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.2章 かめは甲羅に閉じこもる
..16 主体性
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それから二週間ほどした頃だった。外気はもう夏を忘れ始め、公園のイチョウが少しずつ色づき始めている。
朝、鏡の前でネクタイを結んでいると、早紀はゆっくり、近づいてきた。
「幸弘くん……今日」
「ああ、うん。早く帰る」
いつものことだと、あえて目を合わせずに答えた。早紀が俺を求めるのは、種が必要なとき。そう決まっている。聞かずともそう思っていた。けれど。
「違うの」
早紀は珍しく、はっきりそう言った。珍しく強い声音に、鏡から顔を外し、頭ひとつ下にある早紀の顔を見下ろす。
蝋人形のように血の気を失った早紀の顔の中で、丸い目はギラギラと、やたらと強く輝いて俺を捉えていた。
「違うの。……話、したいの。……ステップアップの件」
低い、低い声で告げられた最後の言葉に、俺はネクタイを力一杯締め上げられたような息苦しさに襲われた。
結ぶ途中だったネクタイを、あえて、緩いままに留める。「ああ……」と言葉を探して目を泳がせて、鏡の中のネクタイを見つめた。
「……もうちょっと、考えさせてくんない?」
答えながら、そこに映る自分の手が震えていないことを確認していた。見栄えは悪くないように、けれど喉は締め付けないように、ネクタイを整える。こう言えば、早紀は食い下がらない。そう思ったのに、
「あったよね?」
その鋭い声がどこから聞こえたのか、一瞬分からなかった。この家には俺と早紀しかいない。それなのに、まるで香子みたいに強い、はっきりした意思を孕んだ声がした。
俺よりも高い声。女の声。女の――
この家にいるのは、早紀だけだ。
ごくり、と喉が鳴った。
怯む内心を押し隠し、早紀を見下ろす。早紀はじっと、俺を見上げていた。その目が、まるで俺を飲み込もうとしているように大きく見える。確かに、早紀の目は元々、くるりと丸い。けれど、こんなに、くっきりしていなかったはずだ。
ぞわっ、と、悪寒が背中を抜けた。
「考える時間、あったよね? だって最初に話したの、もう一ヶ月前だよ。あれから……もう、一回分、卵子、流れちゃったんだよ。もしかしたら、赤ちゃんになれてたかもしれない卵子、無駄にしちゃったんだよ?」
早紀は告げる。淡々とした声は、俺の心臓を刺してくる。遠慮なく。殴ってくる。俺の良心と、防衛本能を、同時に揺さぶり、脅かす。
「私の赤ちゃんが、流れちゃったんだよ。私たちの、赤ちゃん、かわいそうに」
早紀が息を継ぎ継ぎ、言葉を紡いだ。乾燥のせいか、その口の周りが白く見える。黒々したまつげのせいで、血走った白目の部分が一層目に焼き付く。
「私、これ以上、かわいそうな卵子、増やしたくない。できるならもう、全部、私の身体の中の卵子全部、取り出して凍結しておきたい。だって、可能性……赤ちゃんになれる可能性、高い方がきっと、その子たちのためになる。そうでしょ?」
浅い呼吸で言う早紀が、俺に詰め寄る。俺はまばたきすらできないまま、そんな早紀を見下ろしている。
――誰だ、この女は?
真っ白になった頭の中に浮かんだのは、そんな問いだった。
悪寒と恐怖で、全身が強張っている。
この女は――誰だ?
これが早紀だと、思えなかった。思うことを、脳が拒否していた。
もしかしたら、早紀は――俺が愛した人は、俺が妻にした人は、妖怪にでも喰われてしまったんじゃないだろうか。そして俺は、妖怪の子作りを手伝わされてるんじゃないか? またしても馬鹿げた空想が、本気で脳裏を巡り、頭痛のような警鐘を鳴らす。
「幸弘くん。聞いてる?」
有無を言わせぬ早紀の声が、割れて聞こえる。聞いたこともない、苛立ちを帯びた低い声。俺を憎んでいるような声。
これは本当に、早紀なのか? あの、穏やかで引っ込み思案で、少しのことではにかんだり困ったりする、あの早紀なのか?
血の気のひいた肌、笑うことを忘れ痩けた頬、血走った目……目の前の妻の姿が、恐ろしいものに見え始める。
「お、俺は……」
声が喉につっかえた。早紀はためらいなく、俺を見上げている。確固とした意志を持った目が、俺を貫かんとするばかりに見据えている。
なんだ、これは。
分からない。
早紀のことが――妻のことが――分からない。
足首を何かに掴まれたように、その場から動けなかった。泥沼に引き込まれていく――そんな恐怖に込み上げる悲鳴を、どうにか、喉の奥で噛み殺す。
「言ったじゃない」と早紀は言った。静かな、けれど早い口調で、一気に言い切った。
「子ども、欲しいって。四人いたらリレーさせるんだって、幸弘くん、言ってたじゃない。四人――今から四人なんて、できるかどうか――もう、時間がないんだよ。時間が――ないの」
早紀は身もだえるようにかぶりを振った。乱れた髪が、視界に広がる。いつからか、艶のあった髪はぱさついて、肩甲骨を覆う長さから肩までの長さに変わった。乱れる髪を見て、逆に俺の心は少しだけ、落ち着く。
「落ち着けよ、早紀……落ち着けって」
「逆だよ。なんでそんな――なんでそんなに、幸弘くんは落ち着いていられるの!? 私たちの赤ちゃんのことなのに! ふたりの、赤ちゃんのことなのに!!」
フタリノアカチャンノコトナノニ。
香子のセリフが、また脳裏によみがえる。
――だって子どもって女ひとりでできるもんじゃないでしょ。男の人がいないとできないでしょ。
続いて、ザッキーの言葉。
――いろいろ言っても……そういうことは結局、女性側の気持ち次第だからね。
それじゃあ、俺の意思はどうなる?
――男は無力だね。支えることはできても……どうしても、当事者にまではなれない。
当事者には、なれない。当事者には……
ぐらんぐらん、地面が揺れている。
俺は早紀がいなくなったことにも気づかず、しばらくそのまま、立ちすくんでいた。
朝、鏡の前でネクタイを結んでいると、早紀はゆっくり、近づいてきた。
「幸弘くん……今日」
「ああ、うん。早く帰る」
いつものことだと、あえて目を合わせずに答えた。早紀が俺を求めるのは、種が必要なとき。そう決まっている。聞かずともそう思っていた。けれど。
「違うの」
早紀は珍しく、はっきりそう言った。珍しく強い声音に、鏡から顔を外し、頭ひとつ下にある早紀の顔を見下ろす。
蝋人形のように血の気を失った早紀の顔の中で、丸い目はギラギラと、やたらと強く輝いて俺を捉えていた。
「違うの。……話、したいの。……ステップアップの件」
低い、低い声で告げられた最後の言葉に、俺はネクタイを力一杯締め上げられたような息苦しさに襲われた。
結ぶ途中だったネクタイを、あえて、緩いままに留める。「ああ……」と言葉を探して目を泳がせて、鏡の中のネクタイを見つめた。
「……もうちょっと、考えさせてくんない?」
答えながら、そこに映る自分の手が震えていないことを確認していた。見栄えは悪くないように、けれど喉は締め付けないように、ネクタイを整える。こう言えば、早紀は食い下がらない。そう思ったのに、
「あったよね?」
その鋭い声がどこから聞こえたのか、一瞬分からなかった。この家には俺と早紀しかいない。それなのに、まるで香子みたいに強い、はっきりした意思を孕んだ声がした。
俺よりも高い声。女の声。女の――
この家にいるのは、早紀だけだ。
ごくり、と喉が鳴った。
怯む内心を押し隠し、早紀を見下ろす。早紀はじっと、俺を見上げていた。その目が、まるで俺を飲み込もうとしているように大きく見える。確かに、早紀の目は元々、くるりと丸い。けれど、こんなに、くっきりしていなかったはずだ。
ぞわっ、と、悪寒が背中を抜けた。
「考える時間、あったよね? だって最初に話したの、もう一ヶ月前だよ。あれから……もう、一回分、卵子、流れちゃったんだよ。もしかしたら、赤ちゃんになれてたかもしれない卵子、無駄にしちゃったんだよ?」
早紀は告げる。淡々とした声は、俺の心臓を刺してくる。遠慮なく。殴ってくる。俺の良心と、防衛本能を、同時に揺さぶり、脅かす。
「私の赤ちゃんが、流れちゃったんだよ。私たちの、赤ちゃん、かわいそうに」
早紀が息を継ぎ継ぎ、言葉を紡いだ。乾燥のせいか、その口の周りが白く見える。黒々したまつげのせいで、血走った白目の部分が一層目に焼き付く。
「私、これ以上、かわいそうな卵子、増やしたくない。できるならもう、全部、私の身体の中の卵子全部、取り出して凍結しておきたい。だって、可能性……赤ちゃんになれる可能性、高い方がきっと、その子たちのためになる。そうでしょ?」
浅い呼吸で言う早紀が、俺に詰め寄る。俺はまばたきすらできないまま、そんな早紀を見下ろしている。
――誰だ、この女は?
真っ白になった頭の中に浮かんだのは、そんな問いだった。
悪寒と恐怖で、全身が強張っている。
この女は――誰だ?
これが早紀だと、思えなかった。思うことを、脳が拒否していた。
もしかしたら、早紀は――俺が愛した人は、俺が妻にした人は、妖怪にでも喰われてしまったんじゃないだろうか。そして俺は、妖怪の子作りを手伝わされてるんじゃないか? またしても馬鹿げた空想が、本気で脳裏を巡り、頭痛のような警鐘を鳴らす。
「幸弘くん。聞いてる?」
有無を言わせぬ早紀の声が、割れて聞こえる。聞いたこともない、苛立ちを帯びた低い声。俺を憎んでいるような声。
これは本当に、早紀なのか? あの、穏やかで引っ込み思案で、少しのことではにかんだり困ったりする、あの早紀なのか?
血の気のひいた肌、笑うことを忘れ痩けた頬、血走った目……目の前の妻の姿が、恐ろしいものに見え始める。
「お、俺は……」
声が喉につっかえた。早紀はためらいなく、俺を見上げている。確固とした意志を持った目が、俺を貫かんとするばかりに見据えている。
なんだ、これは。
分からない。
早紀のことが――妻のことが――分からない。
足首を何かに掴まれたように、その場から動けなかった。泥沼に引き込まれていく――そんな恐怖に込み上げる悲鳴を、どうにか、喉の奥で噛み殺す。
「言ったじゃない」と早紀は言った。静かな、けれど早い口調で、一気に言い切った。
「子ども、欲しいって。四人いたらリレーさせるんだって、幸弘くん、言ってたじゃない。四人――今から四人なんて、できるかどうか――もう、時間がないんだよ。時間が――ないの」
早紀は身もだえるようにかぶりを振った。乱れた髪が、視界に広がる。いつからか、艶のあった髪はぱさついて、肩甲骨を覆う長さから肩までの長さに変わった。乱れる髪を見て、逆に俺の心は少しだけ、落ち着く。
「落ち着けよ、早紀……落ち着けって」
「逆だよ。なんでそんな――なんでそんなに、幸弘くんは落ち着いていられるの!? 私たちの赤ちゃんのことなのに! ふたりの、赤ちゃんのことなのに!!」
フタリノアカチャンノコトナノニ。
香子のセリフが、また脳裏によみがえる。
――だって子どもって女ひとりでできるもんじゃないでしょ。男の人がいないとできないでしょ。
続いて、ザッキーの言葉。
――いろいろ言っても……そういうことは結局、女性側の気持ち次第だからね。
それじゃあ、俺の意思はどうなる?
――男は無力だね。支えることはできても……どうしても、当事者にまではなれない。
当事者には、なれない。当事者には……
ぐらんぐらん、地面が揺れている。
俺は早紀がいなくなったことにも気づかず、しばらくそのまま、立ちすくんでいた。
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