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.4章 かめは本音をさらけ出す
..34 決断
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その後、産婦人科に行った早紀は、案の定、「卵子の凍結だけでも」と勧められたと、悩ましげな顔で帰ってきた。
俺は「そっか」と答えて、早紀をソファへ促す。
二人分のハーブティーを淹れながら、ふと思った。隣にすわって、話を聞く。ただそれだけのことなのに、こんな当たり前のことを、今まで俺はできずにいたんだ。
並んでソファに腰掛けて、早紀の横顔を見つめた。
「……早紀は、どうしたい?」
早紀は目を泳がせてから、上目遣いに俺を見上げる。その申し訳なさそうな顔で、だいたい返事は分かった。
「……呆れてない?」
「なんで?」
「この期に及んで、また迷ってるって……」
煮え切らない自分が情けないのだろう。うつむいた早紀に苦笑した。
「なんでそれで呆れるの」
「でも……いっつもこうだもん、イライラするよね?」
「しないって」
腰に手を当てて、あのなー、と大げさにため息をついて見せる。
「早紀の方こそ、見くびるなよ。俺だって俺なりに、早紀のこと分かってプロポーズしたつもりなんだからな」
結婚しよう。
十年前、俺は早紀に、それだけしか言えなかった。
それまでさんざん、どう言ったらかっこいいだろうとか、早紀が喜ぶだろうとか考えたくせに、いざ、そのときになってみると、一番シンプルなことしか言えなかったんだ。
ちょっといいレストランで。
窓から見える夜景を見下ろして、「綺麗だね」と微笑む早紀に。
きっともう、そのつもりだって伝わってるんだろうな、なんて思うのに、それでも緊張しながら指輪を差し出した。
――もうずいぶん、昔のことのように思えるけれど。
「……うん」
早紀ははにかんだ微笑みを浮かべて、胸を撫で下ろすように息をついた。
「ありがとう……もう少し、考えてみる」
その日にした話は、そこまでだった。俺はそれ以上何も言わず、早紀もそれ以上何も言わなかった。
早紀が望むようにしてほしい。俺の願いはただそれだけだった。自分が子どもを欲しいかとか、そういうことよりもまっさきに、早紀と穏やかな日々を過ごしたかった。そのために、卵子の凍結が必要かどうか。それが、俺の判断基準だった。
前の早紀ならそれを、当事者意識が低いとなじったかもしれない。けれど今は、分かってくれているような気がする。
翌朝、早紀はいつもと変わらなかった。いつも通り起きて、薬を飲もうとして「あ、そっか。もうないんだった」と笑う。
排卵日をコントロールするためのホルモン剤は、昨日が最後だった。小さな習慣の変化を、一つ一つ夫婦で感じていく。
その日も、その翌日も、早紀は何も言わなかった。どうするつもりだろう、と気にはなったけれど、俺からは何も言わないと決めた。
早紀が、早紀のタイミングで決心すべきことだ。半端に焦らせてはよくない。
早紀が俺を散歩に誘ったのは週末だった。もう年末も間近だ。空はよく晴れていたけれど寒くて、どちらからともなく手を繋いだ。
互いの手を温め合いながら、歩き、ふと会話が途切れたとき、早紀は静かに、呟いた。
「しないことにした」
ぽつり、と、俺と早紀の一歩前に落ちるみたいな言葉だった。あまりにシンプルな言葉に、逆に俺が戸惑って、ほんとにいいの、と聞いてしまったくらいだ。
返ってきたのは困ったような笑いだった。「もう」と肩をたたかれる。
「せっかく決心したんだから、また迷わせるようなこと言わないで」
そうやって冗談めかして肩をたたかれたのも、そんな風に文句を言わたのも初めてだ。
「あ、そっか。……そうだよな」
あいづちを打って頭を掻きながら、内心なんでか照れた。初めて見る早紀の一面に、結婚前に戻ったみたいなときめきを覚える。
ごめん、と謝ると、「ううん、いいよ」と早紀は笑った。
その表情は、今までよりも少し強くなったように見える。
また前を向いた早紀の横顔は、柔らかいけれどまっすぐだ。
――綺麗だな。
十年越しに、妻に惚れ直す。
俺ってばほんと、あれこれしょうもない男だけど、女を見る目はあると思う。
――いや、女だけじゃない、人を見る目はあると思う。
めちゃくちゃ支えてくれた、励ましてくれた友達の顔を思い出して、くすぐったい喜びがこみ上げた。
「幸弘くん」
青空の下、手を繋いで歩きながら、早紀は言った。
「楽しみだね。さ来週の旅行」
俺はその微笑みを受け止めて、微笑み返す。
「そうだな。――楽しみだな」
***
週明け、早紀に月のモノが来た。
早紀が今にも泣き出しそうな顔をしているくせに泣かずにいたから、むしろ俺が我慢できなくて、早紀を抱き寄せて泣いた。
――変なの、幸弘くんてば。私も泣いてないのに。
早紀は泣きそうな顔で笑ったけど、いいんだ。いいだろ。今まで早紀が一人で泣いてた分、今度は俺が一人で泣いてやる。嗚咽でそんなセリフも言えずにいたら、早紀は黙って俺の背を撫でてくれた。
こうして、子どもを授かるためだけに肌を重ねる生活は終わった。
俺は「そっか」と答えて、早紀をソファへ促す。
二人分のハーブティーを淹れながら、ふと思った。隣にすわって、話を聞く。ただそれだけのことなのに、こんな当たり前のことを、今まで俺はできずにいたんだ。
並んでソファに腰掛けて、早紀の横顔を見つめた。
「……早紀は、どうしたい?」
早紀は目を泳がせてから、上目遣いに俺を見上げる。その申し訳なさそうな顔で、だいたい返事は分かった。
「……呆れてない?」
「なんで?」
「この期に及んで、また迷ってるって……」
煮え切らない自分が情けないのだろう。うつむいた早紀に苦笑した。
「なんでそれで呆れるの」
「でも……いっつもこうだもん、イライラするよね?」
「しないって」
腰に手を当てて、あのなー、と大げさにため息をついて見せる。
「早紀の方こそ、見くびるなよ。俺だって俺なりに、早紀のこと分かってプロポーズしたつもりなんだからな」
結婚しよう。
十年前、俺は早紀に、それだけしか言えなかった。
それまでさんざん、どう言ったらかっこいいだろうとか、早紀が喜ぶだろうとか考えたくせに、いざ、そのときになってみると、一番シンプルなことしか言えなかったんだ。
ちょっといいレストランで。
窓から見える夜景を見下ろして、「綺麗だね」と微笑む早紀に。
きっともう、そのつもりだって伝わってるんだろうな、なんて思うのに、それでも緊張しながら指輪を差し出した。
――もうずいぶん、昔のことのように思えるけれど。
「……うん」
早紀ははにかんだ微笑みを浮かべて、胸を撫で下ろすように息をついた。
「ありがとう……もう少し、考えてみる」
その日にした話は、そこまでだった。俺はそれ以上何も言わず、早紀もそれ以上何も言わなかった。
早紀が望むようにしてほしい。俺の願いはただそれだけだった。自分が子どもを欲しいかとか、そういうことよりもまっさきに、早紀と穏やかな日々を過ごしたかった。そのために、卵子の凍結が必要かどうか。それが、俺の判断基準だった。
前の早紀ならそれを、当事者意識が低いとなじったかもしれない。けれど今は、分かってくれているような気がする。
翌朝、早紀はいつもと変わらなかった。いつも通り起きて、薬を飲もうとして「あ、そっか。もうないんだった」と笑う。
排卵日をコントロールするためのホルモン剤は、昨日が最後だった。小さな習慣の変化を、一つ一つ夫婦で感じていく。
その日も、その翌日も、早紀は何も言わなかった。どうするつもりだろう、と気にはなったけれど、俺からは何も言わないと決めた。
早紀が、早紀のタイミングで決心すべきことだ。半端に焦らせてはよくない。
早紀が俺を散歩に誘ったのは週末だった。もう年末も間近だ。空はよく晴れていたけれど寒くて、どちらからともなく手を繋いだ。
互いの手を温め合いながら、歩き、ふと会話が途切れたとき、早紀は静かに、呟いた。
「しないことにした」
ぽつり、と、俺と早紀の一歩前に落ちるみたいな言葉だった。あまりにシンプルな言葉に、逆に俺が戸惑って、ほんとにいいの、と聞いてしまったくらいだ。
返ってきたのは困ったような笑いだった。「もう」と肩をたたかれる。
「せっかく決心したんだから、また迷わせるようなこと言わないで」
そうやって冗談めかして肩をたたかれたのも、そんな風に文句を言わたのも初めてだ。
「あ、そっか。……そうだよな」
あいづちを打って頭を掻きながら、内心なんでか照れた。初めて見る早紀の一面に、結婚前に戻ったみたいなときめきを覚える。
ごめん、と謝ると、「ううん、いいよ」と早紀は笑った。
その表情は、今までよりも少し強くなったように見える。
また前を向いた早紀の横顔は、柔らかいけれどまっすぐだ。
――綺麗だな。
十年越しに、妻に惚れ直す。
俺ってばほんと、あれこれしょうもない男だけど、女を見る目はあると思う。
――いや、女だけじゃない、人を見る目はあると思う。
めちゃくちゃ支えてくれた、励ましてくれた友達の顔を思い出して、くすぐったい喜びがこみ上げた。
「幸弘くん」
青空の下、手を繋いで歩きながら、早紀は言った。
「楽しみだね。さ来週の旅行」
俺はその微笑みを受け止めて、微笑み返す。
「そうだな。――楽しみだな」
***
週明け、早紀に月のモノが来た。
早紀が今にも泣き出しそうな顔をしているくせに泣かずにいたから、むしろ俺が我慢できなくて、早紀を抱き寄せて泣いた。
――変なの、幸弘くんてば。私も泣いてないのに。
早紀は泣きそうな顔で笑ったけど、いいんだ。いいだろ。今まで早紀が一人で泣いてた分、今度は俺が一人で泣いてやる。嗚咽でそんなセリフも言えずにいたら、早紀は黙って俺の背を撫でてくれた。
こうして、子どもを授かるためだけに肌を重ねる生活は終わった。
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