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.2章 かめは甲羅に閉じこもる
..18 考えたこともない「IF」
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「幸弘くん……大丈夫?」
目を覚ましたら、リビングに早紀がいた。リビングの端に寄せられた机は、小ぶりだが早紀の仕事用デスクだ。机上のノートPCには作りかけのプリントが表示されている。
時計を見ると、もう十一時を回っていた。入浴を済ませたらしい早紀は、ガーゼ地のパジャマの上に、薄いカーディガンを羽織っている。
「帰ったら、靴があるから、びっくりしたよ。ぐっすり寝てたね。体調、悪かった? 風邪?」
「いや……」
その場に立ち止まって、ぼんやり見つめている俺に、早紀は無造作に近づいてきた。
下着を身につけていない胸は頂きがくっきり浮いている。結婚した頃にはありえない無防備さだ。
「寝不足だった……だけかな。たぶん」
「そう。最近、忙しそうだったもんね」
青白い早紀の顔は、朝より多少、色づいて見えた。リビングのライトが暖色になっているからかもしれない。寝起きの俺の目が慣れていないからかもしれない。
頬に骨張った手が触れて、反射的に身構えた。
「まだ、ぼうっとしてる? 眠い?」
早紀の手は相変わらず、冷たい。けれど、今日は震えていないようだ。
ふぅ……と、細く長く、息を吐く。
今なら少し、落ち着いて……話せる、かもしれない。
そう思った矢先、ごめんね、と声が聞こえた。
「ごめんね……幸弘くんを、苦しめて」
その声が、あのときの早紀のそれと重なる。
あのとき。
俺が二度の流産を知ったあのとき。早紀が声をあげながら泣き、俺に謝り続けていたあのとき。
息を詰めた俺の前で、ふっ、と、早紀が吐息をつく。
「もう……朝子ちゃんも、小学生になるんだもんね」
早紀が呟いた言葉は唐突だった。ぼやけた思考の中で、それは二ヶ月前に交わした会話の内容だと思い出す。脳内の情報処理が整わないうちに、早紀は自嘲気味な声でひとりごちた。
「もし……私じゃなくて香子ちゃんだったら……幸弘くんももう、パパになってたのかな」
――何だって?
声ににじんだ早紀の涙が、吐き出された言葉が、俺の頭を殴りつけた。
――何を言っているんだ?
ノイズ音が、また耳の奥で聞こえ始める。ざらざらと、血が流れるような音。視界がブラウン管の砂嵐のようにざらついて見える。
選ばなかったIFの未来――そんな話をするのは、負け犬の遠吠えの一種だと思っていた。
早紀と一緒にいる。それを選んだことを、俺は後悔なんてしたこともない。疑ったこともない。それなのに。
早紀はうつむいたまま、目を合わせない。俺は自分の心音が、ドクドクと胸をたたく音だけを聞いている。
――もしかして、早紀は、違うのか?
