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序章

06 肌に咲く花

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「……いまだに、僕は君のことがわからへん」
 ベッドのヘリに縛ったままのわたしの手首を撫でながら、男は呟くように言った。
 わたしは喉の奥でくつと笑う。
「うちにも……わからへん」
 男はちらりとわたしを見て、落胆したような目を、静かにそらす。
 恋い焦がれる女に届かない想いを歎くように。
 役者にでも、なったつもりか。
「何度こうして君を抱いても、手に入った気がせぇへん」
「手に入れて、どうする気です?」
 門倉と同じく、妻子もいる人だ。
 それどころか、孫すらいる人だ。
 食事をして、執拗なほどの前戯を経て、性交をして、その後もこうして、何の生産性もない会話を交わしているわたしたちの関係が、馬鹿げているとは思わないのだろうか。
 自分の手を引き寄せようとしたとき、手首が縛られたままだったことを思い出した。
 ため息をつく。
 わたしの身体はいつだって、わたしの思い通りにならない。
「まだ、解いてくれへんのですか」
「ああ……」
 男は名残惜しげに、わたしの手首に手を這わせ、首筋に唇を落とした。
 水気の乏しい男の口元から、加齢臭に似た臭いを感じて息を止める。
「今日も綺麗だよ……葉子」
 わたしは黙って目を閉じた。

 しとしとと雨が降り続く中、教授とは駅前で別れた。わたしはタクシーを拾って自分の家へと向かう。
「送ろか」
 と言われたが、丁重にお断りした。
 家を教えなどすれば、今後の逢い引きに使われかねない。
 東京の家には、男が立ち入ったことはない。
 それがわたしにとって唯一の安らぎだった。
 教授との逢瀬では、ホテルに泊まって行くように言われたときもあったが、今やそれもなくなった。
 わたしが頑なに帰宅するので諦めたらしい。

 帰宅するとスタンドライトを点けた。
 その薄暗さが、男との情事の後にはちょうどいい。
 疲労感に任せ、椅子に腰掛ける。
 執拗な愛撫を思い出し、ぞわりと鳥肌が立った。
(シャワー、浴びな)
 行為の後にも浴びたが、そうしなければこの粟立ちは落ち着きそうにない。

 乱暴に服を脱ぎ捨て、浴室に入った。
 こういうとき、短い髪は便利だ。何度洗ってもすぐに乾く。
 ザーザーと降りしきるシャワーを頭からかぶって、身体を満遍なくさすりながら、執拗に洗い流す。
 つい肌が赤らむほどに肌をこする。
 今さら洗い流そうにも、積年染み付いたこの穢れが取れるわけもないのに。
 思いながらも、手の力は緩めない。
 顔に滴る湯を振り払い、胸元でシャワーを受ける。
 シャワーの振動が、胸を細かく叩いた。
 上下の唇を引き結んで、こすり合わせる。
 身体に残る這った手の感触を上書きするために、シャワーの湯量を増した。
 痛いくらいの勢いで、シャワーが身体をたたく。わたしは全身をくまなく流した。

 三十後半になった頃から、身体の肉が重力に負けて垂れてきた。
 妊娠も出産も経験していないのに、腰回りには醜い肉がつきはじめ、自分ではみっともないと思うそれも、男にとってはそそる対象らしい。
 加齢すればいずれ、男も新しい女を探すだろうと思っていた。それがただの希望的観測に過ぎなかったらしいと、最近では半ば諦めている。
 一通り身体中を水圧でたたき終わると、シャワーを止めた。
 浴室を満たしていた水音が消え、耳の奥に名残がじわりと広がる。
 のろのろと身体を拭き取る途中、胸元に赤い跡を見つけて眉を寄せた。
 舌打ちを噛み殺し、肌を拭う。

 わたしの肌は、鬱血しやすいらしい。
 普段は青白くて血の気を感じないわたしの肌は、男が少し手をくわえるとこうして赤い花を咲かせる。
 だからこそ、男も欲情して、繰り返し跡を残したがるのだ。

 わたしの産まれ持ついちいちが、不要な男を引き寄せる。
 そして誰も、本当の意味でわたしを見てはくれない。
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