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.2章 かめは甲羅に閉じこもる
..11 たまご
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「早紀、今日は休みなんだろ? 天気いいし、散歩しないか? 隣駅にさ、お前が好きそうなカフェができてて。知ってる?」
ザッキーと会った翌週末。
いつもなら正午近くまで眠っているところを、早紀と同じ時間にベッドから出た。
なんとなく鈍い早紀の反応には気づいていながら、二人で並んで朝食の準備をし、明るい声で話し続ける。
「駅でチラシ、配っててさ。もらったんだ。コーヒー一杯頼んだら、クッキーつけてくれるんだって。行ってみようぜ」
早紀の手元で、卵が割れた。目玉焼きが二つ、じっと早紀の顔を見上げている。早紀も二つの目玉焼きを、じっと見つめている。
俺はそんな二組の目玉の行方を、内心、緊張しながら見守っていた。
たっぷり七秒が経ったところで、早紀はゆっくりと、顔を上げた。
そこには、困ったようないつもの笑顔が浮かんでいる。
「……ごめんね。私、授業の準備しなくちゃいけないから。……教科書とか、職場に置いてきちゃったし、出勤しようと思ってて。幸弘くん、もしよければ、ひとりで行ってきて、感想教えて。また私も、行けるときに行くから」
早紀の言葉を聞きながら、俺は思った。
人の耳って、なんて繊細な構造をしてるんだろう。
早紀は別に、嘘を言っているわけじゃない、と思う。そんなつもりもない、と思う。けど、あえてワントーン高くした声の中に、何か別の感情がにじんでいる。俺の耳はその何かを感知して、その言葉が本心じゃないと聞き取っている。
嘘を言っているわけじゃない。けれど本心じゃない。
……なら、早紀の本心はどこだ?
いくら俺の耳が良くても、そこまで察することはできない。「そっか」と答えながら、めまぐるしく自分の中に適切な言葉を探していた。
俺一人で行くわけないだろ。早紀が一緒じゃないと意味ないんだよ。最近一緒に出かけてないじゃん。気分転換も必要だよ――
言葉は次々に沸いては消えていく。どれも俺の本音であって本心じゃない。迷子になったような感覚に、胸をかきむしりたくなる。
早紀と俺。俺と早紀――行き着く先はいったいどこなんだ。
ジジジジジ……と唸っていたトースターが、チーン、と思考時間の終わりを告げた。
「ステップアップ、しないかって」
トースターに手を伸ばしかけたときだった。早紀の呟きが、一瞬、耳を素通りしかけて、慌てて意識の上に引き戻す。
ステップアップ。
と、早紀は言った。
それだけ聞くと、悪くない響きだ。前向きで。前進できそうで。悪くない。
――けど、この場合は。
前向きと、言えるのだろうか。
「少しでも、若いうちに……先の手を打った方が、いいんじゃないかって。今、排卵誘発剤で、排卵日をコントロールしてるだけだけど……そろそろ、その」
人工受精。
その言葉だけが耳に残って、その後早紀が何を言っているのか、いまいち理解できなかった。
「体外受精に踏み切れなくても、とりあえずは卵子だけでも、凍結しておいたらどうかって言われたの。若い内の方が卵子の質もいいし、後でしておけばよかったと思っても遅いし、自分の卵子を戻すのが一番リスクが低いし……」
聞き覚えがあるような、ないような言葉が、けどやっぱりどこか他人事だったはずの単語が、早紀の口からするすると吐き出されていく。実際に早紀の口から出ているのは言葉で音で、見えるものではないはずなのに、なんだか奇妙な、薄暗い煙か毒々しいスライムみたいなものが、その口から吐き出されているように感じた。
恐怖に身がすくむ。
「……でもそうすると、今以上にお金が……最初に六、七万かかって、卵子を預けておくだけでも、年間二、三万円かかるから……」
早紀がコンロの火を止める。フライパンの上では、湯気を立てるふたつの目玉焼きが俺たちの会話に耳を澄ませていた。柔らかな桃色に変わった黄身に、上気した早紀の肌を思い出して目を逸らした。
早紀は当然のように2枚の皿を引き出した。その上にひとつずつ、目玉焼きを乗せる。
卵。卵子。受精。
――俺、今日、目玉焼きは、いい。食えない。
喉元までそう出かけたけど、口にはできなかった。ふたりで食卓に着くと、トースターから取り出したパンの間に目玉焼きを挟み、強引に口に運ぶ。食パンの端から、とろりと割れた黄身が垂れて手を汚した。吐き気がこみ上げて、ありもしない唾液を飲み込む。
「急に話したから、びっくりしたかな……また、今度ゆっくり話そうね」
俺の正面に座った早紀は、あいかわらず、困ったように微笑んでいる。微笑んでいる、訳ではなくて、その表情が顔に張り付いているだけかもしれない。
そういえば、最近、見ていない。早紀の泣く顔も、怒る顔も、拗ねた顔も、照れた顔も――声をあげて笑う顔も、見て、いない。
俺はなんとも答えられなかった。答えられないまま、何も考えないようにしながら、見えないようにした目玉焼きとトーストを咀嚼し、飲み込むことを繰り返した。
ザッキーと会った翌週末。
いつもなら正午近くまで眠っているところを、早紀と同じ時間にベッドから出た。
なんとなく鈍い早紀の反応には気づいていながら、二人で並んで朝食の準備をし、明るい声で話し続ける。
「駅でチラシ、配っててさ。もらったんだ。コーヒー一杯頼んだら、クッキーつけてくれるんだって。行ってみようぜ」
早紀の手元で、卵が割れた。目玉焼きが二つ、じっと早紀の顔を見上げている。早紀も二つの目玉焼きを、じっと見つめている。
俺はそんな二組の目玉の行方を、内心、緊張しながら見守っていた。
たっぷり七秒が経ったところで、早紀はゆっくりと、顔を上げた。
そこには、困ったようないつもの笑顔が浮かんでいる。
「……ごめんね。私、授業の準備しなくちゃいけないから。……教科書とか、職場に置いてきちゃったし、出勤しようと思ってて。幸弘くん、もしよければ、ひとりで行ってきて、感想教えて。また私も、行けるときに行くから」
早紀の言葉を聞きながら、俺は思った。
人の耳って、なんて繊細な構造をしてるんだろう。
早紀は別に、嘘を言っているわけじゃない、と思う。そんなつもりもない、と思う。けど、あえてワントーン高くした声の中に、何か別の感情がにじんでいる。俺の耳はその何かを感知して、その言葉が本心じゃないと聞き取っている。
嘘を言っているわけじゃない。けれど本心じゃない。
……なら、早紀の本心はどこだ?
いくら俺の耳が良くても、そこまで察することはできない。「そっか」と答えながら、めまぐるしく自分の中に適切な言葉を探していた。
俺一人で行くわけないだろ。早紀が一緒じゃないと意味ないんだよ。最近一緒に出かけてないじゃん。気分転換も必要だよ――
言葉は次々に沸いては消えていく。どれも俺の本音であって本心じゃない。迷子になったような感覚に、胸をかきむしりたくなる。
早紀と俺。俺と早紀――行き着く先はいったいどこなんだ。
ジジジジジ……と唸っていたトースターが、チーン、と思考時間の終わりを告げた。
「ステップアップ、しないかって」
トースターに手を伸ばしかけたときだった。早紀の呟きが、一瞬、耳を素通りしかけて、慌てて意識の上に引き戻す。
ステップアップ。
と、早紀は言った。
それだけ聞くと、悪くない響きだ。前向きで。前進できそうで。悪くない。
――けど、この場合は。
前向きと、言えるのだろうか。
「少しでも、若いうちに……先の手を打った方が、いいんじゃないかって。今、排卵誘発剤で、排卵日をコントロールしてるだけだけど……そろそろ、その」
人工受精。
その言葉だけが耳に残って、その後早紀が何を言っているのか、いまいち理解できなかった。
「体外受精に踏み切れなくても、とりあえずは卵子だけでも、凍結しておいたらどうかって言われたの。若い内の方が卵子の質もいいし、後でしておけばよかったと思っても遅いし、自分の卵子を戻すのが一番リスクが低いし……」
聞き覚えがあるような、ないような言葉が、けどやっぱりどこか他人事だったはずの単語が、早紀の口からするすると吐き出されていく。実際に早紀の口から出ているのは言葉で音で、見えるものではないはずなのに、なんだか奇妙な、薄暗い煙か毒々しいスライムみたいなものが、その口から吐き出されているように感じた。
恐怖に身がすくむ。
「……でもそうすると、今以上にお金が……最初に六、七万かかって、卵子を預けておくだけでも、年間二、三万円かかるから……」
早紀がコンロの火を止める。フライパンの上では、湯気を立てるふたつの目玉焼きが俺たちの会話に耳を澄ませていた。柔らかな桃色に変わった黄身に、上気した早紀の肌を思い出して目を逸らした。
早紀は当然のように2枚の皿を引き出した。その上にひとつずつ、目玉焼きを乗せる。
卵。卵子。受精。
――俺、今日、目玉焼きは、いい。食えない。
喉元までそう出かけたけど、口にはできなかった。ふたりで食卓に着くと、トースターから取り出したパンの間に目玉焼きを挟み、強引に口に運ぶ。食パンの端から、とろりと割れた黄身が垂れて手を汚した。吐き気がこみ上げて、ありもしない唾液を飲み込む。
「急に話したから、びっくりしたかな……また、今度ゆっくり話そうね」
俺の正面に座った早紀は、あいかわらず、困ったように微笑んでいる。微笑んでいる、訳ではなくて、その表情が顔に張り付いているだけかもしれない。
そういえば、最近、見ていない。早紀の泣く顔も、怒る顔も、拗ねた顔も、照れた顔も――声をあげて笑う顔も、見て、いない。
俺はなんとも答えられなかった。答えられないまま、何も考えないようにしながら、見えないようにした目玉焼きとトーストを咀嚼し、飲み込むことを繰り返した。
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