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 その夜は、先に夕飯を食べてお風呂も済ませた。
 お互い気を使いすぎるのも良くないかなと思ったからだ。
 本日の夕飯、ぶりの照り焼き、みそ汁、ご飯、ほうれん草の煮浸し、おつけもの。
 もちろん、ぶりの照り焼きは味つきのやつを買ったし、おつけものも市販のだけど。
 ……日本人だし! シンプルイズベストっていうか、原点回帰っていうか、疲れたときにはいいでしょ!
 で、勝くんの食事は後で準備しよー、って思って、例によって例のごとく、こたつにぬくぬくしているうちに眠ってしまっていたらしい。
 足元がすぅすぅする感じに、ゆっくり意識が覚醒していく。
 ブオォォ……とドライヤーの音が聞こえ始めたので、うっすらと目を開き、こたつの中でもぞもぞと方向転換した。
 見ると、パジャマ代わりの部屋着姿になった勝くんが、髪を乾かしてる。
 かしゃかしゃ乱暴に髪を払う様子を見ながら、ああ今夜もカッコイイなー、なんてぼんやり見つめる。
 こんなに夜遅く、勝くんがリラックスウェアで、私の部屋にいる。
 なんだか、不思議な感じ。
 ぽかぽかして気恥ずかしくて、でもそのたびに、「幻想だからねっ」て自分に言い聞かせるのだ。
 勝くんは、あと何日うちで過ごすんだろう。
 ……考えたく、ない。
 不意に、ドライヤーの音が止まった。ぼんやりしていた私に気づいた勝くんが目をまたたかせ、微笑む。

「起きてたの」

 ドライヤーのがさついた音に慣れた耳に、勝くんの柔らかい声は心地好かった。
 思いが溢れそうになり、潤んだ視界をあくびでごまかす。

「んーっ」

 伸びをすると、今度はほんとのあくびが出た。
 手で口を押さえると、勝くんの笑い声が聞こえる。

「顔、真っ赤だよ。こたつつけたまま寝るとか、危ない」

 言われてふと気づき、こたつをめくり上げる。
 すぅすぅすると思ったら、電気は消えていた。

「よく寝てたから、とりあえず一度消しといた。俺がシャワー浴びてる間に何かあったら嫌だし」

 言いながら、勝くんが手早くドライヤーをまとめ、しまう。その指は長かったけど、百貨店で会った広瀬さんよりも男性的だった。

 ……触って欲しいな。

 思うままに思って、眉を寄せる。欲望がダダもれだ。まだ半ば寝ぼけているらしい。

 エプロン、いつ渡そう。

「今日も夕飯作ってくれたの? ごめんね、ありがとう」

 配膳の準備を見て、勝くんは言った。キッチンに立つ後ろ姿をぼんやり見つめる。
 広い背中。がっしりした肩。

 ……あの部屋着の下は、どんな風なんだろう。

 思った直後、罪悪感に顔を覆う。ダメ。ダメよ梢。その発想、立派に痴女だわ。
 こんなにも自分が飢えてるなんて、気づかなかった。
 性欲、みたいなものは、今までろくに感じてなかった。
 まあ、抱きしめたりキスしたり、そういう温もりは欲しくなったりもしたけど、裸でどうとか、そういうことは、そこまで積極的に感じなかったのだ。
 家でリラックスしていくらかなのか、相手が勝くんだからなのか、アラフォーになってホルモンバランスが変化しているからなのか……
 はっ。有り得る。もうボチボチ、子作りするからリミットが近いよー、なんて、ご丁寧な生存本能が教えてくれているのかもしれない。本能的に。直接的に。……えげつなく。
 あああ、本当にそうならば、勝くん逃げてー!
 って、違う! 違う違う、私が勝たなくてはいけない。なんとあっても、この本能に勝たなくてはいけない……!

「ーー梢ちゃん?」

 葛藤している私の前に、ひょこりと端正な顔が現れた。
 吐息がかかるほどの近距離。

「ふぁっ! な、なんでしょう!」

 わたわたする私に、勝くんが苦笑する。

「どれ、食えばいいのかな。魚かなんか、メインあるの?」
「あっ、あるある、ありますっ」

 言いながら私は立ち上がる。と、またしてもこたつが足に引っ掛かった。
 勝くんが黙って、胸元に抱き留めてくれる。
 見た目よりも厚みを感じる胸。かたい二の腕。
 風呂上がり特有の温もりと、せっけんの香り。

 ほんと、私って学習しない……!

 そんでもって性懲りもなく、私の心臓はばくばくと暴れる。不慣れな中高生じゃあるまいし、なにをそんなに動揺してるのか。

「……梢ちゃん、大丈夫?」

 静かな勝くんの声が、耳元で囁く。
 私がそういう気分だからなのか、そうじゃないのか分からないけど、その声がやたらと艶めいて聞こえて、そわそわした。

「だい……じょうぶ」

 勝くんの手が、私の背中と腰に添えてある。
 優しい力なのに、抜け出せない。

「だいじょぶだから……はな、して」

 離さないで。
 本音と乖離した言葉を口にするのは、社会性を身につけてしまった大人の私。
 欲望に飲まれてしまえればいいのに。
 このまま、勝くんの腕に抱かれて……朝まで、

「心臓、出ちゃう?」

 言われて顔を上げると、勝くんの優しい笑顔があった。
 私は顔を赤くしながら、唇を引き結ぶ。

「馬鹿にしないで」
「あはは、ごめん」

 笑う勝くんは、憎たらしいくらいに余裕たっぷりだ。
 私はむきになって勝くんを見つめた。

「梢ちゃん、いっつも面白いこと言うから」
「……勝くんが、茶化すからでしょ」
「茶化してないよ」

 勝くんの表情は優しいままだったけど、声音がワントーン、低くなった。
 真剣さを感じて、私は少し戸惑う。

「茶化してないよ……本気だから」

 どきん、と。
 痛いくらいに、胸が高鳴る。
 嘘。
 そんなわけ、ない。

「また、勝くんてば、そんなこと言っ……」

 笑って冗談にしてしまおう、と思ったのに、言葉は途中で遮られた。
 私の唇を塞いだのが、勝くんの唇だと理解するまでに、数秒。
 思ったよりも柔らかいそれが、離れていくのと同時。

「……そんな、じっと見られると」

 あまりの衝撃に、目を見開いて勝くんを見つめていると、照れくさそうに苦笑した。

「初心者コースじゃ済まなくなるよ」

 我に返った私は、目をおもいきり泳がせながら、視線を止めるべきところが分からず俯いた。
 黙ったままの勝くんが、ため息をついて私を抱き寄せる。

「梢ちゃん」

 優しい声に、私の中心が疼く。
 やだ。嘘。待って。
 何を言うべきなのか、何が言いたいのかも分からない。ただ胸の中をたたく太鼓のような鼓動が、身体中に響いている。

「……痛い」
「えっ」

 勝くんが腕を緩めた。私は勘違いさせてしまったことに気づき、勝くんを見上げる。

「違うの、あの」

 どきどきどきどき、

「心臓が、うるさくて、痛い」

 勝くんはほっとしたように微笑んで、また顔が近づいてきた。
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