゃない。誰でもそうなのだ。
彼は誰に対しても、そういう気持ちにさせる、磁石みたいな吸引力がある。
だから、僕は僕の気持ちが、特別なものだと思いきれなかった。
少しでも近くにいたくて、一声かけられれば有頂天になる。
ときどき目が合って、視線を交わした1秒後に微笑まれれば、それだけで胸が高鳴る――
そんな気持ちに名前をつけるなら、これこそまさに恋というものなのだと――自覚したのは受験のまっただ中だった。
0
お気に入りに追加
25
あなたにおすすめの小説
私の入る余地なんてないことはわかってる。だけど……。
さくしゃ
恋愛
キャロルは知っていた。
許嫁であるリオンと、親友のサンが互いを想い合っていることを。
幼い頃からずっと想ってきたリオン、失いたくない大切な親友であるサン。キャロルは苦悩の末に、リオンへの想いを封じ、身を引くと決めていた——はずだった。
(ああ、もう、)
やり過ごせると思ってた。でも、そんなことを言われたら。
(ずるいよ……)
リオンはサンのことだけを見ていると思っていた。けれど——違った。
こんな私なんかのことを。
友情と恋情の狭間で揺れ動くキャロル、リオン、サンの想い。
彼らが最後に選ぶ答えとは——?
⚠️好みが非常に分かれる作品となっております。
明日のために、昨日にサヨナラ(goodbye,hello)
松丹子
恋愛
スパダリな父、優しい長兄、愛想のいい次兄、チャラい従兄に囲まれて、男に抱く理想が高くなってしまった女子高生、橘礼奈。
平凡な自分に見合うフツーな高校生活をエンジョイしようと…思っているはずなのに、幼い頃から抱いていた淡い想いを自覚せざるを得なくなり……
恋愛、家族愛、友情、部活に進路……
緩やかでほんのり甘い青春模様。
*関連作品は下記の通りです。単体でお読みいただけるようにしているつもりです(が、ひたすらキャラクターが多いのであまりオススメできません…)
★展開の都合上、礼奈の誕生日は親世代の作品と齟齬があります。一種のパラレルワールドとしてご了承いただければ幸いです。
*関連作品
『神崎くんは残念なイケメン』(香子視点)
『モテ男とデキ女の奥手な恋』(政人視点)
上記二作を読めばキャラクターは押さえられると思います。
(以降、時系列順『物狂ほしや色と情』、『期待ハズレな吉田さん、自由人な前田くん』、『さくやこの』、『爆走織姫はやさぐれ彦星と結ばれたい』、『色ハくれなゐ 情ハ愛』、『初恋旅行に出かけます』)
冬の水葬
束原ミヤコ
青春
夕霧七瀬(ユウギリナナセ)は、一つ年上の幼なじみ、凪蓮水(ナギハスミ)が好き。
凪が高校生になってから疎遠になってしまっていたけれど、ずっと好きだった。
高校一年生になった夕霧は、凪と同じ高校に通えることを楽しみにしていた。
美術部の凪を追いかけて美術部に入り、気安い幼なじみの間柄に戻ることができたと思っていた――
けれど、そのときにはすでに、凪の心には消えない傷ができてしまっていた。
ある女性に捕らわれた凪と、それを追いかける夕霧の、繰り返す冬の話。
されど服飾師の夢を見る
雪華
青春
第6回ライト文芸大賞 奨励賞ありがとうございました!
――怖いと思ってしまった。自分がどの程度で、才能があるのかないのか、実力が試されることも、他人から評価されることも――
高校二年生の啓介には密かな夢があった。
「服飾デザイナーになりたい」
しかしそれはあまりにも高望みで無謀なことのように思え、挑戦する前から諦めていた。
それでも思いが断ち切れず、「少し見るだけ」のつもりで訪れた国内最高峰の服飾大学オープンカレッジ。
ひょんなことから、学園コンテストでショーモデルを務めることになった。
そこで目にしたのは、臆病で慎重で大胆で負けず嫌いな生徒たちが、己の才能を駆使してステージ上で競い合う姿。
それでもここは、まだ井戸の中だと先輩は言う――――
正解も不正解の判断も自分だけが頼りの世界。
才能のある者達が更に努力を積み重ねてしのぎを削る大きな海へ、船を出す事は出来るのだろうか。
【完結・BL】胃袋と掴まれただけでなく、心も身体も掴まれそうなんだが!?【弁当屋×サラリーマン】
彩華
BL
俺の名前は水野圭。年は25。
自慢じゃないが、年齢=彼女いない歴。まだ魔法使いになるまでには、余裕がある年。人並の人生を歩んでいるが、これといった楽しみが無い。ただ食べることは好きなので、せめて夕食くらいは……と美味しい弁当を買ったりしているつもりだが!(結局弁当なのかというのは、お愛嬌ということで)
だがそんなある日。いつものスーパーで弁当を買えなかった俺はワンチャンいつもと違う店に寄ってみたが……────。
凄い! 美味そうな弁当が並んでいる!
凄い! 店員もイケメン!
と、実は穴場? な店を見つけたわけで。
(今度からこの店で弁当を買おう)
浮かれていた俺は、夕飯は美味い弁当を食べれてハッピ~! な日々。店員さんにも顔を覚えられ、名前を聞かれ……?
「胃袋掴みたいなぁ」
その一言が、どんな意味があったなんて、俺は知る由もなかった。
******
そんな感じの健全なBLを緩く、短く出来ればいいなと思っています
お気軽にコメント頂けると嬉しいです
■表紙お借りしました
復讐のための五つの方法
炭田おと
恋愛
皇后として皇帝カエキリウスのもとに嫁いだイネスは、カエキリウスに愛人ルジェナがいることを知った。皇宮ではルジェナが権威を誇示していて、イネスは肩身が狭い思いをすることになる。
それでも耐えていたイネスだったが、父親に反逆の罪を着せられ、家族も、彼女自身も、処断されることが決まった。
グレゴリウス卿の手を借りて、一人生き残ったイネスは復讐を誓う。
72話で完結です。
敏腕セールスの移住
ハリマオ65
現代文学
*移住先で仕事のスキルを活かし事業に成功するが、危機が迫る。災害は、忘れた頃にやって来る!!
陰山一郎は敏腕の車セールスで奥さんと3人の子供、稼ぎが良くても都会での生活は苦しい。この年の夏、山陰に出かけ自然の美しさに感動。民宿の主人が、ここでは、10万円もあれば生活できると言われ、奥さんと相談し移住を決め、引越後、公営住宅を借り、田舎での生活がはじまった・・・。その後の活躍については、小説をご覧下さい。小説家になろう、カクヨム、noveldaysに重複投稿中。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる