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 窓やトイレ、換気扇と、私なりに手早く掃除をしていたら、すっかり昼を過ぎていた。通りでお腹が空いているわけだ。何か食べに出ようと財布を掴む。
 そうだ、夕飯を作るなら食材を買わなくちゃ。最終的な出来映えがどうなろうとも、一定の努力は見せなくてはならない。
 それにしても要らない意地を張ってしまったものだ。相手はあの優しい勝くんなのに。「料理なんてできません」と言えばきっと「そっか」と笑っておしまいだったはずだ。
 ため息をつきながらスマホを掴む。初心者、簡単、失敗しない、などというキーワードから、少しでも見映えするものをと探す。
 画面とにらめっこしながら、あれでもないこれでもないと目を泳がせる。どれも美味しそうに見えるし、どれも簡単そうに書いてある。情報の海に溺れそうになったとき、赤い海老と黄色いライスが目に留まった。
 簡単パエリア? 美味しそう。シーフード乗せればそれなりに見えるし、サラダか何か添えればもうそれでいいかな。これにしよう。
 ページをブックマークして、これでよしと外出の準備を整える。オフ仕様の簡単メイクにコートを羽織って家を出た。

 外に出ると、日差しの下は予想外に暖かかった。日陰を避けるようにお日様の下を歩きながら駅へ向かう。
 本当は駅は人がすごいから来たくないのだけど、何でも材料が揃うだろうと踏んだのだ。歩いていくと段々増える人波。寒さを理由にカップルはくっつきたい放題だ。仲良さげに手を繋いだり腕を組んだり。
 視界の端にその姿を捉えつつ、心頭滅却を唱えながら歩いていく。
 そんな気持ちも久しぶりだ。
 30半ばを過ぎた頃から、他人様のそういう姿をイチイチ羨んだり妬んだりするのがバカバカしくなった私は、穏やかに彼らを見守ることができるようになったのだった。
 まさに菩薩の境地と喜んでいたのだけど、みっちーに言わせれば「一周回ってそれって、結構ヤバいよ」だそうな。
 でも、私はその方が楽だったし、それでいいと思ってた。
 それが、どうして今さら羨ましいだなんて思うんだろう。私は羨ましさを隠しもせず、若いカップルの繋がれた手を見る。おあつらえ向きに冷たい風が首筋を撫で、肩を上げて衿元を手繰り寄せた。
 ああ、この寒い街中、隣に誰かがいてくれたら。見上げた先で「寒いね」と微笑み、「手、冷たくなってない?」とさりげなく手を握った彼が、自分のコートのポケットに握った手をいざなう、そんなイケメンが側にいてくれたら……
 って、しっかり勝くんで妄想してしまった。
 ダメダメ、そんなことをしては。彼とは今夜も二人きりになるのだから、日中おかしな妄想をしていてはどこで欲望が駄々漏れるかわかったもんじゃない。
 天性の気配り上手な年若イケメンと二人っきり。何もせず連夜を過ごすなんて、ある意味戦いだ。自分との戦い。そうだ、負けてはいけない。負けた私が失うのは勝くんとの関係のみならず、みっちーという親友との関係もなのだ。
 負けるな梢。がんばれ梢。遅めのクリスマスプレゼントだか早めのお年玉だか40を目前にしての踏み絵だかはわからないけれど、この年末年始を無事乗り越え、勝くんのがんばりを労って「また泊まりたいときには言ってね」と爽やかに見送るのだ。
 立派に! 姉的存在としての! 役目を果たすのだ!
 よし、と気持ちを新たに拳を握ると、腹の虫がくぅと鳴く。腹が減っては戦はできぬ。まずは昼食を済ませて、夕飯の準備にさしかかるべし!
 私は両手を大きく振り、歩幅を広げた。

 * * *

 いくら簡単と銘打ってあるからといって、料理初心者の私のこと。ぼちぼちやるかと腰を上げたのが夕方の7時な時点で料理をナメてたと後悔したけど、あーでもないこーでもないと首をひねっていたら、9時くらいになっていた。
 そもそも貝って砂吐くの待たないといけないのね。知らなかった。いや、忘れてた。そこであっさり1時間のロス。だって食べたとき「ざりっ」てなるとすごいがっかりだから、そこだけはちゃんとしなきゃって思ったの。
 一通り手順を終えて、多分蒸らし時間も終えて。
 帰るときに来るはずの勝くんの連絡がないことを幸い、怖くて蓋が開けられないパエリア(になっていると嬉しいな)のフライパンの前で一息つく。
 これじゃあ、ほんとに嫁に行けない……
 結婚を諦めたつもりはないと言いながら、すっかり楽な方楽な方に逃げてしまっていた。イマドキ、「家事は女の仕事」なんて言い切る男も少ないけれど、男はあくまで「手伝う」側だという認識はいまだに根強い。
 料理なんて、するようになればすぐできると思っていたけど、そうとも言えないかもしれない。仕事ではぼちぼち「新しいことを覚えるのに時間がかかるようになってきたなー」なぁんて思っていたけど、家事も然りだ。胸中をめぐる危機感に、思わず深刻な顔になる。
 そのときスマホが着信を告げた。はっと我に返って受信メッセージを引き出すと、勝くんからだ。

