9 / 39
.1章 うさぎはかめを振り返る
..09 ズレ
しおりを挟む
「おかえり」
帰宅した俺に、早紀は目を合わせないまま声をかけてきた。
「ただいま」
スーツを脱ぎ始めた俺の横に、一人分の距離を開けて寄って来る。
感情のうかがえない表情のまま、早紀は言った。
「今回も……駄目、だったかもしれない」
嫌なことは先に言ってしまおう。そんな意思を感じる早口に、俺は「そっか」と答えながら、心中苛立っていた。
――帰ってくるなり、それか。
今日、俺がザッキーと会ったことを、早紀は知っている。
久々に旧友と飲んで、せっかく気晴らしをして来たというのに……帰宅した俺を、はなから現実に引き戻す。
酒はもうとっくに胃の底に落ち着いているはずなのに、妙な苦みが口に広がった。
ザッキーは確かに俺の友達だけど、早紀にとってもサークル仲間だ。だからこそ、最初の一声は「神崎くん、元気だった?」とか、「楽しかった?」とか、そういう一言であって欲しかった。
帰宅するまで自覚していなかった、そんな自分の願望に気づく。
――ザッキーは真っ先に早紀のことを気にかけてくれたのに、早紀は自分のことしか考えていないのか。
ぐらぐらと漂う思考が、自分勝手なのは分かっている。
そう、分かっている――早紀のことをなじる権利は、俺にはない。
今日が通院日だと知っていながら、友人との夕食の予定を入れた。他日では互いの都合がつかなかったのは事実だけれど、早紀がひとりで夫婦の問題に向き合う時間に、俺は旧友と過ごすことを選んだのだ。
良心を刺す小さな罪悪感の針は、積もり積もって俺の胸を血まみれにする。けれどその痛みに、俺はどこかで安堵していた。
自嘲の笑みを心にとどめて、ゆっくりと口を開く。
「早紀。病院さ、今度は……一緒に行こうか?」
穏やかな、優しく、労るような声が出た。早紀は軽く、けれどはっきりと首を振った。
「ううん、いい」
答えた後で、取りつくろうように微笑む。
顔を上げたけれど、目は合わない。
「病院、いつもすごい人だから……毎日忙しいし疲れてるのに、つき合ってもらうのは悪いから。気持ちだけで、充分。ありがとう」
「……そう」
答えながら、ほっとしている俺に、早紀はきっと気づいているだろう。
また、良心を刺す針が増える。
日を追うごとに。早紀と会話を交わすごとに。
――早紀が通院し、帰宅し、俺に事務連絡のような報告をするごとに。
喉を圧迫する何かを、息とともにゆっくり吐き出した。
「もし……気が変わったら、言って。仕事も、都合つけるし」
「うん……ありがとう」
取って付けたような俺の気遣いに、取って付けたような早紀の返事があった。
それでも互いの顔は、微笑んでいる。
かろうじて。
引きつったような痛みが、無視できないほど強く、胸の下を走った。
早紀が息を吸う気配がする。
「神崎くんは、元気だった?」
その話題に、重かった空気が少し、軽くなった。
俺はやや食い気味にうなずいた。
「うん、相変わらずイケメンだった」
「そっか。翔太くんたちも……元気だって?」
「うん。下の、朝子ちゃんももうじき、小学生になるんだって。子どもの成長はあっという間だよなぁ」
つい、口が滑った。言うべきでないことまで言った、と理解したのは、早紀が一瞬、息を飲んだ気配がしたから。
はっとその顔を見やったけれど、その表情から早紀の感情は読み取れない。
「……そうなんだ」
何か言葉を飲み込んだように見えたけど、俺はそれに気づかないふりをした。
浴室へ向かって大股で歩き出す。
「俺、風呂、入るわ。酒臭いし、汗臭いし」
「うん。ゆっくり、どうぞ」
早紀は笑う。口元だけ。その紫色がかった唇に、白く乾いた表皮が目についたけれど、無理矢理気づかなかったふりで顔をそむけた。
帰宅した俺に、早紀は目を合わせないまま声をかけてきた。
「ただいま」
スーツを脱ぎ始めた俺の横に、一人分の距離を開けて寄って来る。
感情のうかがえない表情のまま、早紀は言った。
「今回も……駄目、だったかもしれない」
