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9月11日19時30分、都内某駅の改札前。
僕は、彼と会う約束をしている。
どうして今さら彼に会うことにしたのか、僕自身にもよく分からない。新しい生活への船出を前にして、悩んでいるつもりはないけれど、どこか心細さを感じているのかもしれない。
それにしたってなぜ、今さら。
本当に今さらだ。
彼と最後に会ったのは、かれこれ十年は前になる。
……その上、さして話したこともないのに。
何かの会話のはずみで、同級生から彼の噂を聞いた。するといてもたってもいられなくなって、適当な嘘を交えながら連絡先を辿り、散々悩んだ挙げ句、思いきってメッセージを送った。
受け取った彼は、どんな顔でそれを見たのだろう。首を傾げたかもしれない。少なくとも、なぜ今さら、とは思っただろう。
そう思うけれど、別段嫌がる風もなく、こうして今日、僕と会おうとしてくれている。
夏の終わりを告げる夕風が、ふわりと僕の髪を撫でていく。
十年。そうか、あれからもう、十年も経つのか。
あらためてそう気づいた。
学年も部活も違う彼と僕に、共有できる思い出の品は何もない。僕の卒業アルバムをいくらめくってみても、彼は登場しない。たぶん彼の卒業アルバムをめくっても、僕は写っていないだろう。
在学時には誰よりも人目を引いた彼が、校内風景に全く含まれないのは、一種の情報操作のようにも思えた。
そういう滑稽さを、この世の中はあらゆるところで孕んでいる――社会に出て、少し世間に揉まれた今や、僕もそう知っている。
改札口の上に吊るされたアナログ時計の針がカチリと触れた。
もうすぐ、彼が着く。
不意に、不安と困惑が膨れ上がった。
うつむくように、着慣れたスーツを見下ろした。就職後、初めて自分のお金で買ったスーツ。二年ほど着ていて身体に馴染んではいるけれど、くたびれたようには見えないだろうか。
それに、と頭がぐるぐる動き出す。
今日は思いの外いい天気だったから、昼に汗をかいてしまった。ワイシャツには汗が染み込んでいるだろう。
臭いかもしれないから、ジャケットは脱がないようにしよう。
うつむいたまま、眉を寄せる。
そもそも……彼には僕が分かるだろうか。互いに、写真だって、一枚も持っていないのだ。
僕は彼を目にしたらすぐ分かる自信があるけれど、それは彼が、どこにいても人目を引く男だと分かっているからだ。実際、彼にばったり会ったと話してくれた同級生は「昔と変わらなかった、むしろ昔よりも目立つ男になってた」と言っていたくらいだし。
一方の僕は、ひたすらに平凡だった。当時も今も変わらず、顔立ち、体格、その他に至るまで平凡だ。他人の印象に残るようなところは何もない。
なにか目印でも持ってくるべきだったか。思わずビジネスバッグの中を探る。以前、妹がウェブ上での知り合いと初めて会うとき、赤いハンカチを鞄に巻いて目印にしたと聞いたのを思い出したけれど、当然この土壇場で、そんな気の効いたものは持ち合わせていない。
電車が着いたらしい。閑散としていた改札に、わらわらと人波が押し寄せる。
――来るだろうか、彼は。
ごくりと、喉が鳴った。
待ち合わせ時間まではまだある。次の電車かもしれない。心臓が高鳴る。そういえば、僕は今日、彼と初めて二人で出かけるのだ。――馬鹿だな、今さら僕は、ほんとうにいったい何を――
やや混乱気味の思考が、改札から出てきたその姿を目にした瞬間、真っ白に消え去った。
彼が一歩一歩近づいてくるたび、僕の奥深くにあった淡い記憶が鮮やかによみがえる――騒がしくなる胸の鼓動と共に。
「――お久しぶりです」
う、わ。
