49 / 64
第二章 それぞれの生活
05 忠告
しおりを挟む
昼食を終えると、先輩たちがさっさと歩いていく後ろを、俺とアキちゃんがほてほてついていく。
「安田さんって、ほんと人気あるんですね」
不意に言われて見下ろすと、アキちゃんは大きい口元をにかりと笑ませて返した。
「ヨーコさんがいない今のうち~って、結構騒いでるみたいですよ、女子たち」
きょとんとした俺に、ぶは、と前で噴き出すアーク。
「マジか。さっすがジョー」
「何のことっすか」
アークはにやりといたずらっぽく笑う。
「お前もまだ若いんだし、離れてる今のうちにいっちょ行ってみたらどうだ」
「離れてる……ねぇ」
俺は呆れた顔を向けながら、周囲を遠い目で見回す。
「離れてたって何だって、変わんないっすよ」
かれこれ15年、彼女と共に通い続けた無機質なオフィス街。
いないとわかっていても、俺は彼女の姿を探す。
実際の姿がなくても、彼女との思い出を探す。驚くほどいろんな場所で、ヨーコさんの過去の姿が見つかった。あそこでおろしたての靴を傷つけて落ち込んでたなぁとか、眠そうに歩いてたなぁとか。そんな一つ一つが宝物のように、俺の心を埋めていく。
そう感じて微笑みながら、俺は続けた。
「いませんもん、ヨーコさんの代わりになる人なんて」
過去の彼女を探す。目で追う。
そんな中でも、彼女を他の誰かと見間違えたことはない。
アキちゃんがふっと笑う。先輩二人がまたやれやれという顔をする。
でも分かっている。この人たちは分かってくれていると知っている。
だから俺も安心して、彼女への想いを語れる。
「だいたい、ヨーコさん以外じゃ勃たな」
「わーわーわーわー」
「ジョー、素面で酔っ払ったようなこと言うんじゃねぇ」
「……相変わらずだなぁ」
四人で賑やかに歩いていく。
社ビルに入る直前、アキちゃんに軽く袖を引かれた。
見下ろすとやや神妙な彼女の顔。
「行動はくれぐれも慎重に」
まっすぐに俺を見上げるその目には、一種の力がある。
意図を汲み取れずにいる俺に、アキちゃんは言った。
「どうしても手に入れたいものができた女は、ときどき何するか分かりませんよ」
俺は首を傾げた。
「……ご忠告どうも」
「あ、神崎さんじゃあるまいし、自分は大丈夫だと思ってるんでしょ」
ずばり言われて、俺は肩をすくめた。聞いていたマーシーが呆れている。
「おいこら。聞こえてるぞ」
「聞こえるように言いましたもん」
へへーんと胸を張るアキちゃんに、アークが笑う。
「ない胸張ってもなぁ」
「ぐはっ」
「阿久津、言い過ぎだぞ」
「そりゃヒメちゃんやヨーコさんに比べたらないですけど!」
「橘女史とはいい勝負?」
「……とも言いませんけど!!」
「よせよ……あいつ意外と気にしてんだから……」
賑やかだなぁ。
わいわい騒ぐいい大人に、周りは不思議そうな顔をしている。それぞれ職場ではしっかり「大人」しているのだから、意外にも思えるのだろう。
「お疲れさまです」
「お疲れ」
声をかけられ、見やるとそこにはアンナがいた。
「楽しそうですね」
「仲良しだからね」
俺が三人を指差すと、
「仲良くないですから!」
「腐れ縁なだけだ」
言い返して来るアキちゃんとアーク。マーシーは知らぬ顔で歩き出した。
それを追うように俺も歩き出す。アンナも同じテンポでついてきた。
ふとアークとアキちゃんを振り返ると、
き、を、つ、け、て。
真剣な目をしたアキちゃんが、唇を動かして言ってきた。
「どうかしました?」
歩調を緩めた俺を、アンナが見上げて来る。
「んーん、別に」
笑い返して、前を向いた。
アンナの黒い髪が歩く度にさらさらと揺れる。
それがスーツの肩先を撫でて、ふと目が行った。
ヨーコさんか憧れそうな髪だ。
剛毛のくせっ毛を持て余して、長く伸ばしたことがない彼女は、こういうさらりとした髪に憧れているらしい。
俺も、昔はロングヘアがいいと思ったこともあったっけ。
思い返そうとしたけど、ダメだった。
彼女と出会う前に抱いていた理想像など、すっかり忘れている。
きっとそれは、彼女が俺の思い描く陳腐な理想以上に理想的だったからで。
気高くて、可愛くて、清らかで、美しい。
「どうかしました?」
さっきと同じことを、アンナが聞いてくる。俺は目をまたたかせた。
「え? なんで?」
