マイ・リトル・プリンセス

松丹子

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.5 マシな生き方

24 フィルム越しの別世界

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 帰宅すると、壁を探って電気をつけた。
 ぱっ、と白い光が照らし出した部屋の中は、ベッドと本棚、座卓程度しか家具がない。
 どこに立っても目の行き届く程度のワンルームは、朝、俺が家を出たときのままの状態で、冷ややかに俺を迎える。
 口から漏れるため息を飲み込み、疲れた身体を座卓へ進めた。
 ゆっくり床に腰掛けると、無骨なビジネスバッグの中から、小さな包みを取り出す。
 しゃれた英字が描かれた、半透明なフィルム状の袋。
 その口はピンク色のワイヤーで留めてある。
 中が崩れてないことを確認して、両手で掲げ持つようにして机の上に下ろした。
 カサリ、乾いた音が部屋に響く。
 ふぅ、とため息未満の吐息が漏れた。
 帰り際、政人から受け取った手作りお菓子。
 誰の手作り――って、もちろん礼奈のや。

 中に入ってるクッキーもケーキも、ようできてはる。食べてへんから、味の方はまだ、分からんけど。

 ――そっか、今日ってバレンタインデーやん。

 そう気づいたのは、政人に包みを差し出されたそのときやった。つまり今日は政人の誕生日でもあったわけやけど、自分のことに必死で、すっかり忘れてた。
 何も準備していないことを詫びる俺に、政人は笑った。

「そんなもん、気にすんな。この歳になってまで誕生日なんて気にしてねぇよ」

 まあ、それもそうかもしれへん。
 俺とて、三十を過ぎたらむしろ、誕生日が来るのが怖いくらいや。
 おおきに、と受け取ると、袋に入った菓子を見て驚いた。

「――なんや、二種類も作ったんやな」

 星をかたどったクッキーと、チョコレート系のケーキ。クッキーは型を二種類使って、ジャムペーストのようなものを埋め込んでいる手の込みようや。
 感心しとる俺に、政人は笑った。

「なんか無心で作ってたみたいでな。帰ったら甘い匂いが充満してたよ。作りすぎた、どうしよう、って顔してたから、拝借してきた」

 父らしい穏やかな微笑みを見ながら、胸中に陰が膨れ上がった。

 ――ああ、そうか。これは、お裾分けなんや。

 思うたとたん、切なくなった。

 ――当然やん。彼氏、おんねんし。俺に作ってくれはるわけ、ないやん。

 自分に呆れて、笑顔を取りつくろった。
 かわいい従妹の幸せ――を、祈ったのは誰でもない、俺のはずや。

「順調なんやな、礼奈」
「どうだかな」

 政人は感情の読み取れない微笑みのまま、ひょいと肩をすくめた。ただそれだけで、その話は終わった。
 政人はもうそれ以上、礼奈の話をする気はないらしかったし、俺もそれ以上聞く気はなかった。
 ――たぶん、聞きたくなかったんや。
 部屋にひとりになった今、そう自覚して苦笑が浮かぶ。

 礼奈。一回り年下の女の子。赤ん坊んときはおむつも換えたったし、ミルクもやった。眠る横顔からは甘い匂いがして、これが赤ちゃんの匂いなんやな、て嬉しくなって。
 妹、がいない俺にとって、妹みたいなもんやった。姪みたいなもんやった。誰よりも大事な女の子。今までも。これからも。たぶん、ずっと。

 誰よりも、大事な――

「……アホやなぁ」

 頬杖をついて、視線を落とす。机の上にぽつんと乗った、かわいらしいラッピング。
 今日――恋人たちのためのこの日を、礼奈はどう過ごしてはるんやろう。カレシと一緒に、どこかへ出かけたんやろうか。夕飯でも一緒に? ――その後は?

「……アホやん、俺……」

 ほんま、アホすぎてかなわん。じわっと涙が浮かんで、自分の馬鹿さに乾いた笑い声をたてた。
 今夜はうわばみの叔父たちと酒を飲み交わしたから、知らず知らず相当酒量が行ってもうたんやろう。涙腺がゆるくなってもうて、心がむき出しで、あかん。
 半年前、イトコで集まろうと言っていた夜、参加できずに涙した日を思い出した。生活の優先順位を変えようと決意したあの夜。今の俺じゃ、礼奈は幸せにできへんとリアルに突きつけられた夜。
 俺なりに、模索しながらの半年やった。転職しよう、て決めただけでも、少しは前に進めた気がしてた。
 礼奈はそれ以上に先に進んではるかもしれん――なんてこと、考えもしてへんかった。

 頭のどっかで、礼奈は俺の歩みを待ってくれてはると思うてた。カレシができた、とは聞いた。つき合うことになったなら、あの子のことや、あの子なりに、二人の時間を大切にしてるんやろうとも思う。
 けど、俺との関係がそれで無くなるような気は、たぶんしてなかったんや。

 ――なんちゅう、うぬぼれなんやろ。

 歪んだ視界に、ふっ、と笑う。
 酔っ払った中年男が、女子大生の手作り菓子を眺めて目ぇ潤ませてるやなんて、みっともなくてドン引きやな。
 薄いフィルム一枚を隔てた「幸せのお裾分け」。かすかに漂う甘い匂い。
 それは俺にとって遠い世界の夢物語であると同時に、突きつけられた冷たい現実でもあるわけで。

 ――皮肉やな。

 しばらく包みを眺めたあと、シャワーを浴びようと立ち上がった。
 礼奈の手作り菓子は、そのまま机の上に残して。
 明日以降、酒が身体から抜けてから、ありがたくいただくことにしよう――
 そう思うたのは、今食うたらさらに泣けてきそうな気がしたからでもあったけど、ちゃんとその味を味わいたかったからでもある。
 礼奈の手作りなんて、あと何度、食べられるか分からへんやん。
 そんなことを思う自分の小ささが、ほんま笑えるけどな。
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