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次に覚えている橘くんとの思い出は、体育祭の頃だ。
母校の体育祭で一番盛り上がるのは一年男子による仮装ダンス。仮装、とは言うがほとんどが女装だ。おそらく男子校だった旧制高校の名残で、ジェンダー云々が騒がれる昨今どうなのだと思わなくもないが、女子は女子で応援のチアダンスがあるのでそれでいいらしい。
縦割りでのチーム分けになるから、ダンスを踊るのは一年が中心なものの、二年も準備を手伝ったりアドバイスしたりすることになっている。橘くんと同じチームの二年が空手部にもいて、親しげに声をかけ合う姿を見かけるようになっていた。
「あいつ、思った以上にいいやつだよ。ノリもいいし」
そんな風に話す部員に、空手部のメンバーも少しずつ橘くんと打ち解けるようになっていた。
多くの生徒が体育祭の練習と部活に時間を費やす夏休み、僕は午前中の部活を終え、プロテクターの類いの点検で残っていた。終えた頃にはもう十二時を大きく過ぎていて、午後には柔道部の練習があると聞いていたから、そのままカギを渡してしまおうと、誰かが訪れるのを待つことにした。
誰もいない武道場は、見慣れず不思議な感じがした。入り口近くの壁を背にあぐらをかいて、ぼんやりとその場にたたずむ。
開けた窓から吹き抜ける生ぬるい風。目を閉じると、隣の体育館ではバスケ部のドリブルと、スニーカーが床をこする音。グラウンドからは野球部の声が聞こえた。
ゆっくり深呼吸をすると、通る風に混ざり合った汗の匂いがした。ふっと、シャボン系の制汗剤の匂いがして、僕は目を開けた。
柔道部の誰かが来ただろうか。
思って振り向こうとしたら、先にふわりとリネンのワンピースがたなびいた。次いで見えたのはウェーブがかったロングヘア。少し引きあがった口の端。
「……橘くん、なにしてるの?」
「あはははは」
橘くんは笑って、ウィッグの先端を指に絡ませた。猫っぽい目は僕を見て、いたずらっぽく輝いている。
「驚くかなと思ったんですけど。いまいちでしたね」
橘くんはそう言ったけど、実際のところ、僕は結構驚いていた。目が合ったときには心臓がどきんと高鳴ったし、この美人さん誰だろう、って頭をよぎったんだから。
けれど、それは気づかれずに済んだらしい。僕はほっとして、よっこらしょと立ち上がった。
「仮装の準備?」
「あー、まあそんなとこです。ウィッグとワンピースは自分で借りてきましたけど」
「へっ?」
それじゃ、ただの女装じゃないか。
そう言いかけて口をつぐんだ。性別が自意識に混在する人というのも世の中にはいる。僕はそれに対して偏見を持っているつもりもないけれど、橘くんがそうである可能性だってあるのだ――
ふっとそんなことを思った僕を、整った顔がのぞきこんだ。
「先輩。今、俺が女装好きなのかって考えてません? 違いますからね」
その顔は完全に僕の反応を面白がっている。僕はむっとしてわずかにあごを引いた。
「……別に、そんなの個人の自由だし。君がどうであろうと、俺には関係ないよ」
言ってから、ちょっと言い方がキツくなった気がして怯んだ。橘くんは意外そうに目をまたたいて、反省したように後ろ頭に手を置く。
「すみません。確かにそうですね」
素に戻ったらしい今の動きは、やっぱり橘くんだ。そう思ってから気づいた。僕と会話し始めてから、彼は格好にふさわしい、女性らしい動きをしていたらしい。
「あの……いや、違うんだ。ちょっと、ほんとは、驚いた。どこの美人さんかなって……」
僕は早口にそう言って、気恥ずかしさをごまかして顔をしかめた。
橘くんは僕の様子を見るように少しの間を置いてから、ふわりと微笑んだ。
「だったらよかった。どうせやるんだったら徹底しろって、師匠に言われたんで」
僕ごときに褒められたことが嬉しかったのか、その顔は心底嬉しそうだ。
「師匠」という言葉を口にした橘くんに、思わず目を奪われた。
常に要領がよく、悪く言えば本音の見えにくい彼が、そこだけ切実に、誠実に、誰かを信頼し想っているように見えたから。。
「……お師匠さん……がいるの?」
聞いたのは無意識だった。口にした直後、踏み込みすぎた問いだったかと自分でうろたえる。橘くんは意外そうにまたたいて、照れくさそうに破顔した。
「まあ、そんな感じっす」
それでもう、その話はおしまいらしかった。橘くんはウィッグを外し、「あっついんすよ、これ。女の人って大変すね」といつも通りの短髪で快活な笑顔を浮かべた。
僕は少し残念に思いながら、微笑み返した。一瞬だけ垣間見た彼の内面を、もう少し見ていたかったように思ったのだ。
体育祭当日、橘くんは本当に徹底した演技をしていた。他の男子のように笑いを取ったり、がに股で仁王立ちになるようなことはなくて、まさに女の人のように演技をした。
コンテンポラリーダンス、とでもいうのだろうか。それは柔和でありながらしたたかで、かわいらしくてかっこよかった。三、四十人で踊るのに、みんなが橘くんのことを見ていたと思う。ゆるやかで大きな振り付けも、彼の長い手足をよく生かしていた。
演技中に一度だけ、僕と目が合った気がした。けど、たぶんそれは僕の勘違いだろう。観客席にいる生徒は誰も同じような格好をしているのだから、遠くから見分けがつくとも思えない。
その演技を見ながら、僕はふと、脈絡もないことを思った。
彼が言っていた「師匠」っていうのは、女の人のことなのかもしれないな、と。
