五月病の処方箋

松丹子

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 白石学園の小林克己は、そこそこ人気のある予備校教師だ。
 そして、玲子と大学のゼミを同じくした同窓生でもある。
 大学のゼミは、そこそこ人数が多い方だったが、玲子と克己は一年時に必修科目で一緒になった頃からのつき合いで、仲がよかった。
 どちらかというと自信家で快活な玲子と、穏やかで他人の話を聴くのが上手い克己は、周りから見ればつき合っているようにも見えたらしい。よくそう言われては違うと否定し、お互い笑い話に変えたのを覚えている。
 在学当時は互いに恋人がいたし、一つの恋が終わっても、大して間を開けずそれぞれ次の恋が始まった。とはいえ、二人は恋にのめり込むたちではない。卒業してからもコロコロと恋人を変えつつ、教員とは異なるが各々人材育成の仕事についた二人は、情報交換も兼ねて折につけて飲みに行った。
 24歳のある日、酔っ払ってご機嫌になった二人は、肩を組んで意気揚々と帰っていた。
 不意に、克己が言った。
「なあ、玲子」
「何よ」
 克己はあまり酒が強くない。玲子もザルという程ではないが、克己よりはマシだった。
「あのさぁ。もし、三十まで、お互い独身だったら」
 克己は笑っていたが、その目は本気だった。ーー一見、酔ってはいても。玲子には、わかった。
「試してみようか、俺たち」
 玲子は鼻で笑った。胸をわしづかみにされたような、奇妙な幸福感を察されないように。
「何それ。私を軽い女だと馬鹿にしてる?」
「してないよ」
 克己が立ち止まったので、玲子も立ち止まる。克己は玲子の肩に回していた手を、頭へ回し、頬へ添えた。
「そのときは、結婚前提で」
 ーーその台詞を。
 聞いたのも、五月だった。
 思い出して、玲子はワイングラスを口につける。
 そして、克己はその頃つき合い始めた彼女と、そのまま、何事もなかったかのように、ゴールインしたのだ。その二年後ーー26のときだった。
(嫌なことを思い出させるもんだわ)
 思いながらも、玲子は気づいている。目の前に座る椿希は悪くないーー何も。
「小林くんとは、ゼミが一緒で仲良くて、まあちょっと、そういう関係もいいかもねー、なんて臭わせたことがあったくらいの人よ」
 嘆息すると、簡単にかい摘まんで説明をした。
「ふぅん」
 椿希は一見穏やかな微笑を崩さない。が、その目は興味深そうな色を帯びて、玲子を観察している。
 ーーコミュニケーションの基本は、観察ですから。
 一度、その目が気になる、と言ったことがある。椿希は失礼、と一言笑って、ぬけぬけとそう言ったのだった。
 ーー仕事仲間なら、遠慮せず観察させてもらえるかと思って。
 そう言われると言い返せない玲子の気質を、彼はしっかりわかっているのだろう。そう思いながら、やっぱり言い返せない玲子だった。
「たったそれだけの関係の人との話をするために、五年間避け続けた俺との夕飯をオーケーするわけですね」
「避け続けてなんてーー」
 言い返そうとしたが、椿希の静かなーーしかしその実、情熱を帯びた目に見つめられて、玲子は黙った。
 続けようとした言葉の代わりに息を吐き出し、玲子はまたスパーリングワインを口にする。
「そっちこそ、何だってこんな枯れかけたアラサーOL誘うわけ。貴方くらいハイスペックなら、女の子なんてより取り見取りじゃないの」
 スーツや髪型を地味にすることで隙を作ってごまかしてはいるが、素材は相当にいいものを持っている椿希だ。本当に似合うものを身につけて歩けば、それこそ声をかけられることだってあるだろう。
 玲子も大学生くらいのときには、道を歩いていて街頭モデルに声をかけられたこともあった。それこそ克己と一緒に歩いていて、カップルスタイリングの写真をと言われたこともあったが、もちろん丁重にお断りした。
「枯れかけたーーねぇ」
 椿希は楽しげに喉の奥を鳴らして笑った。
「そこに笑う?」
 わずかに傷ついて、玲子は眉を寄せる。
 椿希はまた、今度は軽やかな笑い声をあげて笑った。
「いや、そうじゃなくて」
 椿希は手を伸ばし、ワイングラスに添えられた玲子の手を、やんわりと包んだ。
 久々に触れる男の手は、ごつごつしていて温かい。何より、自分の手を裕に包みこむ大きさが、彼の細身の身体には感じない包容力を感じさせて戸惑った。
「枯れる前に、手折るため、かな」
 手折る。
「ーーずいぶん、しゃれた言葉を使うもんね」
「そりゃ、こういう仕事してますから」
 にこり、と椿希は笑った。
 が、やはりその目は、揺るがない熱情を秘めてーー否、もはや、隠そうともしていないと分かる。
(何よ、それ)
 玲子はその視線にたじろぎながら、やんわりと包まれたままの手でグラスを持ち、口に運んだ。
 椿希の手は静かに彼の手元へと戻っていく。
(眠った虎を起こしちゃった、かな)
 静かに見つめ続けられる視線に辟易しながら、玲子は思った。
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