色ハくれなゐ 情ハ愛

松丹子

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第四章 死が二人を分かつまで

03 戸惑い

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 翌日、始業時間になるや会社に一報した俺たちは、着替えて斎場へ向かうことにした。
 ワイシャツを着て、ジャケットを羽織り、漆黒のネクタイを手にする。
 鏡の前に立って衿を立て、ネクタイを首に垂らして、結ぼうとしたとき、手が止まった。
 ……あれ?
 あれ? どうやって結ぶんだっけ。
 毎日結んでいるはずのそれが、ただの細い布切れのまま俺の首に下がっている。
 俺、そんなに馬鹿になっちゃった?
 手が覚えているのではと、左右の手に持ったそれを思うままに結んでみたり捻ってみたりするが、やっぱりうまく行かない。
 鏡の前でずっとネクタイと格闘している俺を、ヨーコさんが不思議そうに覗き込んだ。
「ジョー? どしたん?」
「あ、いえ……だ、大丈夫……です」
 つっかえつっかえ答えながら、眉を寄せ、首を捻りつつネクタイをあれこれとひねる。
 見かねたヨーコさんが、俺の前へ進み出た。
「貸し」
「ぇ、あ、はい」
 ヨーコさんは俺の首もとをじっと見つめて、手を動かした。
 白い指先が黒いネクタイを這う様を、俺はぼんやりと鏡越しに見ている。
「……あんたの結び方と違うかも知れへんけど」
 ヨーコさんは言って、結び目を俺の喉元へ絞った。
 確かにいつもと違う結び方が、俺をいつもより頼りなく見せる。
 鏡に移った自分を見て、俺は思わず笑った。
「すみません、助かりました。何でしょうね、急に結び方、わかんなくなっちゃって」
 へらへらと笑っていると、ヨーコさんは少し困ったような表情で、気遣うような微笑を見せる。
 俺の頬を冷たい指が撫でた。
 白くて細いその先に、桜色の爪が美しい。
 ヨーコさんは黙って微笑み、俺を見つめた。
「靴紐も結んであげるわ。あんたはぼうっとしとき」
「そんな、馬鹿な」
 俺は笑って自分とヨーコさんの鞄を手にし、玄関へ向かう。
 靴べらを使って靴に足を滑らせ、しゃがみ込むと、また手が止まった。
「……ヨーコさん」
「何や?」
「俺、ほんとに馬鹿になっちゃった?」
 ヨーコさんは苦笑する。
「あんたの馬鹿は前からや」
 言って、ヨーコさんは黒いパンプスに足を通すと、俺の前にしゃがみこんだ。
 黒いストッキングを履いた膝下が、俺の目の前にある。
「少し混乱してるんやろ。突然やったからなぁ」
 言いながら、ヨーコさんは俺の靴紐を結んでくれた。
 いつもより少し緩い結び目に、少しだけ違和感がある。
 俺は肩を竦めた。
「行くで、ジョー」
 ヨーコさんは、子ども相手にするように俺の顔を覗き込みながら手を差し出した。
 俺は苦笑しながらその手を取り、立ち上がる。
 そのまま玄関を開けるかと思いきや、ヨーコさんがふわりと俺の頭を抱きしめた。
 耳に頬を寄せ、静かに囁く。
「昨日は、びっくりしたなぁ」
 俺は思わず、その腰に手を回した。
 目を閉じて、耳ざわりのいいその声に耳を澄ます。
「寂しいけど、お別れしようなぁ。ありがとう、って、言って来ような。ジョーを産んでくれてありがとう、って。育ててくれてありがとう、って」
 優しい彼女の声音を聞いて、口元に笑みが浮かんだ。こくり、とヨーコさんの肩上で頷く。
 ヨーコさんは数度俺の頭を撫で、ゆっくりと腕を解いた。
 俺の両頬に両手を添え、じっと俺の目を見つめる。
「名前と、年齢は?」
 俺は笑いそうになった。
「安田丈、39歳です」
 ヨーコさんが笑う。
「上出来や」
 言って、俺の手を取った。手を引かれて、一歩踏み出す。
「ええ子や、ジョー」
 ヨーコさんが優しく笑った。
 慈母のような笑顔ってこういうのを言うのかな。
 愛妻の微笑みを見ながら、俺は思った。
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