うさぎはかめの夢を見る

松丹子

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.3章 うさぎはかめに手を伸ばす

..24 親友

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子どもたちが満足するまで遊びにつき合ったら、日が暮れ始めた。

「ご飯の準備があるから、そろそろ帰るよー」

 香子の号令にしぶしぶ返事をして、子どもたちがその両手に繋がる。
 歩き出す後ろに俺とザッキーが続いたら、長男の翔太がくるりと振り向いた。

「ねぇ。こばやん、今日もう帰るの?」
「え? ああ……」

 答えに迷った俺に、ザッキーが助け船を出す。

「こばやんだって予定があるんだよ」
「あ、そうなの? 夕飯、一緒に食べてっても大丈夫だけど」

 香子に「いや、今日はやめとく」と答えると、翔太は「ちぇー」と唇を尖らせた。

「じゃあ、今度また来てよね。オセロしよう。絶対負けないから!」
「オセロ?」

 そんなの、最後にしたのはいつだっただろう。単語の響きが既に懐かしくて、自然と口元が弛んだ。

「分かった。やろう、今度な」
「やった! いつ? 明日? 来週?」
「え? い、いや、それは……」

 矢継ぎ早に問われてたじろぐ。「翔太」とザッキーが息子をたしなめた。

「こばやん、困ってるよ。また予定が決まったら教えるから、今日はバイバイ。な?」
「分かった」

 うなずいた翔太はじゃっかん不服げだったけれど、ザッキーはその頭に手を乗せる。
 たぶん俺と変わらない大きさなのだろうその手は、やたらと大きく見えた。
 これが父親の手なんだろうな。
 とてもじゃないけど、自分に置き換えて想像することができない。
 ――私が母親になる資格がないから、赤ちゃんが来てくれないのかな。
 早紀はいつだか、そんな意味のことを言っていた。
 そのとき俺は「そんなことない」と言ったけれど、自分に置き換えてみようだなんて思わなかった。
 もしも、子どもを授かることに、親になる資格、が求められているのなら、俺はどうなんだろう。
 今までそれすら考えてなかったということが、そもそも、子どもを持つ、という将来が、俺にとって遠い、ということの証なのかもしれない。
 家の前で別れた俺に、翔太はぶんぶん手を振ってくれた。俺は必要ないと言ったのに、ザッキーは駅まで送るとついて来てくれた。
 二人で並んで歩きながら、ザッキーは穏やかに微笑む。

「今日はこばやんがいて大満足だったみたい。ありがと、遊んでくれて」
「うん。……俺もいい気分転換になった」
「そう? ならよかった」

 ザッキーはほっとしたように笑った。俺も、口にした言葉に嘘はない。たまにつき合えばいい気分転換だ。
 けれど、休日が毎日これじゃ、体力が保つのか不安にもなる。子育てに体力が必要だというのは本当だなと、また自分に足りないものを見いだす。
 ふと、二人の間に沈黙が降りた。
 数時間前に歩いた道を戻る足は、来るときほど重くなかった。冷えきっていた身体は子どもたちと動いたおかげで暖まって、脇のあたりは少し汗ばんですらいる。
 俺とザッキーが歩く足音に、ときどき落葉が踏まれるくしゃりという音が混ざった。色づいたイチョウの合間から夕陽が差し込み、ときどきまぶしさに目を細める。
 上げた視線をそのまま、友人の横顔へと滑らせた。

「ザッキーさ。……知ってたの?」

 ザッキーは目だけで俺の方を見た。前を開けたコートのポケットに手をつっこんだまま、何をとその目で問うてくる。

「香子の……その、気持ち」

 気まずくてごにょごにょと補足すると、ザッキーはすぐに「知らないわけないでしょ」と目を細めた。
 そのまま、前を見る。黒い髪を、夕陽がところどころ金色に輝かせている。

