35 / 64
第四章 死が二人を分かつまで
03 戸惑い
しおりを挟む
翌日、始業時間になるや会社に一報した俺たちは、着替えて斎場へ向かうことにした。
ワイシャツを着て、ジャケットを羽織り、漆黒のネクタイを手にする。
鏡の前に立って衿を立て、ネクタイを首に垂らして、結ぼうとしたとき、手が止まった。
……あれ?
あれ? どうやって結ぶんだっけ。
毎日結んでいるはずのそれが、ただの細い布切れのまま俺の首に下がっている。
俺、そんなに馬鹿になっちゃった?
手が覚えているのではと、左右の手に持ったそれを思うままに結んでみたり捻ってみたりするが、やっぱりうまく行かない。
鏡の前でずっとネクタイと格闘している俺を、ヨーコさんが不思議そうに覗き込んだ。
「ジョー? どしたん?」
「あ、いえ……だ、大丈夫……です」
つっかえつっかえ答えながら、眉を寄せ、首を捻りつつネクタイをあれこれとひねる。
見かねたヨーコさんが、俺の前へ進み出た。
「貸し」
「ぇ、あ、はい」
ヨーコさんは俺の首もとをじっと見つめて、手を動かした。
白い指先が黒いネクタイを這う様を、俺はぼんやりと鏡越しに見ている。
「……あんたの結び方と違うかも知れへんけど」
ヨーコさんは言って、結び目を俺の喉元へ絞った。
確かにいつもと違う結び方が、俺をいつもより頼りなく見せる。
鏡に移った自分を見て、俺は思わず笑った。
「すみません、助かりました。何でしょうね、急に結び方、わかんなくなっちゃって」
へらへらと笑っていると、ヨーコさんは少し困ったような表情で、気遣うような微笑を見せる。
俺の頬を冷たい指が撫でた。
白くて細いその先に、桜色の爪が美しい。
ヨーコさんは黙って微笑み、俺を見つめた。
「靴紐も結んであげるわ。あんたはぼうっとしとき」
「そんな、馬鹿な」
俺は笑って自分とヨーコさんの鞄を手にし、玄関へ向かう。
靴べらを使って靴に足を滑らせ、しゃがみ込むと、また手が止まった。
「……ヨーコさん」
「何や?」
「俺、ほんとに馬鹿になっちゃった?」
ヨーコさんは苦笑する。
「あんたの馬鹿は前からや」
言って、ヨーコさんは黒いパンプスに足を通すと、俺の前にしゃがみこんだ。
黒いストッキングを履いた膝下が、俺の目の前にある。
「少し混乱してるんやろ。突然やったからなぁ」
言いながら、ヨーコさんは俺の靴紐を結んでくれた。
いつもより少し緩い結び目に、少しだけ違和感がある。
俺は肩を竦めた。
「行くで、ジョー」
ヨーコさんは、子ども相手にするように俺の顔を覗き込みながら手を差し出した。
俺は苦笑しながらその手を取り、立ち上がる。
そのまま玄関を開けるかと思いきや、ヨーコさんがふわりと俺の頭を抱きしめた。
耳に頬を寄せ、静かに囁く。
「昨日は、びっくりしたなぁ」
俺は思わず、その腰に手を回した。
目を閉じて、耳ざわりのいいその声に耳を澄ます。
「寂しいけど、お別れしようなぁ。ありがとう、って、言って来ような。ジョーを産んでくれてありがとう、って。育ててくれてありがとう、って」
優しい彼女の声音を聞いて、口元に笑みが浮かんだ。こくり、とヨーコさんの肩上で頷く。
ヨーコさんは数度俺の頭を撫で、ゆっくりと腕を解いた。
俺の両頬に両手を添え、じっと俺の目を見つめる。
「名前と、年齢は?」
俺は笑いそうになった。
「安田丈、39歳です」
ヨーコさんが笑う。
「上出来や」
言って、俺の手を取った。手を引かれて、一歩踏み出す。
「ええ子や、ジョー」
ヨーコさんが優しく笑った。
慈母のような笑顔ってこういうのを言うのかな。
愛妻の微笑みを見ながら、俺は思った。
ワイシャツを着て、ジャケットを羽織り、漆黒のネクタイを手にする。
鏡の前に立って衿を立て、ネクタイを首に垂らして、結ぼうとしたとき、手が止まった。
……あれ?
あれ? どうやって結ぶんだっけ。
毎日結んでいるはずのそれが、ただの細い布切れのまま俺の首に下がっている。
俺、そんなに馬鹿になっちゃった?
