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.1章 うさぎはかめを振り返る
..07 告白
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旅行の計画が半端な形で流れてから、俺たちはそれまでになく淡々とした毎日を過ごしていた。
当初は気まずい空気になったけれど、決定的に関係が冷え切るほどではないまま、旅行の話はタブーになって、どちらも口にしなくなった。
学校の夏休みが始まって、少しした頃、早紀は朝から体調が悪いと言って、珍しく仕事を休んだ。
俺は出勤したものの気がかりで、どうにか定時で帰宅した。
けれど、外が薄暗くなり始めているのに、家には明かりが点いていない。
体調が落ち着いて出かけたのか、とも思ったけれど、玄関先には脱いだ形のままの早紀の靴があって、首を傾げた。
「……早紀? どうした?」
ぱちん、とリビングの電気を点けてから、一瞬、怯んだ。
早紀は、リビングのソファに座っていた。
手を膝の間に挟んで、じっと机の上を見つめて。
その横顔は、蝋人形のように生気を失っていた。
「……早紀?」
おそるおそる、早紀に近づいた。机の上には授業で使うのか、教本の類いが広がっている。
けれど早紀の目はそれを見ていなかった。もっと遠くを見ていた。早紀は俺の声に、一度びくりと震えると、ゆっくり、息を吐き出して、ゆっくり、目を上げた。
その顔は、涙で濡れていた。
「……ごめんね、幸弘くん」
絞り出すような早紀の第一声は、それだった。
何のことか分からず、俺はますますうろたえた。帰路に感じていたべたつくシャツの不快感も、家に着いたら洗い流そうと思っていた額の汗も、すっかり意識の外に追いやられた。
身動きが取れずにいる俺に、早紀は膝の内側から、何かを取り出した。
両手にしっかり握りしめたそれは、手帳のようだった。
文庫サイズの、柔らかそうなカバーがついた、けれど、本というよりは薄い、冊子のような……
「……心臓、止まってるって……」
動揺のあまり、呼吸を忘れた。血の気を失っている早紀の顔を、俺は唖然として見つめた。
震える彼女の手が、歪めそうなほど力を込めて握りしめているその手帳が、いったい何のためのものなのか――理解していながら、理解しきれなかった。理解を拒む何かが、俺の中に膨れ上がって思考を遮断していた。
「……早紀……」
「ごめん……」
「早紀……」
「ごめんね……」
謝罪の言葉しか口にしない早紀を、俺は何も言わず抱きしめた。ごとん、と、俺のビジネスバッグが落ちる音がした。
身体が、震えていた。早紀も、震えていた。俺の胸に、早紀は手帳を持った手を、額を、押しつけた。
「また、駄目だった……ごめんね、赤ちゃん……ごめんね……」
また。
――また?
ぐらぐら、視界が揺れて、一瞬、白くなるのを感じた。泣きじゃくっている早紀の背中に手を回したまま、俺は早紀が握りしめた手帳を直視する勇気を持てずにいた。
また。
早紀が口にした言葉が、頭の中をぐるぐる回っていた。
その言葉が意味することを、俺は受け止めきれなくて。
また。
いったい、いつ?
いつの間に、そんなことが? なぜ?
――なぜ、早紀は、それを、俺に、話してくれなかった?
呼吸の仕方を忘れたように、喉に何かがつかえていた。
額ににじんでいた汗が、つつ、とこめかみを伝い落ちる。
暑くてかいたはずの汗なのに、それはひどく冷たく、首筋を撫でていった。
早紀はうなるような声をあげて泣き始めた。泣いて、泣いて、聞いたこともないくらい低い、動物的な嗚咽をあげ続けた。
当初は気まずい空気になったけれど、決定的に関係が冷え切るほどではないまま、旅行の話はタブーになって、どちらも口にしなくなった。
学校の夏休みが始まって、少しした頃、早紀は朝から体調が悪いと言って、珍しく仕事を休んだ。
俺は出勤したものの気がかりで、どうにか定時で帰宅した。
けれど、外が薄暗くなり始めているのに、家には明かりが点いていない。
体調が落ち着いて出かけたのか、とも思ったけれど、玄関先には脱いだ形のままの早紀の靴があって、首を傾げた。
「……早紀? どうした?」
ぱちん、とリビングの電気を点けてから、一瞬、怯んだ。
早紀は、リビングのソファに座っていた。
手を膝の間に挟んで、じっと机の上を見つめて。
その横顔は、蝋人形のように生気を失っていた。
「……早紀?」
おそるおそる、早紀に近づいた。机の上には授業で使うのか、教本の類いが広がっている。
けれど早紀の目はそれを見ていなかった。もっと遠くを見ていた。早紀は俺の声に、一度びくりと震えると、ゆっくり、息を吐き出して、ゆっくり、目を上げた。
その顔は、涙で濡れていた。
「……ごめんね、幸弘くん」
絞り出すような早紀の第一声は、それだった。
何のことか分からず、俺はますますうろたえた。帰路に感じていたべたつくシャツの不快感も、家に着いたら洗い流そうと思っていた額の汗も、すっかり意識の外に追いやられた。
身動きが取れずにいる俺に、早紀は膝の内側から、何かを取り出した。
両手にしっかり握りしめたそれは、手帳のようだった。
文庫サイズの、柔らかそうなカバーがついた、けれど、本というよりは薄い、冊子のような……
「……心臓、止まってるって……」
動揺のあまり、呼吸を忘れた。血の気を失っている早紀の顔を、俺は唖然として見つめた。
震える彼女の手が、歪めそうなほど力を込めて握りしめているその手帳が、いったい何のためのものなのか――理解していながら、理解しきれなかった。理解を拒む何かが、俺の中に膨れ上がって思考を遮断していた。
「……早紀……」
「ごめん……」
「早紀……」
「ごめんね……」
謝罪の言葉しか口にしない早紀を、俺は何も言わず抱きしめた。ごとん、と、俺のビジネスバッグが落ちる音がした。
身体が、震えていた。早紀も、震えていた。俺の胸に、早紀は手帳を持った手を、額を、押しつけた。
「また、駄目だった……ごめんね、赤ちゃん……ごめんね……」
また。
――また?
ぐらぐら、視界が揺れて、一瞬、白くなるのを感じた。泣きじゃくっている早紀の背中に手を回したまま、俺は早紀が握りしめた手帳を直視する勇気を持てずにいた。
また。
早紀が口にした言葉が、頭の中をぐるぐる回っていた。
その言葉が意味することを、俺は受け止めきれなくて。
また。
いったい、いつ?
いつの間に、そんなことが? なぜ?
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暑くてかいたはずの汗なのに、それはひどく冷たく、首筋を撫でていった。
早紀はうなるような声をあげて泣き始めた。泣いて、泣いて、聞いたこともないくらい低い、動物的な嗚咽をあげ続けた。
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