「知ってたよ。……気づかないわけないでしょ。ずっと、見てたんだから」

 当然のように、ザッキーは言った。ずっと、見てた。――見てたら、分かるものなのか。

「会ったときから……最初にこばやんと香子ちゃんが話してる姿、見たときから、気づいてたよ」

 そして笑う。本当に当然のように。吹いてもいない風が吹いたような気がして、胸に、妙な感情がまとわりついた。トゲではない。けれどざらついた何か。――情けなさだ。自分への。

「……なんだ、それ」

 かろうじて、そう返した。
 なんだよ、そんなの。そんなの、俺は知らない。知らないで、平気でザッキーに「告白しちゃえよ」なんて言って、煽ってた。応援してる、つもりだった。
 二人の――それぞれの気持ちも知らないで、俺なりに――友達の幸せを、祈ってる、つもりで。
 つもり、ばっかりだ。
 愛してる、つもり。愛されてる、つもり。大切にしてる、つもり――
 はぁー、と、腹の底から、息が漏れた。自分に呆れて、何も言えない。ほんと、俺、馬鹿すぎる。

「……俺、すげぇウザい奴じゃん」
「そうだよ」

 俺の言葉に、何を今さら、って顔で、ザッキーは答えた。あまりにあっさり答えるもんだから、さすがに、ぶすっ、て胸に矢が刺さったみたいな感じがする。
 そういえばこいつの趣味は弓道だった、なんてしょうもないことを思い出して痛みをごまかそうとしてみる。
 「でもさ」と、ザッキーは続けた。

「それはそれ、これはこれでしょ。こばやんが気づいてないのは知ってたし、本気で俺のこと、応援してくれてるのも知ってた。香子ちゃんが、自分の気持ちを伝えないつもりだってことも、なんとなく分かってた。それに、こばやんはこばやんなりに、友達として、俺と香子ちゃんの幸せを願ってくれてたし」

 ふふっ、と、ザッキーは笑った。こんないい男、俺が女なら放っておかない。あのときも今もそう思う、綺麗な顔で綺麗に笑う。

「キセキみたいなもんだよ」

 キラキラ、夕陽が落ちてくる。違う、イチョウだ。金色の葉が、夕陽を浴びながら落ちてくる。ザッキーの上に。周りに。ザッキーの言葉――キセキを、形にして見せてくれてるみたいに。

「大好きな人と、両思いになって、夫婦になって、子どもまで授かって。ほんと、キセキだなって思う。それを願うかどうかは人によるし、それが叶うかどうかも人によるけど、俺はそう願って、叶って、これ以上ないほどに幸せだよ」

 他の奴が言ったなら、張り倒したくなるようなセリフなのに、ザッキーの言葉はすんなりと俺の胸に沁みていく。
 綺麗すぎて尊くて、なんだか泣きそうだ。

「キセキみたいなもんだよ」

 ザッキーはもう一度、静かに繰り返した。
 今度は俺を見る。
 半月型に細められた目が、柔らかな光を宿して俺を映す。

「愛する人と一緒にいられることは。それだけで、キセキみたいなもんだよ」

 じわ、とにじんだ視界に、またかよ、と慌てた。
 目を逸らしたら、しなやかな手に頭を掴まれる。
 引き寄せられ、こつんと額がぶつかったのは、ザッキーの肩だった。

「――幸せになれよ、こばやん」

 結婚したときにも聞いたセリフを、今改めて、耳にした。
 ――あのときは想像もしていなかった毎日の中で。
 親友の祈りが、胸に刺さる。

「……うん」

 笑おうとして、失敗した。情けなさとか悔しさとか、ザッキーへの信頼とか香子への友情とか、ぜんぶぜんぶ、一気にこみ上げてきて、自分の中で収拾がつかなくなって、涙と嗚咽に変わった。
 ああ、くそ。香子と歩いてるときは、我慢できたのに。こんなの――こんなん、止まらねぇよ。
 訳わかんないくらい、涙がこみ上げて止まらなかった。ザッキーのコートの肩は俺の涙でべちょべちょになって、それでも俺の頭をひっつかむようにしたまま、黙ってじっとしてくれていた。
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