マイ・リトル・プリンセス

松丹子

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.5 マシな生き方

25 情けは人のためならず

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 冬を過ぎ、春になった。
 年度が明けると、予定通り、転職先探しに本腰を入れ始めた。
 それまでも事前準備として、求人広告を眺めてた俺やけど、広告だけじゃ内情なんて分からへん。
 足を運んで職場を見てみるのが一番なわけで、毎月一社以上は見ると決めて、あちこちに足を運んだ。
 仕事を続けながらの就活は、思てた以上に骨が折れる。体力もやけど精神力もや。
 多少給料が下がっても、今より人間らしい働き方のできるところ。人間関係のいいところ――とはいえ、そうそう条件に見合うところに巡り合えるものか。
 これという確信がないまま、じりじりと日々が過ぎて行く。

 一方で、祖父母宅への訪問も、変わらず続けとる。
 無自覚に期待してた礼奈との未来は、バレンタインデー以降、意識的に取り払うよう努めとったけど、そうなると「せやったらこのままでもええんちゃう」と怠惰に流れそうになる。そんな気持ちを、祖父母宅訪問が繋いでくれた。
 これという収穫もないまま、季節は春を過ぎ、夏になった。

 ――いっそ思いきって飛び込んでみるべきやろうか。
 転職先が見つからへんのは、俺の臆病が過ぎるからかもしれへん。足場をしっかり固めて……なんて思てたら、いつまで経っても決まらんのやないか。一度目の転職で駄目ならまた二度目、てくらいの気持ちで、とにかく飛び出てみたらどうやろ――

 正解のない迷い路に、ますます精神は消耗していく。

 その日の出張先は、前にも足を向けた神楽坂やった。朝から取引先に顔を出してメンテナンス状態を確認し、近くの会社に営業回りをして、昼も過ぎた時間を駅へと戻っていく。
 仕事で昼時を逃すなんてざらにあることで、周囲の店はもうランチではなくカフェタイムに入る準備を始めとるようや。
 いかにも夏らしい白い日差しが、町中のあらゆるものに反射して目を焼いた。こめかみを汗が伝い落ちる。
 いいかげん腹が減ったな。とりあえず何か腹ごなしするか――コンビニでおにぎりでも買って帰社するか。
 頭の片隅で考えつつ、見慣れた小道が目に入って歩調を緩めた。

 ――そうやったなぁ。そういえば、去年の今ごろ、ここで老婦人を助けたんやった。

 コツコツと、コンクリートを革靴が叩く。ずっしりと重い荷物が肩からずり落ちてきて、手で引き上げた。
 あの出来事がなかったら、俺は転職なんて考えることもなく、一生社畜として勤める気でいたんやろな。
 そう想えば、あれも一つの縁やったのかもしれへん。
 ――なんて、思っていたら。

「あら……」

 声がして、ふと目を向けた。

「ああ、やっぱり」
「え?」

 俺の肩より下の高さに、老婦人の頭があった。
 あのときとは違う、洋装姿。きちんと撫でつけた白い髪と、笑いじわの寄った小さな目。嬉しそうに目を輝かせて見上げてくるその顔に、あ、と声が出る。

 あれやん、あのとき倒れてはった……

「こ、こんにちは」

 とっさに言葉が出て来ぅへんで、とりあえず頭を下げる。老婦人は嬉しそうにこくこくうなずいて、「こんにちは」とおっとり言った。
 はにかんだような笑顔に、俺もほっと肩の力が抜ける。

「あの……元気そうですね。何よりです」
「ええ、本当に。その節はどうも、ご迷惑おかけして……」

 小さな身体をますます小さく縮められて、俺は慌てて手を振った。

「そんなこと。無事でほんま、よかったです。お元気なら、それが一番で……」

 顔を上げた老婦人の元気そうな姿に、つい、胸がいっぱいになった。

「むしろ……俺も、お礼、言わなあかんなって、思うくらいで」
「……お礼?」

 老婦人は不思議そうに首を傾げた。その表情が、鎌倉にいる祖母のそれと重なる。
 俺は目を泳がせて、頬を掻いた。

「そう……あの日……ちょっと、いろいろ、考えたことがあって」

 どう言ったものか――言葉を探す。
 いちいち、口下手な自分がうらめしい。

「その……ちゃんと、大切にしたい人のこと、大切にする生活せんなあかんなーて……」

 言う途中で、我に返った。
 ――たいして知らない人の前で、何ちゅうクサいこと言うてんねん。
 心中自分に突っ込んで、取り繕うように続けた。

「あの、転職先、探し始めたんです。今の仕事じゃ、家族とも一緒にいれへんなー思て、マトモな生活できる仕事につこうて……。その、甘えた考えかもしれへんけど、一度しかない人生、無駄にしたらあかんな、ちゅうか、いや、もちろん仕事に生きるんも、それはそれでええんでしょうけど、俺はちょっと違う気がするっちゅうか……」

 早口にまくし立てるうち、黙って俺を見上げてくる視線に気づいて気まずくなった。
 ――関係ない人に、ほんま何話してんねん。アホやな俺。
 しかも話すのにオチもなしや。関西人の風上にも置けんわ! って別に今そういうのどうでもええねん!
 あああああ、もう嫌や。このおばあちゃんも呆れてはるんちゃう。困ってはるやろ、絶対。

 頭を抱えたい想いでうつむく。

「……すんません、自分のことばっかり、だらだらと」
「いえ」

 しょげ返る俺に、老婦人は優しく微笑む。本音はどうか分からんけど、見たところ呆れてはる様子はない。

 ――うん、まあええ人でよかった。助けた甲斐もあるってもんや。

 自分にそう言い聞かせるようにして、改めて、営業用の笑顔を取り繕うた。

「あの、それじゃ、これで。まだまだ暑いですから、くれぐれもお気をつけて――」
「ねえ」

 俺の言葉を遮って、老婦人は声をかけてきた。

「金田さん、って言ったわよね。お仕事、探してらっしゃるの?」

 俺はきょとんとしたまま、こくりと素直にうなずく。
 老婦人は嬉しそうに笑った。

「もしかしたら……お手伝いできることがあるかもしれないわ」
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