母校の体育祭で一番盛り上がるのは一年男子による仮装ダンス。仮装、とは言うがほとんどが女装だ。おそらく男子校だった旧制高校の名残で、ジェンダー云々が騒がれる昨今どうなのだと思わなくもないが、女子は女子で応援のチアダンスがあるのでそれでいいらしい。
縦割りでのチーム分けになるから、ダンスを踊るのは一年が中心なものの、二年も準備を手伝ったりアドバイスしたりすることになっている。橘くんと同じチームの二年が空手部にもいて、親しげに声をかけ合う姿を見かけるようになっていた。
「あいつ、思った以上にいいやつだよ。ノリもいいし」
そんな風に話す部員に、空手部のメンバーも少しずつ橘くんと打ち解けるようになっていた。
多くの生徒が体育祭の練習と部活に時間を費やす夏休み、僕は午前中の部活を終え、プロテクターの類いの点検で残っていた。終えた頃にはもう十二時を大きく過ぎていて、午後には柔道部の練習があると聞いていたから、そのままカギを渡してしまおうと、誰かが訪れるのを待つことにした。
誰もいない武道場は、見慣れず不思議な感じがした。入り口近くの壁を背にあぐらをかいて、ぼんやりとその場にたたずむ。
開けた窓から吹き抜ける生ぬるい風。目を閉じると、隣の体育館ではバスケ部のドリブルと、スニーカーが床をこする音。グラウンドからは野球部の声が聞こえた。
ゆっくり深呼吸をすると、通る風に混ざり合った汗の匂いがした。ふっと、シャボン系の制汗剤の匂いがして、僕は目を開けた。
柔道部の誰かが来ただろうか。
思って振り向こうとしたら、先にふわりとリネンのワンピースがたなびいた。次いで見えたのはウェーブがかったロングヘア。少し引きあがった口の端。
「……橘くん、なにしてるの?」
「あはははは」
橘くんは笑って、ウィッグの先端を指に絡ませた。猫っぽい目は僕を見て、いたずらっぽく輝いている。
「驚くかなと思ったんですけど。いまいちでしたね」
橘くんはそう言ったけど、実際のところ、僕は結構驚いていた。目が合ったときには心臓がどきんと高鳴ったし、この美人さん誰だろう、って頭をよぎったんだから。
けれど、それは気づかれずに済んだらしい。僕はほっとして、よっこらしょと立ち上がった。
「仮装の準備?」
「あー、まあそんなとこです。ウィッグとワンピースは自分で借りてきましたけど」
「へっ?」
それじゃ、ただの女装じゃないか。
そう言いかけて口をつぐんだ。性別が自意識に混在する人というのも世の中にはいる。僕はそれに対して偏見を持っているつもりもないけれど、橘くんがそうである可能性だってあるのだ――
ふっとそんなことを思った僕を、整った顔がのぞきこんだ。
「先輩。今、俺が女装好きなのかって考えてません? 違いますからね」
その顔は完全に僕の反応を面白がっている。僕はむっとしてわずかにあごを引いた。
「……別に、そんなの個人の自由だし。君がどうであろうと、俺には関係ないよ」
言ってから、ちょっと言い方がキツくなった気がして怯んだ。橘くんは意外そうに目をまたたいて、反省したように後ろ頭に手を置く。
「すみません。確かにそうですね」
素に戻ったらしい今の動きは、やっぱり橘くんだ。そう思ってから気づいた。僕と会話し始めてから、彼は格好にふさわしい、女性らしい動きをしていたらしい。
「あの……いや、違うんだ。ちょっと、ほんとは、驚いた。どこの美人さんかなって……」
僕は早口にそう言って、気恥ずかしさをごまかして顔をしかめた。
橘くんは僕の様子を見るように少しの間を置いてから、ふわりと微笑んだ。
「だったらよかった。どうせやるんだったら徹底しろって、師匠に言われたんで」
僕ごときに褒められたことが嬉しかったのか、その顔は心底嬉しそうだ。
「師匠」という言葉を口にした橘くんに、思わず目を奪われた。
常に要領がよく、悪く言えば本音の見えにくい彼が、そこだけ切実に、誠実に、誰かを信頼し想っているように見えたから。。
「……お師匠さん……がいるの?」
聞いたのは無意識だった。口にした直後、踏み込みすぎた問いだったかと自分でうろたえる。橘くんは意外そうにまたたいて、照れくさそうに破顔した。
「まあ、そんな感じっす」
それでもう、その話はおしまいらしかった。橘くんはウィッグを外し、「あっついんすよ、これ。女の人って大変すね」といつも通りの短髪で快活な笑顔を浮かべた。
僕は少し残念に思いながら、微笑み返した。一瞬だけ垣間見た彼の内面を、もう少し見ていたかったように思ったのだ。
体育祭当日、橘くんは本当に徹底した演技をしていた。他の男子のように笑いを取ったり、がに股で仁王立ちになるようなことはなくて、まさに女の人のように演技をした。
コンテンポラリーダンス、とでもいうのだろうか。それは柔和でありながらしたたかで、かわいらしくてかっこよかった。三、四十人で踊るのに、みんなが橘くんのことを見ていたと思う。ゆるやかで大きな振り付けも、彼の長い手足をよく生かしていた。
演技中に一度だけ、僕と目が合った気がした。けど、たぶんそれは僕の勘違いだろう。観客席にいる生徒は誰も同じような格好をしているのだから、遠くから見分けがつくとも思えない。
その演技を見ながら、僕はふと、脈絡もないことを思った。
彼が言っていた「師匠」っていうのは、女の人のことなのかもしれないな、と。
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