突然、不安に襲われた。
俺は、早紀と俺がいて初めて、子どもという話になるんだと思っていた。
けれどもしかして、それは俺だけが思っていることで、早紀にとっては違ったのかもしれない。
早紀にとって俺は、たまたま、タイミングよくそこにいた異性、というだけで。
もし、他の人が横にいたら、俺といることはなかったと、そう思う程度の存在だったのかもしれない。
俺にとって、早紀との結婚は必然だった。
けど早紀にとっては――そうではない、のかもしれない。
ただでさえべたついていた口の中が乾いて、喉がからからだった。声にする以前に、言葉がうまく出て来ない。頭が回らない。俺は早紀に何を言うべきなんだろう。いったい何を話し合えばまた昔のように笑い合えるんだろう。
まったく、分からない。
――ザッキー。
かろうじて頭に浮かんだ言葉は、旧友へ助けを求める泣き言だった。
ザッキー、助けてよ。……俺、どうしたらいいんだろ。
情けなかった。苦しかった。悲しかった。
とにかくここから抜け出したくて、ふらつく足取りで家を出た。
目を覚ましたら、リビングに早紀がいた。リビングの端に寄せられた机は、小ぶりだが早紀の仕事用デスクだ。机上のノートPCには作りかけのプリントが表示されている。
時計を見ると、もう十一時を回っていた。入浴を済ませたらしい早紀は、ガーゼ地のパジャマの上に、薄いカーディガンを羽織っている。
「帰ったら、靴があるから、びっくりしたよ。ぐっすり寝てたね。体調、悪かった? 風邪?」
「いや……」
その場に立ち止まって、ぼんやり見つめている俺に、早紀は無造作に近づいてきた。
下着を身につけていない胸は頂きがくっきり浮いている。結婚した頃にはありえない無防備さだ。
「寝不足だった……だけかな。たぶん」
「そう。最近、忙しそうだったもんね」
青白い早紀の顔は、朝より多少、色づいて見えた。リビングのライトが暖色になっているからかもしれない。寝起きの俺の目が慣れていないからかもしれない。
頬に骨張った手が触れて、反射的に身構えた。
「まだ、ぼうっとしてる? 眠い?」
早紀の手は相変わらず、冷たい。けれど、今日は震えていないようだ。
ふぅ……と、細く長く、息を吐く。
今なら少し、落ち着いて……話せる、かもしれない。
そう思った矢先、ごめんね、と声が聞こえた。
「ごめんね……幸弘くんを、苦しめて」
その声が、あのときの早紀のそれと重なる。
あのとき。
俺が二度の流産を知ったあのとき。早紀が声をあげながら泣き、俺に謝り続けていたあのとき。
息を詰めた俺の前で、ふっ、と、早紀が吐息をつく。
「もう……朝子ちゃんも、小学生になるんだもんね」
早紀が呟いた言葉は唐突だった。ぼやけた思考の中で、それは二ヶ月前に交わした会話の内容だと思い出す。脳内の情報処理が整わないうちに、早紀は自嘲気味な声でひとりごちた。
「もし……私じゃなくて香子ちゃんだったら……幸弘くんももう、パパになってたのかな」
――何だって?
声ににじんだ早紀の涙が、吐き出された言葉が、俺の頭を殴りつけた。
――何を言っているんだ?
ノイズ音が、また耳の奥で聞こえ始める。ざらざらと、血が流れるような音。視界がブラウン管の砂嵐のようにざらついて見える。
選ばなかったIFの未来――そんな話をするのは、負け犬の遠吠えの一種だと思っていた。
早紀と一緒にいる。それを選んだことを、俺は後悔なんてしたこともない。疑ったこともない。それなのに。
早紀はうつむいたまま、目を合わせない。俺は自分の心音が、ドクドクと胸をたたく音だけを聞いている。
――もしかして、早紀は、違うのか?
突然、不安に襲われた。
俺は、早紀と俺がいて初めて、子どもという話になるんだと思っていた。
けれどもしかして、それは俺だけが思っていることで、早紀にとっては違ったのかもしれない。
早紀にとって俺は、たまたま、タイミングよくそこにいた異性、というだけで。
もし、他の人が横にいたら、俺といることはなかったと、そう思う程度の存在だったのかもしれない。
俺にとって、早紀との結婚は必然だった。
けど早紀にとっては――そうではない、のかもしれない。
ただでさえべたついていた口の中が乾いて、喉がからからだった。声にする以前に、言葉がうまく出て来ない。頭が回らない。俺は早紀に何を言うべきなんだろう。いったい何を話し合えばまた昔のように笑い合えるんだろう。
まったく、分からない。
――ザッキー。
かろうじて頭に浮かんだ言葉は、旧友へ助けを求める泣き言だった。
ザッキー、助けてよ。……俺、どうしたらいいんだろ。
情けなかった。苦しかった。悲しかった。
とにかくここから抜け出したくて、ふらつく足取りで家を出た。
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