手が覚えているのではと、左右の手に持ったそれを思うままに結んでみたり捻ってみたりするが、やっぱりうまく行かない。
鏡の前でずっとネクタイと格闘している俺を、ヨーコさんが不思議そうに覗き込んだ。
「ジョー? どしたん?」
「あ、いえ……だ、大丈夫……です」
つっかえつっかえ答えながら、眉を寄せ、首を捻りつつネクタイをあれこれとひねる。
見かねたヨーコさんが、俺の前へ進み出た。
「貸し」
「ぇ、あ、はい」
ヨーコさんは俺の首もとをじっと見つめて、手を動かした。
白い指先が黒いネクタイを這う様を、俺はぼんやりと鏡越しに見ている。
「……あんたの結び方と違うかも知れへんけど」
ヨーコさんは言って、結び目を俺の喉元へ絞った。
確かにいつもと違う結び方が、俺をいつもより頼りなく見せる。
鏡に移った自分を見て、俺は思わず笑った。
「すみません、助かりました。何でしょうね、急に結び方、わかんなくなっちゃって」
へらへらと笑っていると、ヨーコさんは少し困ったような表情で、気遣うような微笑を見せる。
俺の頬を冷たい指が撫でた。
白くて細いその先に、桜色の爪が美しい。
ヨーコさんは黙って微笑み、俺を見つめた。
「靴紐も結んであげるわ。あんたはぼうっとしとき」
「そんな、馬鹿な」
俺は笑って自分とヨーコさんの鞄を手にし、玄関へ向かう。
靴べらを使って靴に足を滑らせ、しゃがみ込むと、また手が止まった。
「……ヨーコさん」
「何や?」
「俺、ほんとに馬鹿になっちゃった?」
ヨーコさんは苦笑する。
「あんたの馬鹿は前からや」
言って、ヨーコさんは黒いパンプスに足を通すと、俺の前にしゃがみこんだ。
黒いストッキングを履いた膝下が、俺の目の前にある。
「少し混乱してるんやろ。突然やったからなぁ」
言いながら、ヨーコさんは俺の靴紐を結んでくれた。
いつもより少し緩い結び目に、少しだけ違和感がある。
俺は肩を竦めた。
「行くで、ジョー」
ヨーコさんは、子ども相手にするように俺の顔を覗き込みながら手を差し出した。
俺は苦笑しながらその手を取り、立ち上がる。
そのまま玄関を開けるかと思いきや、ヨーコさんがふわりと俺の頭を抱きしめた。
耳に頬を寄せ、静かに囁く。
「昨日は、びっくりしたなぁ」
俺は思わず、その腰に手を回した。
目を閉じて、耳ざわりのいいその声に耳を澄ます。
「寂しいけど、お別れしようなぁ。ありがとう、って、言って来ような。ジョーを産んでくれてありがとう、って。育ててくれてありがとう、って」
優しい彼女の声音を聞いて、口元に笑みが浮かんだ。こくり、とヨーコさんの肩上で頷く。
ヨーコさんは数度俺の頭を撫で、ゆっくりと腕を解いた。
俺の両頬に両手を添え、じっと俺の目を見つめる。
「名前と、年齢は?」
俺は笑いそうになった。
「安田丈、39歳です」
ヨーコさんが笑う。
「上出来や」
言って、俺の手を取った。手を引かれて、一歩踏み出す。
「ええ子や、ジョー」
ヨーコさんが優しく笑った。
慈母のような笑顔ってこういうのを言うのかな。
愛妻の微笑みを見ながら、俺は思った。
0
お気に入りに追加
82
あなたにおすすめの小説
隣の人妻としているいけないこと
ヘロディア
恋愛
主人公は、隣人である人妻と浮気している。単なる隣人に過ぎなかったのが、いつからか惹かれ、見事に関係を築いてしまったのだ。
そして、人妻と付き合うスリル、その妖艶な容姿を自分のものにした優越感を得て、彼が自惚れるには十分だった。
しかし、そんな日々もいつかは終わる。ある日、ホテルで彼女と二人きりで行為を進める中、主人公は彼女の着物にGPSを発見する。
彼女の夫がしかけたものと思われ…
寝室から喘ぎ声が聞こえてきて震える私・・・ベッドの上で激しく絡む浮気女に復讐したい
白崎アイド
大衆娯楽
カチャッ。
私は静かに玄関のドアを開けて、足音を立てずに夫が寝ている寝室に向かって入っていく。
「あの人、私が
先生!放課後の隣の教室から女子の喘ぎ声が聴こえました…
ヘロディア
恋愛
居残りを余儀なくされた高校生の主人公。
しかし、隣の部屋からかすかに女子の喘ぎ声が聴こえてくるのであった。
気になって覗いてみた主人公は、衝撃的な光景を目の当たりにする…
イケメン彼氏は年上消防士!鍛え上げられた体は、夜の体力まで別物!?
すずなり。
恋愛
私が働く食堂にやってくる消防士さんたち。
翔馬「俺、チャーハン。」
宏斗「俺もー。」
航平「俺、から揚げつけてー。」
優弥「俺はスープ付き。」
みんなガタイがよく、男前。
ひなた「はーいっ。ちょっと待ってくださいねーっ。」
慌ただしい昼時を過ぎると、私の仕事は終わる。
終わった後、私は行かなきゃいけないところがある。
ひなた「すみませーん、子供のお迎えにきましたー。」
保育園に迎えに行かなきゃいけない子、『太陽』。
私は子供と一緒に・・・暮らしてる。
ーーーーーーーーーーーーーーーー
翔馬「おいおい嘘だろ?」
宏斗「子供・・・いたんだ・・。」
航平「いくつん時の子だよ・・・・。」
優弥「マジか・・・。」
消防署で開かれたお祭りに連れて行った太陽。
太陽の存在を知った一人の消防士さんが・・・私に言った。
「俺は太陽がいてもいい。・・・太陽の『パパ』になる。」
「俺はひなたが好きだ。・・・絶対振り向かせるから覚悟しとけよ?」
※お話に出てくる内容は、全て想像の世界です。現実世界とは何ら関係ありません。
※感想やコメントは受け付けることができません。
メンタルが薄氷なもので・・・すみません。
言葉も足りませんが読んでいただけたら幸いです。
楽しんでいただけたら嬉しく思います。
ずっと君のこと ──妻の不倫
家紋武範
大衆娯楽
鷹也は妻の彩を愛していた。彼女と一人娘を守るために休日すら出勤して働いた。
余りにも働き過ぎたために会社より長期休暇をもらえることになり、久しぶりの家族団らんを味わおうとするが、そこは非常に味気ないものとなっていた。
しかし、奮起して彩や娘の鈴の歓心を買い、ようやくもとの居場所を確保したと思った束の間。
医師からの検査の結果が「性感染症」。
鷹也には全く身に覚えがなかった。
※1話は約1000文字と少なめです。
※111話、約10万文字で完結します。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる