色づく景色に君がいた

松丹子

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 それがたぶん、僕が初めて、橘くんと話した日のことだ。
 後から考えたらすごくクサい振る舞いなのだけど、そのときの僕はすっかり彼の空気に飲まれてしまっていた。
 というか、全然、違和感がなかったのだ。
 そういうクサい振る舞いが、むしろ自然に見えるのが、橘くんの不思議なところだと思う。

 橘くんが予約してくれていたお店は、創作和食の居酒屋だった。瓦屋根の下に揺れるやまぶき色ののれんをくぐって、ガラガラと引き戸を開ける。その動きに、立て付けの悪い武道場の戸を思い出した。
 木造りのカウンターの中から「へい、らっしゃい」と声がして、前掛けをした店員が振り向いた。

「お一人ですか?」
「いえ、二人。予約した橘です」
「失礼しました。ご案内します」

 髪を三角巾でくくったその青年は、人のよさそうな笑顔で前を歩いた。
 橘くんが目で僕に先に行くよう促したので、カウンターの中の料理人に会釈しながら店員の後に続く。橘くんも後ろからついてきて、二人で奥のテーブル席に腰掛けた。

「ジャケット、預かりますよ」

 五つほど並んだテーブル席の壁には、ハンガーがかかっていた。橘くんに手を差し出されて、一瞬ためらった後、ジャケットを脱いで渡す。ポケットから出したスマホは卓上に置いた。
 橘くんも、ジャケットを壁にかけた。さりげなく、でもきちっとシワを伸ばしているそつのなさを見ていたら、「お飲み物、先にうかがいます」と店員が明るい声を出した。

「ビールでいいですか?」
「うん」
「じゃあ、生二つ」
「かしこまりました!」

 店員の元気な返事に微笑んだ橘くんは、ふぅと息をつきながら腰掛けた。
 先に腰掛けていた僕の目の前に、あおぎ見ていた姿が収まる。
 自然と笑みが浮かんだ。

「……柔道、もうしてないんだね」

 口をついたのは、そんな言葉だった。自分でも意外な話題に、橘くんもまばたきする。唐突だったかと僕は慌てた。

「あ、いやその……手、が見えて」
「ああ」

 橘くんは納得したようにうなずいて、自分の手を眺めた。

「そうですね。高校卒業してからは、してないです。……目的は果たしたかなと思って」
「……目的?」

 柔道をする目的。大会で勝つとか、そういうこと以外に何かあったんだろうか。
 けれど、聞くのはためらわれた。僕と橘くんはそんなに近しい関係じゃない。在学中だって、交わした会話は限られている。
 考えてみれば、ふたりだけで会って、いったい何を話せばいいのだろう。何を話すつもりだったのだろう。
 ここに至ってようやく根本的なことに気づく自分に呆れた。
 橘くんは「そう」とうなずいて、柔らかく目を細めた。その目を見て思う。微笑みは変わらないと思っていたけれど、昔よりも丸くなった。包容力と諦観を手にした大人の表情。

「自分だけじゃない、誰かを守れる男になること」

 橘くんは、机の上で拳を握ったりほどいたりしている。昔よりも薄くなったてのひらは、それでも、何もしてこなかった人よりはぶあつい。

「……かっこいいね」
「ははっ」

 素直に口にした言葉は、橘くんの笑いに一蹴された。笑われてちょっとむっとしたところで、店員がビールを持って来る。

「お待たせしました。生二つです。お通しはホウレンソウの白和えです」

 ビールはジョッキじゃなく、無骨にも見える焼き物に注がれていた。お通しも同じく、ちょっとゴツゴツした器に盛られている。それだけでも、店のこだわりがうかがえた。

「じゃ、とりあえず」
「うん、とりあえず」

 お通しとともに置かれたおしぼりで手を拭くと、それぞれビールを手にした。
 肩の高さに掲げ持って、顔を見合わせる。

「えーと。……後輩との再会を祝して?」
「あはははは」

 橘くんは軽やかに笑ってから、いたずらっぽくにやりとした。「過ぎ去りし青春に」ときざったらしい言葉も彼らしい。僕も笑って、彼のビールに自分のそれを合わせた。
 無骨な器は、がちん、と鈍い音を立てて、僕らの再会を彩った。
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