色ハくれなゐ 情ハ愛

松丹子

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第三章 凶悪な正義

07 朝のお勤め

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「不思議やなぁ」
 翌朝、ヨーコさんは疑わしげな目で俺を見ながら言った。
「何がですか?」
「毎年、面倒やなーと思てた誘いが、キャンセルになったわ。あんた、昨日出張で人権講座聞いて来るとか言うてたなぁ」
 うぅ。そのあきれたような目。ちょっと下半身が反応した。
 俺の欲情を察したのか、ヨーコさんは深々と嘆息する。
「もしかして、誰かさんが要らんことしてはるんやないかと思てな」
「えー。何でしょうねぇ。体調不良にでもなったんじゃないですか」
 俺はにこにこしながら答える。ヨーコさんはまた、嘆息した。
 かと思うと、歩みを止めて俺に向き合い、窘めるように目を上げる。
「ジョー」
 いや、だから。
 それ、勃っちゃうって。ヨーコさん。
「な、何ですか」
 紅潮する頬と潤む目は生理反応だ。だって、ヨーコさんが俺をじっと見てるんだから仕方ない。
 ヨーコさんはじぃっと俺の目を見据えてーーその間、俺は元気になっていくムスコを宥めるのに必死だーーまた深々と嘆息した。
「あかんな」
「え? 何が? え?」
「あんた、ほんまの阿呆や」
 しみじみと言う声音には、一種の愛情がこもっているように感じる。
 なんていうのかな、ほら……出来が悪い子ほど可愛い、みたいな。
 そんなことを思って目を輝かせていたら、ヨーコさんはまた俺を睨みつけた。
「何喜んではるん。褒めてへんで。ほんま阿呆やな」
「あっ、いいです。阿呆でいいです。もっと言ってください」
 思わず本音が口から漏れると、ヨーコさんは心底嫌そうな顔をして、勢いよく俺から顔を背けた。

 + + +

 ヨーコさんは、自分の身体は男の慰みものに過ぎないとあきらめている。
 その自分を守ることを諦めたような表情から、他にも男がいるのだろうと覚悟していたのだが、どうも定期的に肉体関係を持っていたのはその二人だけらしかった。
 でも、彼女が自分を守ることを放棄した理由は、どうも他にもありそうだと、気づいたのはその後だ。

 ある日の朝、いつも通り挨拶した俺は、またストッキングの伝線を見つけた。
 指摘しようか迷っていると、俺の目線に気づいたヨーコさんが、ああ、と自嘲気味に笑う。
「もう何枚駄目にされたか分からんわ。ズボンでも確率は変わらへんし。うちみたいなおばはん触って何が楽しいんやろな」
 言って歩く姿に、以前、爪が食い込むほど拳を強く握っていたのを思い出す。
 堪えているのだ、彼女は一人で。
 自分を犯す男たちからの侮辱に。
 気づいて、思わずその手を取った。
 ヨーコさんは驚いて手を引きかけたが、俺の顔を見て気まずげに反らす。
「何のつもりやの?」
「いや……思わず」
 ヨーコさんはため息をついた。俺はそろりと手を降ろす。
 ヨーコさんはちょっとうなだれた俺をちらりと見て、ため息をついて、また歩き出した。
 その後ろを、俺がついていく。
「あの、ヨーコさん」
「何や?」
「ヨーコさん、最寄り駅、どこでしたっけ」
 ちらり、と訝しむような目が俺に向く。
「……何するつもりやの」
「俺、毎朝駅でヨーコさん出迎えて、一緒に電車乗って、通勤します。そしたら、きっと大丈夫でしょ」
 足を止めたヨーコさんが、苛立ったような息を吐き出した。
「……あのな、ジョー」
「はい」
「お節介もほどほどにせぇ」
 俺はむっと頬を膨らませる。
「違います」
「何が」
「お節介じゃありません。俺のわがままです」
 言い切ると、ヨーコさんは唖然とした。それ幸いに、俺は言葉を継ぐ。
「ヨーコさんに他の男がさわるのなんて堪えられません。俺だってさわれないのに。そんなの駄目。絶対駄目。すげぇむかつく。殺したいくらいむかつく」
 だんだんと独り言じみてきたことに気づき、改めてヨーコさんの目を見据えた。
「だから、お節介じゃありません。俺は俺のために、ヨーコさんにへばりついて、ヨーコさんに障ろうとするゴキブリを駆逐します」
 ヨーコさんはしばらく俺の顔を見て、少し目を反らして、口元を歪めて、挑発するように笑った。
「他の男がゴキブリなら、あんたは何なん」
 俺はきりっと顔を引締める。
「ウサギです」
「はぁ?」
「ヨーコさんに年中発情して、コントロール利かないから」
 ヨーコさんはまた、あきれたようにため息をついて、ゆるゆると首を振った。
 何もいわずに歩き出すその背中を追う。
「ジョー」
「何や」
「あんたの頭、神様が部品間違えたんやないの?」
 俺は首を傾げて、また戻す。
「それって、すごくないですか」
「どうして」
「だって、超オリジナル度高いじゃないですか。他と違う部品入ってるなら」
 何か強そう、と拳を握る俺を、ヨーコさんが哀れむような目で見ていた。

 でも結局、あきれながらもヨーコさんは最寄り駅と乗る電車をちゃんと教えてくれた。
「でも、絶対家は教えへんで」
 釘を刺すので首をかしげると、ヨーコさんは続けた。
「男子禁制や。女しか入れへん」
 その強い視線に、なんとなく察した。
 きっと自宅こそ、男に犯されない安心の砦なのだろう、と。

 翌日から、俺はヨーコさんの通勤時間に合わせて、改札の内側でヨーコさんを待った。ろくに挨拶もしない彼女の横にへばりついて、会話することも目を合わせることもない彼女の周りに気を配って通勤するようになった。
「ようやるわ」
 なんてヨーコさんは呆れてたけど、俺は別に苦痛でもなんでもなかった。
 だってそれで、ヨーコさんに男を寄せつけずに済むんなら。
 全然そんなの、苦でも何でもなかった。
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