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.1章 うさぎはかめを振り返る
..06 違和感
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早紀の異変に気づいたのは、子作りが解禁になった二年後のことだ。
その年、俺たちは結婚五周年の記念にと、海外旅行を計画していた。
早紀の学校が夏休みに入る頃を狙って、俺も休みを取るつもりだった。旅行の計画は年明けから話していたから、早紀もそのつもりで、年度始めに都合をつけやすい係や部活に回してもらったと報告してきた。
ゴールデンウィークの頃から、ガイドブックやパンフレットを集め始めた。
早紀も旅行は好きだが、自分で企画するタイプじゃない。友人に誘われて行くことが多かった。俺との旅行もそうだったけれど、いざ行ってみるとあれこれやりたいことが出てくるのに気づいて、俺が事前に希望を聞き出すようになった。
とはいえ、それには結構時間がかかる。早紀に言わせると、別に出し惜しみしているわけではなくて、ぱっと思い浮かばないらしい。
旅行という非現実が、現実になることが理解できてようやく、そういえば――とぽつりぽつり、やりたいことや行きたいところが思い浮かぶそうだ。
だから、二人で過ごせる時間ができる度、テーブルにパンフレットの類いを広げては、早紀と話した。
「ヨーロッパ行く? イタリアとか」
「夏のイタリアかー、暑そうだね」
「確かに。あ、中欧とかもいいんじゃない。早紀、好きそう」
「町並み、かわいいね」
見たいもの、やりたいこと、食べたいもの。
互いにあれこれと希望を出し合って、どんどん膨らんでいく夢を楽しむ。
決まるのか決まらないのか分からないくらいに広がっていく楽しみを、二人で共有するこの時間が、俺はとても好きだった。
梅雨を前にした頃には、行き先の目処をつけ、プランを詰めるところまでいった。
それなのに、梅雨に入るなり、早紀は急にトーンダウンしたのだ。
「……幸弘くん。旅行って、今年……行く?」
「え? なんで、今さら?」
俺は突然の問いに驚いて、早紀の顔を見下ろした。
早紀が声をかけてきたのは、俺が残業して帰宅した直後だった。ジャケットを脱ぎ、ネクタイをほどく横で、早紀はうつむいて内股気味に立っていた。
人に問いかけておいて、自分の表情を隠すような態度だ。内心、いらだった。けれど、それが早紀なのだからと自分をなだめ、ため息を押し殺す。
息を吸い直すと、できるだけ穏やかに、明るい声で語りかけた。
「行こうよ。五周年だし、って言ったじゃん」
「うん……そう、なんだけど」
妙な気まずさを振り払おうとした俺の思いやりを、早紀は半端な態度で一蹴した。
そうなんだけど。
その答えは煮え切らなくて、けれどそれ以上何かを言うつもりがないことは、長いつき合いで分かった。言う気がない、というより、言っていいのか分からないとか、言葉が見つからないとか、そんなところだろう。
いったい何だろう、と思いながらも、俺は無理強いして聞く気にはなれなかった。
いらだっていたからだ。
ただでさえ、仕事で疲れて帰った直後だった。楽しみを潰されるような話をされて、こちらの気遣いもふいにされては、穏やかではいられない。
ふつふつと湧き上がる感情が、心の中に留められなかった。
「……それを楽しみに、冬からがんばってんのに。なんで? 仕事?」
「仕事……じゃ、ないんだけど」
「じゃ、行きたくなくなった?」
強い語調で問うてから、舌打ちしたくなった。
相手が強い口調で出ると、早紀は必ずうつむいて、何も言わなくなる。嵐が過ぎるのを待つ小動物のように。甲羅に閉じこもる亀のように。じっと身をかたくして、相手の怒りが去るのを待つのだ。
そのときも、そうだった。早紀はそれ以上、何も言わなくなった。俺の口から、一度は飲み込んだ舌打ちがつい漏れて、そんな自分にまたいらだって、もう一度舌打ちをしたくなった。
「……行きたくないなら、いいよ。どうせまだ、予約してないし」
ぶっきらぼうに言い捨てて、風呂場へと向かった。早紀が慌てて顔を上げたのが、見なくても分かった。「違うの」と、小さな声が聞こえた気がした。
「違うの。行きたくない、わけじゃなくて……」
それ以上、早紀の言葉を聞く気にはなれなかった。
疲れていたから。腹を立てていたから。
――いや、そんなのはただの言い訳だ。
きっとあのとき、俺は早紀の気持ちを、ちゃんと受け止めるべきだったんだろう。どんなに早紀の話が下手くそでも回りくどくても、きちんと聞くべきだったんだろう。
