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.3章 うさぎはかめに手を伸ばす
..25 いとしい人
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ザッキーと別れた後、予定通り実家の方へと向かったけれど、すぐに行く気にならずにぶらぶらと駅近くを散策した。
涙で泣き腫らした目を見られるのも嫌だし、落ち着くまで父への誕生日プレゼントでも買って行こう。
駅前のショッピングモールで、高機能のデジタルウォッチを買った。時計と脈拍とストップウォッチがついているから、最近ウォーキングを始めたという父にもちょうどいいだろうと決めたプレゼントだ。
住み慣れた場所でも、十年離れればそこここに変化が見える。三つあったコンビニが二つになったとか、パン屋の後に違うパン屋が入ったりとか、学校帰りに立ち寄っていた本屋がなくなったりとか。
軽く諸行無常を感じながら歩いているうち傾いていた日は完全に落ちた。
あちこちに街灯が灯り始め、道路を車のヘッドライトが流れていく。
夏ならまだ明るい時間なのに、一気に夜が広がっていく。あのじっとりとまとわりついた暑さは嘘のように、風が肌を撫で、去って行く。
世の中は、もう冬に向かってまっしぐらだ。
横を車が通り抜けた。子どもたちと遊んでかいた汗のせいか、風が思いの外冷たくて身をすくめる。通り過ぎた車の向こうに、母子連れが手を繋いで歩いていた。香子と子どもたちの背中を思い出す。
胸には暖かな温もりと同時に、罪悪感めいた暗闇がじわりと広がった。
――早紀は今、どうしているだろう。
こうして外にいるとき、俺の頭に思い浮かぶのは、薄暗い自宅だ。
五年前の夏。暗くなっているのに電気も点けず、リビングでひとり、呆然と座っている早紀。
離れた場所で早紀を思うとき、真っ先にあの光景が思い浮かぶ。
――早紀は今も、あの家の中でひとり、過ごしているんだろうか。
そう思うと、息苦しさがこみ上げて、いてもたってもいられない。
足を止めて、スマホを取り出した。画面をタップすると、履歴から早紀の番号を探す。
壁に寄りかかって耳を澄ました。
コール音が鳴る。一度。二度。三度――……
目の前を、車が通り過ぎた。一台。二台。コール音を数えていたはずが、気づけば過ぎ去る車の台数を数えている。また一台。もう一台――スマホを耳に押し当てている意味すら、一瞬忘れかけたところで、コール音が途切れて我に返った。
「……早紀」
呼びかけると、うん、と声が返ってきた。
面と向かって話しているときよりも、くぐもった声。機器越しに、互いが互いの息づかいに耳を澄ませるかのような間が空く。
ああそうだ、俺が電話をかけたんだから、俺から話さなきゃ――
『……どうかした?』
早紀が静かに問うてきた。うん、と俺も答えて、息を吸う。
「ちょっと……声、聞きたくなった」
今朝まで、それとなく早紀と話すのを避けていたというのに、突然こんなことを言うのは変だろうか。
指摘されるかと身構えたけれど、早紀は『そっか』と、少しだけ力の抜けた声で答えた。それが笑った吐息のように聞こえて安堵する。
早紀の笑顔を思い浮かべようと目を閉じた。
大好きな笑顔。大切な笑顔――今すぐ抱きしめたくなって、息を吐き出した。
「……愛してるよ」
自然と漏れた言葉に、自分でも驚いた。こんなこと、今まで何度、言ったことがあっただろうか。ザッキーは毎日のように伝えてるのかもだけど、俺はそんなに口にしたことがない。
早紀も早紀で、戸惑ったようだった。何を答えればいいのかと探る気配に、俺も思わず慌てる。
「あ、その。ごめん、急にこんなこと言ったらびっくりするよな。でも、なんか……俺、あんまりそういうの、ちゃんと伝えてこなかったなって思って……」
早紀が息を吸う気配を感じて言葉を止めると、『幸弘くん』と静かに呼びかけられた。
早紀が神妙な声で続ける。
『神崎くんと……会ったの?』
とたん、罪悪感がこみ上げた。実家に帰るとは言ったけれど、ザッキーに会うことは言ってない。それも、今日は香子と二人で話した――とは、到底口にできなかった。「うん……まあ」とあいまいなあいづちで応じてから、自分で自分をフォローするように口早に繋いだ。
「その、ちょうど、ザッキーも今日、都合がよくて」
『そっか』
早紀の声は平坦だった。一瞬だけ漂った早紀の体温は、もうその声に感じられない。
