マイ・リトル・プリンセス

松丹子

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.10 卒業まで

61 義父

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 何の話をする気かと身構えまくっていた俺やったけど、政人の話というのはこの家での生活についてやった。
 便利ではないと言ったのがどういう意味か、政人と隼人兄ちゃんの経験を、思い出話かたがた耳にする。
 とにかく観光客が多いこと。車が使いにくいこと。生活用品を買う店が限られること――

「保育園事情とかは今どうなってるか知らないけどな。生活するにはそう便利な場所じゃないと思うぞ。職場も、今は横浜だろ。遠いってほどじゃねぇけど、近いわけじゃないからな。そういうの、一度しっかり考えろよ」
「分かった」
「まあ、お前ももういい年なんだし、あとは任せるよ。……礼奈はどう言ってた?」
「いや、それが……礼奈の方が住む気満々やねん」

 俺の言葉に、隼人兄ちゃんが笑った。

「礼奈ちゃんって、小柄だけど男気があるっていうか、結構ガッツがあるよね。そういうの、栄太郎と対比的でおもしろい」

 俺にはガッツがないっちゅうことか。だいたい、他の夫婦をもっておもしろいとは何事や。
 内心ツッコんだけど、隼人兄ちゃんのところかて、香子さんとの対比はおもしろいねんし、黙っとくことにした。
 酒の肴は自然とただの思い出話になり、気づけば、俺の母・和歌子の武勇伝(というよりも慰め合う被害者の会)に変わっていく。

「夜明け前に寝込みをバットで襲われたときもあったなぁ」
「なんやそれ! もはや殺人未遂やん!」
「やだなぁ、姉さんだってさすがに加減するでしょ」
「隼人兄ちゃんは分かってへん……! あの人はそんな生優しいことなんてせぇへん!」
「その通りだ栄太郎……本気の殺気を感じたからな……。俺が目を覚ましたら舌打ちしてたが、あれで寝たままでいたらどうなったか――今考えても寒気がする」
「そんな大げさな」

 何かにつけて「しつけられた」俺と政人はこの話題になると途端に共感し、隼人兄ちゃんが笑う、というのがいつもの流れや。
 会話が一段落したところで、隼人兄ちゃんが「ちょっとトイレ」と立ち上がった。

「ついでにお酒とつまみも持ってくるね。何かいるものある?」
「いや、特には」
「お任せで」
「了解」

 隼人兄ちゃんはひらりと手を振って部屋を出た。政人とふたり、残されて、一瞬だけ沈黙が落ちる。
 コップに口をつける政人の横顔を見て、はっと気づいた。
 あ、そうや。俺、今義父と二人やねんな。
 とたんに心拍数が上がり始める。
 ……あかん、飲み過ぎたかもしれへん。ちゃんと会話せな……。
 いつもやったら気になるような酒量やないはずやのにそんなことを思う。

「……イレギュラーな新婚生活ではあるが、まあ、順調そうでよかったよ」

 政人がぽつりとそう言うのが聞こえたとき、作ろうとしていた心の鎧が四散した。
 声音が柔らかくて……穏やかだったからや。
 ああ、そうやな。……叔父であり義父である人に、今更つくろう必要もないな。

「……そうやな」

 うなずいてから、詰まった。――順調。何をもって、順調と言うんやろ。
 まだ、俺と礼奈は一緒に生活をしてへん。週に一度や二度、会っては寝起きや食事を共にする程度の生活。
 そこには、互いに触れ合うことも多少は入ってるけど、でも、俺はまだ、礼奈に知られてない問題を抱えてる――

 ちら、と見ると、政人は淡々と酒を飲んではる。母さんが言っていた言葉が頭の中でぐるぐるし始めた。
 身長差のあるカップル……その上一番、茶化さず聞いてくれそうな先輩……
 いつだったか、政人には、俺が童貞やってこと、健人に暴露されとるし……今さら聞いたところで……
 ごくん、と酒を口に含む訳でもないのに喉が鳴った。

「……政人」
「なんだ?」
「……その……お、同じ男として……聞きたいこと、あんねんけど……」

 政人がまばたきした。俺の頭の中で、心臓がごうんごうん言うてる。
 ……やっぱりこんな質問、おかしいか? いや、でも他に聞ける人おらんし。ていうか、ちゃんと答えてくれそうな人おらんし。いや、でも――うう、でも――
 揺れる気持ちとうらはらに、口はゆっくり言葉を紡ぐ。

「身長差、あると……その……そういうことのとき、気をつけなあかんこととか……あるか?」

 その瞬間、いつも余裕を感じる政人の顔から、一気に表情が抜け落ちた。
 ――うわぁ、あかんこと言ったな俺!?

「あ、あの。ええねん、その。やっぱ、何でもない。聞かんかったことに――」
「……もしかして……まだ、してねぇのか?」

 愕然としたような政人の声に、頭を抱えたくなる。

 ああああああああ!

 自分で掘った墓穴やのに、もう逃げたくてたまらん。いや、もう、ええねん、もう、忘れて、お願いやから、とかなんとか、口から泡を飛ばして言うたけど、政人は「はぁ」とまた、うなずいたのか何なのか分からんような声を出して、酒をくいと飲み干した。

「ほんっと、バカ正直なやつだなぁ……。彩乃に言われたこと、健気に守ってんのか」
「い、いや……そういう、つもりも、ないねんけど」

 モゴモゴ答えながら、俺も酒で口を潤す。彩乃さんが言うたのは、就職するまでその手のことはナシ、いうやつで……もちろん、そんな直接的な言い方してへんけど、仕事に慣れるまで子どもは駄目とか、そんなん言われとる。

「そうだなぁ……気をつけること、なぁ……」

 ややぼんやりした表情で、政人がぽつりと呟く。
 あ、あかん、真面目に答え考えてくれてはる……ありがたいけどありがたくない!
 羞恥に耐えかねて、両手をパタパタ振った。

「あ、あの政人。も、もうええて……その、聞かんかったことに……」
「まあ、一般論にはなるが……」

 いや、聞けや! あえて聞かんふりしてんのんか! 新手のイジメか! そういうイジりか!
 泣きそうになったとき、ふっと、政人が微笑んだ。

「……まあ、礼奈も嫌なことは嫌って言うし、相手のことをちゃんと見てりゃ大丈夫だろ。ゆっくり慣れればいいさ。そういうことも、二人で作っていくもんだしな」

 ぐっ、と喉が鳴った。
 口元をコップで隠しながらうめく。

「……一般論やなかったんか」
「いや、だって」

 政人はコップに酒を注ぎながら笑った。

「お前の相手には礼奈しかないし、礼奈の相手にはお前しかないだろ」

 そう言ったところで、隼人兄ちゃんが帰ってきた。「なんの話?」と首をかしげる弟に、政人は「いや、何でもねぇ。隼人、お前も飲め」と酒瓶を掲げる。
 その後は何事もなかったように見えた政人やったけど、その日は珍しく、結構飲んで、足取りがおぼつかなくなっとった。息子二人が抱えるようにして帰っていって、見送った礼奈が「あんなお父さん初めて見た」と目を丸くしてはったくらいや。
 そんなんやから、隼人兄ちゃんが「何話したの」とニヤニヤしながら俺をつついて来たけど、俺は「さあ」と目を逸らしてごまかした。
 言えるわけないやん。義父に、夜のアドバイスもらったなんて。
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