確かに、彼は変わらなかった。いや、友人の言ったように、昔以上にいい男になっていた。
あつらえたように身体に合ったスーツ。昔よりも長くなった髪はこざっぱりと整えられ、顔には爽やかな笑みが浮かんでいる。
耳障りのいい挨拶に、僕は動転しながらも口を開いた。
「ひ、久しぶり」
僕の声のうわずりに気づいたのか、彼は声を出さずに笑った。細められた目がひどく優しくて、それが記憶に残った貴重な笑顔とリンクする。
美化されているだけかもしれないと思ったその顔は、寸分変わらず――いや、記憶以上に華やかで。
「先輩、変わんないっすね」
そう言う口調は少年のようだ。
僕の緊張を察して、あえてざっくばらんにしてくれたらしかった。
僕はあらためて、唾を飲み込む。
「そっちは……一回り小さくなったね」
切り返すと、今度は笑い声が返ってきた。
僕はそこでようやく、彼をまっすぐ見返せた。
彼も僕に会うことを楽しみにしてくれていたのだ――笑い声から、そう分かったからだ。
「でも……スーツ、似合うよ」
ふわりと浮き立った気持ちで、素直な賛辞を口にする。
お世辞じゃなくて本音だ。けれど、彼はまた剽軽めかして肩を上げた。
「まあ俺、何着ても似合うんで」
「確かにね」
否定せずにうなずくと、また耳障りのいい笑い声が返ってくる。さわさわと落ち着かないような感覚と、このままここに留まりたいような居心地のよさ。
ああそうだ、と思い出す。
彼は、確かに人目を引く容姿をしている。――けれど、それだけじゃなくて。
「行きましょうか」
僕が頷くと、彼が歩き出す。一回り筋肉の落ちた、けれどスーツの似合う肩を、斜め後ろから眺める。道を歩きながらときどき彼は振り返って僕を見、微笑んではまた前を向いた。
十年の時を経た今も、僕は彼を、当時と同じように恍惚とした表情で見ている。
そんな自分を、自覚していた。
僕は、彼と会う約束をしている。
どうして今さら彼に会うことにしたのか、僕自身にもよく分からない。新しい生活への船出を前にして、悩んでいるつもりはないけれど、どこか心細さを感じているのかもしれない。
それにしたってなぜ、今さら。
本当に今さらだ。
彼と最後に会ったのは、かれこれ十年は前になる。
……その上、さして話したこともないのに。
何かの会話のはずみで、同級生から彼の噂を聞いた。するといてもたってもいられなくなって、適当な嘘を交えながら連絡先を辿り、散々悩んだ挙げ句、思いきってメッセージを送った。
受け取った彼は、どんな顔でそれを見たのだろう。首を傾げたかもしれない。少なくとも、なぜ今さら、とは思っただろう。
そう思うけれど、別段嫌がる風もなく、こうして今日、僕と会おうとしてくれている。
夏の終わりを告げる夕風が、ふわりと僕の髪を撫でていく。
十年。そうか、あれからもう、十年も経つのか。
あらためてそう気づいた。
学年も部活も違う彼と僕に、共有できる思い出の品は何もない。僕の卒業アルバムをいくらめくってみても、彼は登場しない。たぶん彼の卒業アルバムをめくっても、僕は写っていないだろう。
在学時には誰よりも人目を引いた彼が、校内風景に全く含まれないのは、一種の情報操作のようにも思えた。
そういう滑稽さを、この世の中はあらゆるところで孕んでいる――社会に出て、少し世間に揉まれた今や、僕もそう知っている。
改札口の上に吊るされたアナログ時計の針がカチリと触れた。
もうすぐ、彼が着く。
不意に、不安と困惑が膨れ上がった。
うつむくように、着慣れたスーツを見下ろした。就職後、初めて自分のお金で買ったスーツ。二年ほど着ていて身体に馴染んではいるけれど、くたびれたようには見えないだろうか。
それに、と頭がぐるぐる動き出す。