今、早紀が何を感じているのか、何を考えているのか、その声からは分からない。
『よかったね』と言う静かな声を、素直に受け取ってよいものか分からないまま、「うん」とあいまいにうなずく。
妙な焦りが、じりじりと俺を侵食してきた。その場にじっとしていられず、足踏みする。それでも、早紀に投げかける言葉が浮かばず、口を開いては閉じた。
『……私、ちょっと仕事、残ってるから』
早紀は感情の読めない声のまま、通話の終わりを告げた。
寂しさの一方でほっとする。そんな自分の薄情さに自己嫌悪を抱きながら、そっか、と答えた。
「無理、するなよ。冷えてきたから、身体冷やさないようにな。あったかくして寝ろよ」
形ばかりの労りの言葉は、不思議なほど流暢に口から滑り出た。
本心であって本心でない、こんな言葉がいったい何になるんだろう。
そう思ったけれど、早紀も何のためらいもなく、うんありがとう、と答えた。型どおりの俺の言葉と同じように、反射のような返事。
通話を終えると、だらりとそのまま、腕を下ろした。スマホが指から滑り落ちそうになって、慌てて掴み直す。
手のひらは、知らない間に妙に汗ばんでいた。
じり、とまた、何かが俺の足元を焼く気配がする。
――知らない間に、ずいぶんと、遠ざかってしまった。
心が呟いた言葉が、恐ろしいほどまっすぐ胸に落ちてきた。
今まで、気づかないふりをしていたこと。気にしないようにしていたこと――
今の俺と早紀は、ずいぶんと遠いところに、いる。
ふっ、と、息を吐き出した。呼吸が浅くなっていたみたいだ。息を吸い直して、顔を上げる。目に飛び込んできた車のヘッドライトが、ゆらり、と揺れたような気がした。
――まだ、間に合うんだろうか。
今まで避けていた、考えないようにしていた問いが、ぽっかりと頭に浮かぶ。
離れて行く、可能性だってある。夫婦なんて、所詮他人だ。一緒に寝起きしているこの関係が、ただ何事も無く続いていく保証なんて、実際どこにもない。
どこにも、ない。
君がまた、心から笑うようになる保証も。
笑い合う。
――俺たちはまた、笑い合えるようになるんだろうか。
君の笑顔を、見られる日が来るんだろうか。
早紀。早紀――
心の中でいくら呼びかけても、まぶたの裏にいる早紀は答えない。――答えない。笑ったまま、ただ俺を静かに見つめているだけだ。
そしてその笑顔すら、遙か過去のものに思えてならない。
涙で泣き腫らした目を見られるのも嫌だし、落ち着くまで父への誕生日プレゼントでも買って行こう。
駅前のショッピングモールで、高機能のデジタルウォッチを買った。時計と脈拍とストップウォッチがついているから、最近ウォーキングを始めたという父にもちょうどいいだろうと決めたプレゼントだ。
住み慣れた場所でも、十年離れればそこここに変化が見える。三つあったコンビニが二つになったとか、パン屋の後に違うパン屋が入ったりとか、学校帰りに立ち寄っていた本屋がなくなったりとか。
軽く諸行無常を感じながら歩いているうち傾いていた日は完全に落ちた。
あちこちに街灯が灯り始め、道路を車のヘッドライトが流れていく。
夏ならまだ明るい時間なのに、一気に夜が広がっていく。あのじっとりとまとわりついた暑さは嘘のように、風が肌を撫で、去って行く。
世の中は、もう冬に向かってまっしぐらだ。
横を車が通り抜けた。子どもたちと遊んでかいた汗のせいか、風が思いの外冷たくて身をすくめる。通り過ぎた車の向こうに、母子連れが手を繋いで歩いていた。香子と子どもたちの背中を思い出す。
胸には暖かな温もりと同時に、罪悪感めいた暗闇がじわりと広がった。
――早紀は今、どうしているだろう。
こうして外にいるとき、俺の頭に思い浮かぶのは、薄暗い自宅だ。
五年前の夏。暗くなっているのに電気も点けず、リビングでひとり、呆然と座っている早紀。
離れた場所で早紀を思うとき、真っ先にあの光景が思い浮かぶ。
――早紀は今も、あの家の中でひとり、過ごしているんだろうか。
そう思うと、息苦しさがこみ上げて、いてもたってもいられない。
足を止めて、スマホを取り出した。画面をタップすると、履歴から早紀の番号を探す。
壁に寄りかかって耳を澄ました。
コール音が鳴る。一度。二度。三度――……
目の前を、車が通り過ぎた。一台。二台。コール音を数えていたはずが、気づけば過ぎ去る車の台数を数えている。また一台。もう一台――スマホを耳に押し当てている意味すら、一瞬忘れかけたところで、コール音が途切れて我に返った。
