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.2章 かめは甲羅に閉じこもる
..12 不在
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その日の家事は俺が請け負って、出勤する早紀を玄関まで見送った。
話すべきことを話したからか、早紀は少しすっきりしているようだったけど、俺はもう、自分の目を信じる自信がなくて、困惑したまま早紀の背中が見えなくなるまでそこにいた。
パタンと閉じたドアの音を聞きながら、俺は思い出していた。早紀がまだ、泣いていた頃。二度の流産を思い出すたび、俺の腕の中で嗚咽していた頃――
「なんで、こうなんだろう」
俺がどんなになだめても慰めても、早紀は繰り返し言った。
「私って、いっつもこうなの。いっつも……みんなが当たり前にできてることが、なんでか、できないの……がんばってる、つもりなのに……がんばっても……」
そんなことないよ、と背中を撫でながら言った。少なくとも、大学受験だって、就職だって、第一希望に行けたんだから。できなくないよ。できてるよ。お前が、がんばった結果だろ。
そう何度、俺が言っても、早紀の心には届かなかった。
「幸弘くんの子どもを……私が……駄目にしちゃったんだ……駄目に……がんばっても、駄目な子に……しちゃったんだ、きっと……」
早紀、違うよ。そうじゃない。初期流産は誰にでもありえることだって――母体のせいじゃないって、先生も言ってたじゃないか。それが、たまたま、二度続いちゃっただけだよ。それだけだよ。早紀が悪いわけじゃない。早紀は悪くないよ。
俺なりに、言葉を尽くしたつもりだった。せいいっぱい、愛情を伝えようとしたつもりだった。
大事な人、愛する人。弱ったその心を、身体を支えようと、早紀に向き合っているつもりだった。
それでも、早紀の心には届かなかった。かたくなな早紀の心には、全然、届かなかった。
夫婦の営みは、一度途絶えた。俺は弱った早紀を抱く気にはなれなかったし、早紀も子作りを怖がるようになったからだ。
また、授かるかもしれない。――けれど、また、流れてしまうかもしれない。
早紀はしばらく、悪夢にうなされていた。俺は、もうこれからは夫婦ふたりの生活と割り切ろう、と提案したけど、それすらも早紀はあいまいに微笑むだけだった。
そしてふと空を見上げては、ごめんね、と言った。
「ごめんね、幸弘くん。……私なんかと、一緒になったから」
呟くようなその言葉が、妙に他人事のような諦観と憐憫が込められたその言葉が、早紀の口からこぼれる度に、俺の胸に突き刺さった。
どうしてそんなことを言うんだろう。俺には理解できなかった。
早紀の言葉が、気持ちが、心が、初めて全然、理解できないと思った。
それから少しして、早紀は職場の先輩から勧められたという産婦人科に通い始めた。不妊外来に力を入れていて、最新医療を受けられる、関東でも評判のいい病院なのだと熱心に語っていた。
そして、夫婦の営みは再開した――「子作り」の、「不妊治療」の一環として。
早紀に声をかけられて、俺は早紀を抱く。そこに不満はないけれど、前まで感じていたはずのあたたかな感情もなくなった。
それはただの「行為」で、「仕事」のひとつになったから。
俺が早紀にしてあげられること。早紀が俺に求めていること。
それをこなすことが、俺の役割なのだと思うようになっていた。
拒否することは、できなかった。ずっと、罪悪感がつきまとっていたから。
一度地上に降りかけて、また天へ昇っていってしまった俺たちの子どものこと。それを早紀がひとりで、抱え続けていたこと。それなのに、何も気づいてあげられなかったこと――
洗濯の終わりを告げる電子音が、俺を今へ引き戻した。
のろのろと浴室横のそれを開け、中から衣服を取り出してカゴに放り込む。早紀の服と、俺の服。タオルの類い。それらを一つ一つ、伸ばしては干していく。
洗濯物を伸ばすときには、いつも早紀の手の動きを思い出す。
丁寧に布を扱う華奢な指先。
実家にいた頃は、洗濯物なんてテキトーに手に取ってテキトーに干していた。ときどき、袖が折れ曲がったままだったりするもんだから、母に呆れられたくらいだ。
けど、結婚して、早紀が一つ一つ、シワを伸ばして干すのを見ていたら、申し訳なく思うようになって、少しだけ丁寧に伸ばすようになった。
そういう風に変わっていく自分が、嫌じゃなかった。早紀の手つきに、自分も少し近づいて、早紀が見ている景色に、自分も少し近づけた気がした。
小さな変化だけど、俺にとっては温かくて、くすぐったい変化だった。二人で洗濯物を干す時間は、二人の生活を感じる幸せなひとときだった。
青空を背に、ベランダで物干し竿に手を伸ばす早紀。横から洗濯物を伸ばしては渡すと、受け取って、ありがとう、と笑う――
不意に喉をかきむしりたくなるような衝動がこみ上げた。奥歯を噛みしめて顔を上げる。しっとりと濡れた洗濯物を手にしたまま、ベランダの外を睨むように睨んだ。
あのときと同じように、空は青く晴れ渡っている。
けれどそこに、早紀はいない。
あのときと同じように笑う早紀は、いない。
話すべきことを話したからか、早紀は少しすっきりしているようだったけど、俺はもう、自分の目を信じる自信がなくて、困惑したまま早紀の背中が見えなくなるまでそこにいた。
パタンと閉じたドアの音を聞きながら、俺は思い出していた。早紀がまだ、泣いていた頃。二度の流産を思い出すたび、俺の腕の中で嗚咽していた頃――
「なんで、こうなんだろう」
俺がどんなになだめても慰めても、早紀は繰り返し言った。
「私って、いっつもこうなの。いっつも……みんなが当たり前にできてることが、なんでか、できないの……がんばってる、つもりなのに……がんばっても……」
そんなことないよ、と背中を撫でながら言った。少なくとも、大学受験だって、就職だって、第一希望に行けたんだから。できなくないよ。できてるよ。お前が、がんばった結果だろ。
そう何度、俺が言っても、早紀の心には届かなかった。
「幸弘くんの子どもを……私が……駄目にしちゃったんだ……駄目に……がんばっても、駄目な子に……しちゃったんだ、きっと……」
早紀、違うよ。そうじゃない。初期流産は誰にでもありえることだって――母体のせいじゃないって、先生も言ってたじゃないか。それが、たまたま、二度続いちゃっただけだよ。それだけだよ。早紀が悪いわけじゃない。早紀は悪くないよ。
俺なりに、言葉を尽くしたつもりだった。せいいっぱい、愛情を伝えようとしたつもりだった。
大事な人、愛する人。弱ったその心を、身体を支えようと、早紀に向き合っているつもりだった。
それでも、早紀の心には届かなかった。かたくなな早紀の心には、全然、届かなかった。
夫婦の営みは、一度途絶えた。俺は弱った早紀を抱く気にはなれなかったし、早紀も子作りを怖がるようになったからだ。
また、授かるかもしれない。――けれど、また、流れてしまうかもしれない。
早紀はしばらく、悪夢にうなされていた。俺は、もうこれからは夫婦ふたりの生活と割り切ろう、と提案したけど、それすらも早紀はあいまいに微笑むだけだった。
そしてふと空を見上げては、ごめんね、と言った。
「ごめんね、幸弘くん。……私なんかと、一緒になったから」
呟くようなその言葉が、妙に他人事のような諦観と憐憫が込められたその言葉が、早紀の口からこぼれる度に、俺の胸に突き刺さった。
どうしてそんなことを言うんだろう。俺には理解できなかった。
早紀の言葉が、気持ちが、心が、初めて全然、理解できないと思った。
それから少しして、早紀は職場の先輩から勧められたという産婦人科に通い始めた。不妊外来に力を入れていて、最新医療を受けられる、関東でも評判のいい病院なのだと熱心に語っていた。
そして、夫婦の営みは再開した――「子作り」の、「不妊治療」の一環として。
早紀に声をかけられて、俺は早紀を抱く。そこに不満はないけれど、前まで感じていたはずのあたたかな感情もなくなった。
それはただの「行為」で、「仕事」のひとつになったから。
俺が早紀にしてあげられること。早紀が俺に求めていること。
それをこなすことが、俺の役割なのだと思うようになっていた。
拒否することは、できなかった。ずっと、罪悪感がつきまとっていたから。
一度地上に降りかけて、また天へ昇っていってしまった俺たちの子どものこと。それを早紀がひとりで、抱え続けていたこと。それなのに、何も気づいてあげられなかったこと――
洗濯の終わりを告げる電子音が、俺を今へ引き戻した。
のろのろと浴室横のそれを開け、中から衣服を取り出してカゴに放り込む。早紀の服と、俺の服。タオルの類い。それらを一つ一つ、伸ばしては干していく。
洗濯物を伸ばすときには、いつも早紀の手の動きを思い出す。
丁寧に布を扱う華奢な指先。
実家にいた頃は、洗濯物なんてテキトーに手に取ってテキトーに干していた。ときどき、袖が折れ曲がったままだったりするもんだから、母に呆れられたくらいだ。
けど、結婚して、早紀が一つ一つ、シワを伸ばして干すのを見ていたら、申し訳なく思うようになって、少しだけ丁寧に伸ばすようになった。
そういう風に変わっていく自分が、嫌じゃなかった。早紀の手つきに、自分も少し近づいて、早紀が見ている景色に、自分も少し近づけた気がした。
小さな変化だけど、俺にとっては温かくて、くすぐったい変化だった。二人で洗濯物を干す時間は、二人の生活を感じる幸せなひとときだった。
青空を背に、ベランダで物干し竿に手を伸ばす早紀。横から洗濯物を伸ばしては渡すと、受け取って、ありがとう、と笑う――
不意に喉をかきむしりたくなるような衝動がこみ上げた。奥歯を噛みしめて顔を上げる。しっとりと濡れた洗濯物を手にしたまま、ベランダの外を睨むように睨んだ。
あのときと同じように、空は青く晴れ渡っている。
けれどそこに、早紀はいない。
あのときと同じように笑う早紀は、いない。
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