「ため息、ついてましたけど」
言われて、ああ、と苦笑した。
「なんでもない」
自分がため息をついていたなど気付かなかった。
ヨーコさんに会いたい。少しだけ柔らかくなった、あの短い髪に触れたい。
柔らかい肌に触れ、温かい唇をなぞり、白い肌に赤い華を咲かせて。
『ジョー。もう堪忍して』
いつも、掠れた息遣いのアルトを耳にして、俺はようやく、身体を休めるのだ。
エレベーターに乗り込むと、アンナが事業部のある6階のボタンを押した。
その下にあるボタンを見て、ため息をつく。
5月。
電話だけのやりとりになって、まだ一ヶ月半しか経っていない。
いや、もう一ヶ月半も、彼女の笑顔を見ていない。その身体に触れていない。
俺にとってはもはや、それだけで異常なことだ。
「あ、また」
「あはは」
今度のため息は自覚していたので、俺は笑った。
「うん。……奥さんに会いたいなーと思って」
アンナはなんとも言えないという顔で、
「チーフって、平気でのろけますよね」
「うん、よく言われる」
答えると、アンナがちょっと呆れたような顔をした。
「安田さんって、ほんと人気あるんですね」
不意に言われて見下ろすと、アキちゃんは大きい口元をにかりと笑ませて返した。
「ヨーコさんがいない今のうち~って、結構騒いでるみたいですよ、女子たち」
きょとんとした俺に、ぶは、と前で噴き出すアーク。
「マジか。さっすがジョー」
「何のことっすか」
アークはにやりといたずらっぽく笑う。
「お前もまだ若いんだし、離れてる今のうちにいっちょ行ってみたらどうだ」
「離れてる……ねぇ」
俺は呆れた顔を向けながら、周囲を遠い目で見回す。
「離れてたって何だって、変わんないっすよ」
かれこれ15年、彼女と共に通い続けた無機質なオフィス街。
いないとわかっていても、俺は彼女の姿を探す。
実際の姿がなくても、彼女との思い出を探す。驚くほどいろんな場所で、ヨーコさんの過去の姿が見つかった。あそこでおろしたての靴を傷つけて落ち込んでたなぁとか、眠そうに歩いてたなぁとか。そんな一つ一つが宝物のように、俺の心を埋めていく。
そう感じて微笑みながら、俺は続けた。
「いませんもん、ヨーコさんの代わりになる人なんて」
過去の彼女を探す。目で追う。
そんな中でも、彼女を他の誰かと見間違えたことはない。
アキちゃんがふっと笑う。先輩二人がまたやれやれという顔をする。
でも分かっている。この人たちは分かってくれていると知っている。
だから俺も安心して、彼女への想いを語れる。
「だいたい、ヨーコさん以外じゃ勃たな」
「わーわーわーわー」
「ジョー、素面で酔っ払ったようなこと言うんじゃねぇ」
「……相変わらずだなぁ」
四人で賑やかに歩いていく。
社ビルに入る直前、アキちゃんに軽く袖を引かれた。
見下ろすとやや神妙な彼女の顔。
「行動はくれぐれも慎重に」
まっすぐに俺を見上げるその目には、一種の力がある。
意図を汲み取れずにいる俺に、アキちゃんは言った。
「どうしても手に入れたいものができた女は、ときどき何するか分かりませんよ」
俺は首を傾げた。
「……ご忠告どうも」
「あ、神崎さんじゃあるまいし、自分は大丈夫だと思ってるんでしょ」
ずばり言われて、俺は肩をすくめた。聞いていたマーシーが呆れている。
「おいこら。聞こえてるぞ」
「聞こえるように言いましたもん」
へへーんと胸を張るアキちゃんに、アークが笑う。
「ない胸張ってもなぁ」
「ぐはっ」
「阿久津、言い過ぎだぞ」
「そりゃヒメちゃんやヨーコさんに比べたらないですけど!」
「橘女史とはいい勝負?」
「……とも言いませんけど!!」
「よせよ……あいつ意外と気にしてんだから……」
賑やかだなぁ。
わいわい騒ぐいい大人に、周りは不思議そうな顔をしている。それぞれ職場ではしっかり「大人」しているのだから、意外にも思えるのだろう。
「お疲れさまです」
「お疲れ」
声をかけられ、見やるとそこにはアンナがいた。
「楽しそうですね」
「仲良しだからね」
俺が三人を指差すと、
「仲良くないですから!」
「腐れ縁なだけだ」
言い返して来るアキちゃんとアーク。マーシーは知らぬ顔で歩き出した。
それを追うように俺も歩き出す。アンナも同じテンポでついてきた。
ふとアークとアキちゃんを振り返ると、
き、を、つ、け、て。