「……早紀」
呼びかけると、うん、と声が返ってきた。
面と向かって話しているときよりも、くぐもった声。機器越しに、互いが互いの息づかいに耳を澄ませるかのような間が空く。
ああそうだ、俺が電話をかけたんだから、俺から話さなきゃ――
『……どうかした?』
早紀が静かに問うてきた。うん、と俺も答えて、息を吸う。
「ちょっと……声、聞きたくなった」
今朝まで、それとなく早紀と話すのを避けていたというのに、突然こんなことを言うのは変だろうか。
指摘されるかと身構えたけれど、早紀は『そっか』と、少しだけ力の抜けた声で答えた。それが笑った吐息のように聞こえて安堵する。
早紀の笑顔を思い浮かべようと目を閉じた。
大好きな笑顔。大切な笑顔――今すぐ抱きしめたくなって、息を吐き出した。
「……愛してるよ」
自然と漏れた言葉に、自分でも驚いた。こんなこと、今まで何度、言ったことがあっただろうか。ザッキーは毎日のように伝えてるのかもだけど、俺はそんなに口にしたことがない。
早紀も早紀で、戸惑ったようだった。何を答えればいいのかと探る気配に、俺も思わず慌てる。
「あ、その。ごめん、急にこんなこと言ったらびっくりするよな。でも、なんか……俺、あんまりそういうの、ちゃんと伝えてこなかったなって思って……」
早紀が息を吸う気配を感じて言葉を止めると、『幸弘くん』と静かに呼びかけられた。
早紀が神妙な声で続ける。
『神崎くんと……会ったの?』
とたん、罪悪感がこみ上げた。実家に帰るとは言ったけれど、ザッキーに会うことは言ってない。それも、今日は香子と二人で話した――とは、到底口にできなかった。「うん……まあ」とあいまいなあいづちで応じてから、自分で自分をフォローするように口早に繋いだ。
「その、ちょうど、ザッキーも今日、都合がよくて」
『そっか』
早紀の声は平坦だった。一瞬だけ漂った早紀の体温は、もうその声に感じられない。
今、早紀が何を感じているのか、何を考えているのか、その声からは分からない。
『よかったね』と言う静かな声を、素直に受け取ってよいものか分からないまま、「うん」とあいまいにうなずく。
妙な焦りが、じりじりと俺を侵食してきた。その場にじっとしていられず、足踏みする。それでも、早紀に投げかける言葉が浮かばず、口を開いては閉じた。
『……私、ちょっと仕事、残ってるから』
早紀は感情の読めない声のまま、通話の終わりを告げた。
寂しさの一方でほっとする。そんな自分の薄情さに自己嫌悪を抱きながら、そっか、と答えた。
「無理、するなよ。冷えてきたから、身体冷やさないようにな。あったかくして寝ろよ」
形ばかりの労りの言葉は、不思議なほど流暢に口から滑り出た。
本心であって本心でない、こんな言葉がいったい何になるんだろう。
そう思ったけれど、早紀も何のためらいもなく、うんありがとう、と答えた。型どおりの俺の言葉と同じように、反射のような返事。
通話を終えると、だらりとそのまま、腕を下ろした。スマホが指から滑り落ちそうになって、慌てて掴み直す。
手のひらは、知らない間に妙に汗ばんでいた。
じり、とまた、何かが俺の足元を焼く気配がする。
――知らない間に、ずいぶんと、遠ざかってしまった。
心が呟いた言葉が、恐ろしいほどまっすぐ胸に落ちてきた。
今まで、気づかないふりをしていたこと。気にしないようにしていたこと――
今の俺と早紀は、ずいぶんと遠いところに、いる。
ふっ、と、息を吐き出した。呼吸が浅くなっていたみたいだ。息を吸い直して、顔を上げる。目に飛び込んできた車のヘッドライトが、ゆらり、と揺れたような気がした。
――まだ、間に合うんだろうか。
今まで避けていた、考えないようにしていた問いが、ぽっかりと頭に浮かぶ。
離れて行く、可能性だってある。夫婦なんて、所詮他人だ。一緒に寝起きしているこの関係が、ただ何事も無く続いていく保証なんて、実際どこにもない。
どこにも、ない。
君がまた、心から笑うようになる保証も。
笑い合う。
――俺たちはまた、笑い合えるようになるんだろうか。
君の笑顔を、見られる日が来るんだろうか。
早紀。早紀――
心の中でいくら呼びかけても、まぶたの裏にいる早紀は答えない。――答えない。笑ったまま、ただ俺を静かに見つめているだけだ。
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