嫌なことは先に言ってしまおう。そんな意思を感じる早口に、俺は「そっか」と答えながら、心中苛立っていた。
――帰ってくるなり、それか。
今日、俺がザッキーと会ったことを、早紀は知っている。
久々に旧友と飲んで、せっかく気晴らしをして来たというのに……帰宅した俺を、はなから現実に引き戻す。
酒はもうとっくに胃の底に落ち着いているはずなのに、妙な苦みが口に広がった。
ザッキーは確かに俺の友達だけど、早紀にとってもサークル仲間だ。だからこそ、最初の一声は「神崎くん、元気だった?」とか、「楽しかった?」とか、そういう一言であって欲しかった。
帰宅するまで自覚していなかった、そんな自分の願望に気づく。
――ザッキーは真っ先に早紀のことを気にかけてくれたのに、早紀は自分のことしか考えていないのか。
ぐらぐらと漂う思考が、自分勝手なのは分かっている。
そう、分かっている――早紀のことをなじる権利は、俺にはない。
今日が通院日だと知っていながら、友人との夕食の予定を入れた。他日では互いの都合がつかなかったのは事実だけれど、早紀がひとりで夫婦の問題に向き合う時間に、俺は旧友と過ごすことを選んだのだ。
良心を刺す小さな罪悪感の針は、積もり積もって俺の胸を血まみれにする。けれどその痛みに、俺はどこかで安堵していた。
自嘲の笑みを心にとどめて、ゆっくりと口を開く。
「早紀。病院さ、今度は……一緒に行こうか?」
穏やかな、優しく、労るような声が出た。早紀は軽く、けれどはっきりと首を振った。
「ううん、いい」
答えた後で、取りつくろうように微笑む。
顔を上げたけれど、目は合わない。
「病院、いつもすごい人だから……毎日忙しいし疲れてるのに、つき合ってもらうのは悪いから。気持ちだけで、充分。ありがとう」
「……そう」
答えながら、ほっとしている俺に、早紀はきっと気づいているだろう。
また、良心を刺す針が増える。
日を追うごとに。早紀と会話を交わすごとに。
――早紀が通院し、帰宅し、俺に事務連絡のような報告をするごとに。
喉を圧迫する何かを、息とともにゆっくり吐き出した。
「もし……気が変わったら、言って。仕事も、都合つけるし」
「うん……ありがとう」
取って付けたような俺の気遣いに、取って付けたような早紀の返事があった。
それでも互いの顔は、微笑んでいる。
かろうじて。
引きつったような痛みが、無視できないほど強く、胸の下を走った。
早紀が息を吸う気配がする。
「神崎くんは、元気だった?」
その話題に、重かった空気が少し、軽くなった。
俺はやや食い気味にうなずいた。
「うん、相変わらずイケメンだった」
「そっか。翔太くんたちも……元気だって?」
「うん。下の、朝子ちゃんももうじき、小学生になるんだって。子どもの成長はあっという間だよなぁ」
つい、口が滑った。言うべきでないことまで言った、と理解したのは、早紀が一瞬、息を飲んだ気配がしたから。
はっとその顔を見やったけれど、その表情から早紀の感情は読み取れない。
「……そうなんだ」
何か言葉を飲み込んだように見えたけど、俺はそれに気づかないふりをした。
浴室へ向かって大股で歩き出す。
「俺、風呂、入るわ。酒臭いし、汗臭いし」
「うん。ゆっくり、どうぞ」
早紀は笑う。口元だけ。その紫色がかった唇に、白く乾いた表皮が目についたけれど、無理矢理気づかなかったふりで顔をそむけた。
0
お気に入りに追加
32
あなたにおすすめの小説
どうやら夫に疎まれているようなので、私はいなくなることにします
文野多咲
恋愛
秘めやかな空気が、寝台を囲う帳の内側に立ち込めていた。
夫であるゲルハルトがエレーヌを見下ろしている。
エレーヌの髪は乱れ、目はうるみ、体の奥は甘い熱で満ちている。エレーヌもまた、想いを込めて夫を見つめた。
「ゲルハルトさま、愛しています」
ゲルハルトはエレーヌをさも大切そうに撫でる。その手つきとは裏腹に、ぞっとするようなことを囁いてきた。
「エレーヌ、俺はあなたが憎い」