真剣な目をしたアキちゃんが、唇を動かして言ってきた。
「どうかしました?」
歩調を緩めた俺を、アンナが見上げて来る。
「んーん、別に」
笑い返して、前を向いた。
アンナの黒い髪が歩く度にさらさらと揺れる。
それがスーツの肩先を撫でて、ふと目が行った。
ヨーコさんか憧れそうな髪だ。
剛毛のくせっ毛を持て余して、長く伸ばしたことがない彼女は、こういうさらりとした髪に憧れているらしい。
俺も、昔はロングヘアがいいと思ったこともあったっけ。
思い返そうとしたけど、ダメだった。
彼女と出会う前に抱いていた理想像など、すっかり忘れている。
きっとそれは、彼女が俺の思い描く陳腐な理想以上に理想的だったからで。
気高くて、可愛くて、清らかで、美しい。
「どうかしました?」
さっきと同じことを、アンナが聞いてくる。俺は目をまたたかせた。
「え? なんで?」
「ため息、ついてましたけど」
言われて、ああ、と苦笑した。
「なんでもない」
自分がため息をついていたなど気付かなかった。
ヨーコさんに会いたい。少しだけ柔らかくなった、あの短い髪に触れたい。
柔らかい肌に触れ、温かい唇をなぞり、白い肌に赤い華を咲かせて。
『ジョー。もう堪忍して』
いつも、掠れた息遣いのアルトを耳にして、俺はようやく、身体を休めるのだ。
エレベーターに乗り込むと、アンナが事業部のある6階のボタンを押した。
その下にあるボタンを見て、ため息をつく。
5月。
電話だけのやりとりになって、まだ一ヶ月半しか経っていない。
いや、もう一ヶ月半も、彼女の笑顔を見ていない。その身体に触れていない。
俺にとってはもはや、それだけで異常なことだ。
「あ、また」
「あはは」
今度のため息は自覚していたので、俺は笑った。
「うん。……奥さんに会いたいなーと思って」
アンナはなんとも言えないという顔で、
「チーフって、平気でのろけますよね」
「うん、よく言われる」
答えると、アンナがちょっと呆れたような顔をした。
0
お気に入りに追加
82
あなたにおすすめの小説
ママと中学生の僕
キムラエス
大衆娯楽
「ママと僕」は、中学生編、高校生編、大学生編の3部作で、本編は中学生編になります。ママは子供の時に両親を事故で亡くしており、結婚後に夫を病気で失い、身内として残された僕に精神的に依存をするようになる。幼少期の「僕」はそのママの依存が嬉しく、素敵なママに甘える閉鎖的な生活を当たり前のことと考える。成長し、性に目覚め始めた中学生の「僕」は自分の性もママとの日常の中で処理すべきものと疑わず、ママも戸惑いながらもママに甘える「僕」に満足する。ママも僕もそうした行為が少なからず社会規範に反していることは理解しているが、ママとの甘美な繋がりは解消できずに戸惑いながらも続く「ママと中学生の僕」の営みを描いてみました。
隣の人妻としているいけないこと
ヘロディア
恋愛
主人公は、隣人である人妻と浮気している。単なる隣人に過ぎなかったのが、いつからか惹かれ、見事に関係を築いてしまったのだ。
そして、人妻と付き合うスリル、その妖艶な容姿を自分のものにした優越感を得て、彼が自惚れるには十分だった。
しかし、そんな日々もいつかは終わる。ある日、ホテルで彼女と二人きりで行為を進める中、主人公は彼女の着物にGPSを発見する。
彼女の夫がしかけたものと思われ…
校長室のソファの染みを知っていますか?
フルーツパフェ
大衆娯楽
校長室ならば必ず置かれている黒いソファ。
しかしそれが何のために置かれているのか、考えたことはあるだろうか。
座面にこびりついた幾つもの染みが、その真実を物語る
先生!放課後の隣の教室から女子の喘ぎ声が聴こえました…
ヘロディア
恋愛
居残りを余儀なくされた高校生の主人公。
しかし、隣の部屋からかすかに女子の喘ぎ声が聴こえてくるのであった。
気になって覗いてみた主人公は、衝撃的な光景を目の当たりにする…
寝室から喘ぎ声が聞こえてきて震える私・・・ベッドの上で激しく絡む浮気女に復讐したい
白崎アイド
大衆娯楽
カチャッ。
私は静かに玄関のドアを開けて、足音を立てずに夫が寝ている寝室に向かって入っていく。
「あの人、私が
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる