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.3章 うさぎはかめに手を伸ばす
..28 届かない手
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翌朝、朝食を終えるとすぐに帰宅した。ザッキーからも両親からも、早紀を気にかける言葉を聞いたから気がかりだったこともあるし、自分がぬくぬくしている間、早紀がどんな風に過ごしていたのかと思うと不安で仕方なかったからでもある。
家に着いたのは十時を過ぎていたけれど、玄関に俺を迎えに出て来る姿はなかった。
教師って典型的にブラックな職業だから、部活やなんやで休日出勤することはよくある。今日も仕事に行ったんだろうかと残念に思ったとき、しんとした静けさの先、夫婦の寝室からかすかな衣擦れの音が聞こえた。
ほっとして、そこまで足を運ぶ。そっとドアを開けると、早紀はベッドの上にいた。
「……おかえり。早かったね」
二度の流産を経験して以降、朝が弱くなってしまった早紀の声はかすれて、表情もぼんやりしている。
「ごめん、もしかして起こした?」
「うん……うぅん」
早紀はのろのろと、枕元のスマホを手にした。画面を表示させて時計を見て、気鬱そうに息を吐き出す。
「ああ……もう、こんな時間だったんだ」
ひとりごちると、乱れた髪をけだるげに掻き上げながらゆっくり身体を起こした。
その姿が辛そうで、何かしてあげたくなる。
「身体、つらい? 朝、何か食べたいものあれば俺が……」
「ううん。いい。大丈夫」
俺の言葉を遮るように、早紀は静かに言った。とはいえ体調はよくないのだろう。上体を起こして動きを止め、頭を押さえている。
昔より血管が浮き出て見える手の甲に、いたたまれなくなって一歩近づいた。
早紀が息を詰め、手の隙間から俺を見上げる。不意に訪れた緊張状態に怯んで、俺も足を止めた。
「……えっと。今日、休みかな? もしよければ、散歩でも行かないか。ちょっと話が……」
「ごめん、仕事溜まってて。今日も職場に行こうと思ってたの」
早紀は再び、俺の言葉を遮った。ぐっと唾を飲んだ俺に、早紀はようやく少し肩の力を抜いて手を下ろし、取りつくろうような苦笑を浮かべる。
「……ごめんね」
「いや……」
気をつけて行けよ、と自分の口が言うのを、俺は他人事のように聞いていた。早紀が、うんありがとう、と答える。その声は早紀であって早紀でない。電話を終えたときと同じ、感情が感じられない声音。
心臓が妙に、ざらついた音を立てていた。この感じを、俺は知っている。それどころか、最近ずっと、こんなやりとりを重ねているような気がする。それがいつからかも分からないほど、俺も早紀も、社交辞令みたいな会話だけを交わす夫婦になっていた。
早紀が「お手洗い」と立ち上がろうとしてふらついた。慌てて手を伸ばし、腕に受け止める。強ばった早紀の身体の感触は、実家で手にしたグラスの堅さを思い出させた。
早紀は俺の頬の辺りに向けてお礼を言って、部屋を出て行く。
早紀が眠っていた気配を残したままの部屋で、ひとり立ち尽くしていた。それは、半ば絶望だ。
穏やかに微笑んだザッキーの目。
いとおしいものを見る香子の目。
決意と気遣いをにじませた母の目。
そんな表情に、みんなの言葉に、後押しされてようやく、手を伸ばす決意ができたのに。
早紀に――愛する人の心に、俺は触れることもできない。
深々と口から出たため息を、両手で押さえ込んだ。
「分かんねぇよ……」
うめいて、目を閉じる。
まぶたに浮かぶ早紀の姿は、やっぱり暗がりでうずくまる背中だった。
早紀、なあ、早紀。お前なんで、そんなところで、ひとりでうずくまってるんだ。
おかしいじゃないか。
だって俺は、もっと柔らかで、あたたかくて、自由な空間に、早紀と二人でいるはずだったのに。そのつもりだったのに。
それなのに、いつから。どうして、いつの間に。早紀は冷え冷えとした暗がりに、俺から離れてひとり、行ってしまったんだ。そしてどうして俺は、そのことに今まで気づかなかったんだ。
今の俺は、どうするべきなんだろう。どうするのが正解なんだろう。
早紀のいるそこに、俺も一緒に行くべきなんだろうか。
なんだか日本神話みたいだ。冥界に堕ちたイザナミを、イザナギが取り戻しに行く。けど、結局うまく行かなかった。イザナギは自ら、イザナミを暗闇に封印した――一緒にいようと思ったら、暗闇の中に留まるしかなかったのかもしれない。
俺は今まで、早紀を無理矢理にでも暗闇から引っ張り出そうと、必死になっていたような気がする。けど、それじゃダメなのかもしれない。早紀が求めているのはそうじゃなくて……夫婦で、ともに……
目の前がブラックアウトしたような気がして、ベッドに腰を下ろした。同じ家の中に早紀がいる。ドアを数枚隔てただけのところにいる。けれどそれは心地のいい感覚ではなかった。互いが自分の息を殺して、互いの気配に耳を澄ましている、緊張を孕んだ空気。
ゆっくりと息を吐き出した。ざらついた血流が、身体中を巡る気配が妙にリアルだ。
早紀が職場で倒れたのは、その翌週のことだった。
家に着いたのは十時を過ぎていたけれど、玄関に俺を迎えに出て来る姿はなかった。
教師って典型的にブラックな職業だから、部活やなんやで休日出勤することはよくある。今日も仕事に行ったんだろうかと残念に思ったとき、しんとした静けさの先、夫婦の寝室からかすかな衣擦れの音が聞こえた。
ほっとして、そこまで足を運ぶ。そっとドアを開けると、早紀はベッドの上にいた。
「……おかえり。早かったね」
二度の流産を経験して以降、朝が弱くなってしまった早紀の声はかすれて、表情もぼんやりしている。
「ごめん、もしかして起こした?」
「うん……うぅん」
早紀はのろのろと、枕元のスマホを手にした。画面を表示させて時計を見て、気鬱そうに息を吐き出す。
「ああ……もう、こんな時間だったんだ」
ひとりごちると、乱れた髪をけだるげに掻き上げながらゆっくり身体を起こした。
その姿が辛そうで、何かしてあげたくなる。
「身体、つらい? 朝、何か食べたいものあれば俺が……」
「ううん。いい。大丈夫」
俺の言葉を遮るように、早紀は静かに言った。とはいえ体調はよくないのだろう。上体を起こして動きを止め、頭を押さえている。
昔より血管が浮き出て見える手の甲に、いたたまれなくなって一歩近づいた。
早紀が息を詰め、手の隙間から俺を見上げる。不意に訪れた緊張状態に怯んで、俺も足を止めた。
「……えっと。今日、休みかな? もしよければ、散歩でも行かないか。ちょっと話が……」
「ごめん、仕事溜まってて。今日も職場に行こうと思ってたの」
早紀は再び、俺の言葉を遮った。ぐっと唾を飲んだ俺に、早紀はようやく少し肩の力を抜いて手を下ろし、取りつくろうような苦笑を浮かべる。
「……ごめんね」
「いや……」
気をつけて行けよ、と自分の口が言うのを、俺は他人事のように聞いていた。早紀が、うんありがとう、と答える。その声は早紀であって早紀でない。電話を終えたときと同じ、感情が感じられない声音。
心臓が妙に、ざらついた音を立てていた。この感じを、俺は知っている。それどころか、最近ずっと、こんなやりとりを重ねているような気がする。それがいつからかも分からないほど、俺も早紀も、社交辞令みたいな会話だけを交わす夫婦になっていた。
早紀が「お手洗い」と立ち上がろうとしてふらついた。慌てて手を伸ばし、腕に受け止める。強ばった早紀の身体の感触は、実家で手にしたグラスの堅さを思い出させた。
早紀は俺の頬の辺りに向けてお礼を言って、部屋を出て行く。
早紀が眠っていた気配を残したままの部屋で、ひとり立ち尽くしていた。それは、半ば絶望だ。
穏やかに微笑んだザッキーの目。
いとおしいものを見る香子の目。
決意と気遣いをにじませた母の目。
そんな表情に、みんなの言葉に、後押しされてようやく、手を伸ばす決意ができたのに。
早紀に――愛する人の心に、俺は触れることもできない。
深々と口から出たため息を、両手で押さえ込んだ。
「分かんねぇよ……」
うめいて、目を閉じる。
まぶたに浮かぶ早紀の姿は、やっぱり暗がりでうずくまる背中だった。
早紀、なあ、早紀。お前なんで、そんなところで、ひとりでうずくまってるんだ。
おかしいじゃないか。
だって俺は、もっと柔らかで、あたたかくて、自由な空間に、早紀と二人でいるはずだったのに。そのつもりだったのに。
それなのに、いつから。どうして、いつの間に。早紀は冷え冷えとした暗がりに、俺から離れてひとり、行ってしまったんだ。そしてどうして俺は、そのことに今まで気づかなかったんだ。
今の俺は、どうするべきなんだろう。どうするのが正解なんだろう。
早紀のいるそこに、俺も一緒に行くべきなんだろうか。
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ゆっくりと息を吐き出した。ざらついた血流が、身体中を巡る気配が妙にリアルだ。
早紀が職場で倒れたのは、その翌週のことだった。
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