今日は思いの外いい天気だったから、昼に汗をかいてしまった。ワイシャツには汗が染み込んでいるだろう。
臭いかもしれないから、ジャケットは脱がないようにしよう。
うつむいたまま、眉を寄せる。
そもそも……彼には僕が分かるだろうか。互いに、写真だって、一枚も持っていないのだ。
僕は彼を目にしたらすぐ分かる自信があるけれど、それは彼が、どこにいても人目を引く男だと分かっているからだ。実際、彼にばったり会ったと話してくれた同級生は「昔と変わらなかった、むしろ昔よりも目立つ男になってた」と言っていたくらいだし。
一方の僕は、ひたすらに平凡だった。当時も今も変わらず、顔立ち、体格、その他に至るまで平凡だ。他人の印象に残るようなところは何もない。
なにか目印でも持ってくるべきだったか。思わずビジネスバッグの中を探る。以前、妹がウェブ上での知り合いと初めて会うとき、赤いハンカチを鞄に巻いて目印にしたと聞いたのを思い出したけれど、当然この土壇場で、そんな気の効いたものは持ち合わせていない。
電車が着いたらしい。閑散としていた改札に、わらわらと人波が押し寄せる。
――来るだろうか、彼は。
ごくりと、喉が鳴った。
待ち合わせ時間まではまだある。次の電車かもしれない。心臓が高鳴る。そういえば、僕は今日、彼と初めて二人で出かけるのだ。――馬鹿だな、今さら僕は、ほんとうにいったい何を――
やや混乱気味の思考が、改札から出てきたその姿を目にした瞬間、真っ白に消え去った。
彼が一歩一歩近づいてくるたび、僕の奥深くにあった淡い記憶が鮮やかによみがえる――騒がしくなる胸の鼓動と共に。
「――お久しぶりです」
う、わ。
確かに、彼は変わらなかった。いや、友人の言ったように、昔以上にいい男になっていた。
あつらえたように身体に合ったスーツ。昔よりも長くなった髪はこざっぱりと整えられ、顔には爽やかな笑みが浮かんでいる。
耳障りのいい挨拶に、僕は動転しながらも口を開いた。
「ひ、久しぶり」
僕の声のうわずりに気づいたのか、彼は声を出さずに笑った。細められた目がひどく優しくて、それが記憶に残った貴重な笑顔とリンクする。
美化されているだけかもしれないと思ったその顔は、寸分変わらず――いや、記憶以上に華やかで。
「先輩、変わんないっすね」
そう言う口調は少年のようだ。
僕の緊張を察して、あえてざっくばらんにしてくれたらしかった。
僕はあらためて、唾を飲み込む。
「そっちは……一回り小さくなったね」
切り返すと、今度は笑い声が返ってきた。
僕はそこでようやく、彼をまっすぐ見返せた。
彼も僕に会うことを楽しみにしてくれていたのだ――笑い声から、そう分かったからだ。
「でも……スーツ、似合うよ」
ふわりと浮き立った気持ちで、素直な賛辞を口にする。
お世辞じゃなくて本音だ。けれど、彼はまた剽軽めかして肩を上げた。
「まあ俺、何着ても似合うんで」
「確かにね」
否定せずにうなずくと、また耳障りのいい笑い声が返ってくる。さわさわと落ち着かないような感覚と、このままここに留まりたいような居心地のよさ。
ああそうだ、と思い出す。
彼は、確かに人目を引く容姿をしている。――けれど、それだけじゃなくて。
「行きましょうか」
僕が頷くと、彼が歩き出す。一回り筋肉の落ちた、けれどスーツの似合う肩を、斜め後ろから眺める。道を歩きながらときどき彼は振り返って僕を見、微笑んではまた前を向いた。
十年の時を経た今も、僕は彼を、当時と同じように恍惚とした表情で見ている。
そんな自分を、自覚していた。
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