けれどあのとき、おれはそうしなかった。できなかった。
それを後悔としてつきつけられたのは、早紀の学校が夏休みに入った後だった。
その年、俺たちは結婚五周年の記念にと、海外旅行を計画していた。
早紀の学校が夏休みに入る頃を狙って、俺も休みを取るつもりだった。旅行の計画は年明けから話していたから、早紀もそのつもりで、年度始めに都合をつけやすい係や部活に回してもらったと報告してきた。
ゴールデンウィークの頃から、ガイドブックやパンフレットを集め始めた。
早紀も旅行は好きだが、自分で企画するタイプじゃない。友人に誘われて行くことが多かった。俺との旅行もそうだったけれど、いざ行ってみるとあれこれやりたいことが出てくるのに気づいて、俺が事前に希望を聞き出すようになった。
とはいえ、それには結構時間がかかる。早紀に言わせると、別に出し惜しみしているわけではなくて、ぱっと思い浮かばないらしい。
旅行という非現実が、現実になることが理解できてようやく、そういえば――とぽつりぽつり、やりたいことや行きたいところが思い浮かぶそうだ。
だから、二人で過ごせる時間ができる度、テーブルにパンフレットの類いを広げては、早紀と話した。
「ヨーロッパ行く? イタリアとか」
「夏のイタリアかー、暑そうだね」
「確かに。あ、中欧とかもいいんじゃない。早紀、好きそう」
「町並み、かわいいね」
見たいもの、やりたいこと、食べたいもの。
互いにあれこれと希望を出し合って、どんどん膨らんでいく夢を楽しむ。
決まるのか決まらないのか分からないくらいに広がっていく楽しみを、二人で共有するこの時間が、俺はとても好きだった。
梅雨を前にした頃には、行き先の目処をつけ、プランを詰めるところまでいった。
それなのに、梅雨に入るなり、早紀は急にトーンダウンしたのだ。
「……幸弘くん。旅行って、今年……行く?」
「え? なんで、今さら?」
俺は突然の問いに驚いて、早紀の顔を見下ろした。
早紀が声をかけてきたのは、俺が残業して帰宅した直後だった。ジャケットを脱ぎ、ネクタイをほどく横で、早紀はうつむいて内股気味に立っていた。
人に問いかけておいて、自分の表情を隠すような態度だ。内心、いらだった。けれど、それが早紀なのだからと自分をなだめ、ため息を押し殺す。
息を吸い直すと、できるだけ穏やかに、明るい声で語りかけた。
「行こうよ。五周年だし、って言ったじゃん」
「うん……そう、なんだけど」
妙な気まずさを振り払おうとした俺の思いやりを、早紀は半端な態度で一蹴した。
そうなんだけど。
その答えは煮え切らなくて、けれどそれ以上何かを言うつもりがないことは、長いつき合いで分かった。言う気がない、というより、言っていいのか分からないとか、言葉が見つからないとか、そんなところだろう。
いったい何だろう、と思いながらも、俺は無理強いして聞く気にはなれなかった。
いらだっていたからだ。
ただでさえ、仕事で疲れて帰った直後だった。楽しみを潰されるような話をされて、こちらの気遣いもふいにされては、穏やかではいられない。
ふつふつと湧き上がる感情が、心の中に留められなかった。
「……それを楽しみに、冬からがんばってんのに。なんで? 仕事?」
「仕事……じゃ、ないんだけど」
「じゃ、行きたくなくなった?」
強い語調で問うてから、舌打ちしたくなった。
相手が強い口調で出ると、早紀は必ずうつむいて、何も言わなくなる。嵐が過ぎるのを待つ小動物のように。甲羅に閉じこもる亀のように。じっと身をかたくして、相手の怒りが去るのを待つのだ。
そのときも、そうだった。早紀はそれ以上、何も言わなくなった。俺の口から、一度は飲み込んだ舌打ちがつい漏れて、そんな自分にまたいらだって、もう一度舌打ちをしたくなった。
「……行きたくないなら、いいよ。どうせまだ、予約してないし」
ぶっきらぼうに言い捨てて、風呂場へと向かった。早紀が慌てて顔を上げたのが、見なくても分かった。「違うの」と、小さな声が聞こえた気がした。
「違うの。行きたくない、わけじゃなくて……」
それ以上、早紀の言葉を聞く気にはなれなかった。
疲れていたから。腹を立てていたから。
――いや、そんなのはただの言い訳だ。
きっとあのとき、俺は早紀の気持ちを、ちゃんと受け止めるべきだったんだろう。どんなに早紀の話が下手くそでも回りくどくても、きちんと聞くべきだったんだろう。
けれどあのとき、おれはそうしなかった。できなかった。
それを後悔としてつきつけられたのは、早紀の学校が夏休みに入った後だった。
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