エレーヌは凍り付いた。
【完結】捨ててください
仲 奈華 (nakanaka)
恋愛
ずっと貴方の側にいた。
でも、あの人と再会してから貴方は私ではなく、あの人を見つめるようになった。
分かっている。
貴方は私の事を愛していない。
私は貴方の側にいるだけで良かったのに。
貴方が、あの人の側へ行きたいと悩んでいる事が私に伝わってくる。
もういいの。
ありがとう貴方。
もう私の事は、、、
捨ててください。
続編投稿しました。
初回完結6月25日
第2回目完結7月18日
私のドレスを奪った異母妹に、もう大事なものは奪わせない
文野多咲
恋愛
優月(ゆづき)が自宅屋敷に帰ると、異母妹が優月のウェディングドレスを試着していた。その日縫い上がったばかりで、優月もまだ袖を通していなかった。
使用人たちが「まるで、異母妹のためにあつらえたドレスのよう」と褒め称えており、優月の婚約者まで「異母妹の方が似合う」と褒めている。
優月が異母妹に「どうして勝手に着たの?」と訊けば「ちょっと着てみただけよ」と言う。
婚約者は「異母妹なんだから、ちょっとくらいいじゃないか」と言う。
「ちょっとじゃないわ。私はドレスを盗られたも同じよ!」と言えば、父の後妻は「悪気があったわけじゃないのに、心が狭い」と優月の頬をぶった。
優月は父親に婚約解消を願い出た。婚約者は父親が決めた相手で、優月にはもう彼を信頼できない。
父親に事情を説明すると、「大げさだなあ」と取り合わず、「優月は異母妹に嫉妬しているだけだ、婚約者には異母妹を褒めないように言っておく」と言われる。
嫉妬じゃないのに、どうしてわかってくれないの?
優月は父親をも信頼できなくなる。
婚約者は優月を手に入れるために、優月を襲おうとした。絶体絶命の優月の前に現れたのは、叔父だった。

妹に正妻の座を奪われた公爵令嬢
岡暁舟
恋愛
妹に正妻の座を奪われた公爵令嬢マリアは、それでも婚約者を憎むことはなかった。なぜか?
「すまない、マリア。ソフィアを正式な妻として迎え入れることにしたんだ」
「どうぞどうぞ。私は何も気にしませんから……」
マリアは妹のソフィアを祝福した。だが当然、不気味な未来の陰が少しずつ歩み寄っていた。

『 ゆりかご 』 ◉諸事情で非公開予定ですが読んでくださる方がいらっしゃるのでもう少しこのままにしておきます。
設樂理沙
ライト文芸
皆さま、ご訪問いただきありがとうございます。
最初2/10に非公開の予告文を書いていたのですが読んで
くださる方が増えましたので2/20頃に変更しました。
古い作品ですが、有難いことです。😇
- - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - -
" 揺り篭 " 不倫の後で 2016.02.26 連載開始
の加筆修正有版になります。
2022.7.30 再掲載
・・・・・・・・・・・
夫の不倫で、信頼もプライドも根こそぎ奪われてしまった・・
その後で私に残されたものは・・。
・・・・・・・・・・
💛イラストはAI生成画像自作
極悪家庭教師の溺愛レッスン~悪魔な彼はお隣さん~
恵喜 どうこ
恋愛
「高校合格のお礼をくれない?」
そう言っておねだりしてきたのはお隣の家庭教師のお兄ちゃん。
私よりも10歳上のお兄ちゃんはずっと憧れの人だったんだけど、好きだという告白もないままに男女の関係に発展してしまった私は苦しくて、どうしようもなくて、彼の一挙手一投足にただ振り回されてしまっていた。
葵は私のことを本当はどう思ってるの?
私は葵のことをどう思ってるの?
意地悪なカテキョに翻弄されっぱなし。
こうなったら確かめなくちゃ!
葵の気持ちも、自分の気持ちも!
だけど甘い誘惑が多すぎて――
ちょっぴりスパイスをきかせた大人の男と女子高生のラブストーリーです。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる