うさぎはかめの夢を見る

松丹子

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.1章 うさぎはかめを振り返る

..09 ズレ

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「おかえり」

 帰宅した俺に、早紀は目を合わせないまま声をかけてきた。

「ただいま」

 スーツを脱ぎ始めた俺の横に、一人分の距離を開けて寄って来る。
 感情のうかがえない表情のまま、早紀は言った。

「今回も……駄目、だったかもしれない」

 嫌なことは先に言ってしまおう。そんな意思を感じる早口に、俺は「そっか」と答えながら、心中苛立っていた。
 ――帰ってくるなり、それか。
 今日、俺がザッキーと会ったことを、早紀は知っている。
 久々に旧友と飲んで、せっかく気晴らしをして来たというのに……帰宅した俺を、はなから現実に引き戻す。
 酒はもうとっくに胃の底に落ち着いているはずなのに、妙な苦みが口に広がった。
 ザッキーは確かに俺の友達だけど、早紀にとってもサークル仲間だ。だからこそ、最初の一声は「神崎くん、元気だった?」とか、「楽しかった?」とか、そういう一言であって欲しかった。
 帰宅するまで自覚していなかった、そんな自分の願望に気づく。
 ――ザッキーは真っ先に早紀のことを気にかけてくれたのに、早紀は自分のことしか考えていないのか。
 ぐらぐらと漂う思考が、自分勝手なのは分かっている。
 そう、分かっている――早紀のことをなじる権利は、俺にはない。
 今日が通院日だと知っていながら、友人との夕食の予定を入れた。他日では互いの都合がつかなかったのは事実だけれど、早紀がひとりで夫婦の問題に向き合う時間に、俺は旧友と過ごすことを選んだのだ。
 良心を刺す小さな罪悪感の針は、積もり積もって俺の胸を血まみれにする。けれどその痛みに、俺はどこかで安堵していた。
 自嘲の笑みを心にとどめて、ゆっくりと口を開く。

「早紀。病院さ、今度は……一緒に行こうか?」

 穏やかな、優しく、労るような声が出た。早紀は軽く、けれどはっきりと首を振った。

「ううん、いい」

 答えた後で、取りつくろうように微笑む。
 顔を上げたけれど、目は合わない。

「病院、いつもすごい人だから……毎日忙しいし疲れてるのに、つき合ってもらうのは悪いから。気持ちだけで、充分。ありがとう」
「……そう」

 答えながら、ほっとしている俺に、早紀はきっと気づいているだろう。
 また、良心を刺す針が増える。
 日を追うごとに。早紀と会話を交わすごとに。
 ――早紀が通院し、帰宅し、俺に事務連絡のような報告をするごとに。
 喉を圧迫する何かを、息とともにゆっくり吐き出した。

「もし……気が変わったら、言って。仕事も、都合つけるし」
「うん……ありがとう」

 取って付けたような俺の気遣いに、取って付けたような早紀の返事があった。
 それでも互いの顔は、微笑んでいる。
 かろうじて。
 引きつったような痛みが、無視できないほど強く、胸の下を走った。
 早紀が息を吸う気配がする。

「神崎くんは、元気だった?」

 その話題に、重かった空気が少し、軽くなった。
 俺はやや食い気味にうなずいた。

「うん、相変わらずイケメンだった」
「そっか。翔太くんたちも……元気だって?」
「うん。下の、朝子ちゃんももうじき、小学生になるんだって。子どもの成長はあっという間だよなぁ」

 つい、口が滑った。言うべきでないことまで言った、と理解したのは、早紀が一瞬、息を飲んだ気配がしたから。
 はっとその顔を見やったけれど、その表情から早紀の感情は読み取れない。

「……そうなんだ」

 何か言葉を飲み込んだように見えたけど、俺はそれに気づかないふりをした。
 浴室へ向かって大股で歩き出す。

「俺、風呂、入るわ。酒臭いし、汗臭いし」
「うん。ゆっくり、どうぞ」

 早紀は笑う。口元だけ。その紫色がかった唇に、白く乾いた表皮が目についたけれど、無理矢理気づかなかったふりで顔をそむけた。
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