【ごめんね、もう少しかかりそう。先に食べてていいからね】

 謝るウサギの絵と共に送られてきたメッセージにほっこりする。微笑みながら、【大丈夫。無理しないで頑張ってね】と書いたはいいけどハートマークまでつけてしまって慌てて削除する。
 マズイマズイ、料理で精神的に消耗して、妄想を自制するだけのエネルギーが失われつつある。これはとりあえずお風呂にでも入って疲れを癒し、勝くんが帰ってくるときには爽やかに出迎えられるようにせねば……
 私はよたよたと浴室に向かって、日中にぴかぴかにした風呂場で動きを止める。
 ……そうだ、大掃除でぴかぴかにしたばかりのお風呂。カビ取り特有の匂いはするけど、疲れて帰ってきた勝くんにこそ一番に使ってもらうべきではないか?
 そうふと気づいてしまったら、もう入る気にはなれない。
 私は改めてため息をついて、とりあえずこたつで温もりながら勝くんを待つことにした。

 * * *

「梢ちゃん。そんなところで寝てたら風邪引くよ」

 優しい声と背中に触れる温もり。ふと鼻先に漂った香水の香りに、目を閉じたまま顔を近づける。
 ふぁ、いいにおい。夢みたい。どうせ夢だよね。
 夢なら遠慮しなくていいはず。いいにおいの何かに擦り寄ると、頭を優しく撫でられた。

「梢ちゃん、そういうことしてると……襲っちゃうよ」

 付け加えられた不穏な言葉に、むっ? と顔を上げる。どうにか眠い目を開くと、そこにはワイシャツにパーカーを羽織った勝くんがいた。

「……えっ、えっ、なんで」
「なんでって……泊まっていいって言ったから……」

 困惑顔の勝くんに、私はわたわた答える。

「ち、違くて。あの、お仕事、いつ……」

 言いながら壁にかかった時計を見ると、もう12時を回っている。私はふぁ! と悲鳴を上げて立ち上がろうとし、こたつに引っ掛かって転んだ。

「うわ、危ね」

 勝くんが慌てて受け止めてくれる。その胸元はさっき私が夢だと思って擦り寄ったのと同じ触り心地で……って当然だろ同じだもん!
 あああああ! と自己嫌悪と羞恥心にのたうちまわる私を、勝くんが困ったように見ている。ああ、ごめんね……ごめんね変な姉貴分で……深夜なのにうるさくてごめんね……!
 私は半分泣きながら、どうにかこうにかこたつから這い出て立ち上がった。先に立ち上がった勝くんは、じっと私を見下ろしている。その視線が額に刺さり、情けなさが込み上げる。

「ご飯、待っててくれたんだね。ごめんね、ありがとう」

 私にとって気まずい沈黙を破ったのは、勝くんの優しい優しい声だった。涙目を上げると穏やかな笑顔が私を見下ろしている。
 ほ、惚れてまうやろ……!
 心の中でまたしてもあらぬスイッチが入りそうになるのを、無理無理、力づくで、押さえつける。駄目だって。ほんと駄目だって。ここで飛び掛かったら痴女だから。マジ痴女だから!
 私の葛藤を知ってか知らずか(いや、知ってたらマズイけど)、勝くんはきょとんとしたまま私を見てくる。ああんもう、笑顔も素敵だけどそういう顔も可愛い! 勝くん可愛い!

「ううん、違うの。ちょっと休むつもりが寝ちゃってたんだね。こっちこそごめん」

 表面上は大人ぶった笑顔を浮かべながら、内心身もだえる。最初に会った頃のまだまだ少年だった勝くんも充分イケメンだったけど、大人になるとまた一層イケメンだ。私好みだ。
 ああ、無情。私好みに育ったイケメンが、いずれ若くて可愛い女の子といちゃつく様を温かく見守る役割を負うなんて。いっそ私好みに育たなければよかったのに。
 世の無情を痛感しつつ、私はパエリア(になってるといいなぁ)の入ったフライパンに向かう。

「初めて作ったから、うまくできたかわかんないけど……」

 言いながら、ちょっとためらう。冷めたまま出すのは気が引けるけど、もう一度火にかけていいものだろうか。せめて味見してみてからの方がいい? でも、せっかく(私なりに)綺麗に盛りつけたのに、勝くんに見せる前に崩すのも気が引ける。
 思っていたら、勝くんが私の横から顔を出す。

「なに、パエリア? すごい。がんばってくれたんだね」

 爽やかな笑顔で言われたら、感じた苦労も忘れるというもの。「あなたのためならこのくらい……」なんて台詞は心に留めて、「でも、うまくできてるかわかんないよ」と謙遜してみる。

「開けてみていい?」

 勝くんの言葉に頷くと、ガラスの蓋をぱかりと開けた。
 黄色いライスにアサリと海老。せめて見た目だけでもと、海老ちゃんはちょっと奮発した。

「美味そう。あっためて食べようか。梢ちゃんも夕飯まだでしょ?」
「う、うん……」

 勝くんがまた蓋をしめてコンロの火をつける。私が心配そうなのを察したのだろう、どうしたのと聞かれておずおず答える。

「火……焦げたり、しないかな……」

 私の言葉に、勝くんは微笑む。

「大丈夫だよ。パエリアはお焦げが美味しいし」

 言って、私の肩にぽんと手を置く。

「それに、梢ちゃんが作ってくれたものなら、炭でも毒でも美味いって言って食べるから」
「ひ、ひどい」

 私は唇を尖らせた。

「さすがに、そこまでひどくない、はず」

 勝くんは声をあげて笑う。

「もしもの話だよ。だから大丈夫」

 私はむくれ顔のまま、熱されていくフライパンを見つめる。むくれ顔なのは照れ臭いからだ。彼の優しさが嬉しくて、胸がきゅんとして、どんな反応をすればいいかわからない。
 梢ちゃん、と勝くんが呼んだ。なに、と答えて彼を見たとき、唇と頬の間くらいに、キスがかすめた。

「夕飯、ありがとう。嬉しい」

 ふわりとおりてくる笑顔。
 え。
 え……
 今の……なに?
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