マイ・リトル・プリンセス

松丹子

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.9 新婚生活

45 おとなのキス

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 ここからはとうとう、ふたりの甘~い新婚生活の始まり……なんてこともなく、戸籍上は夫婦になったっちゅうても、現実的な話、礼奈はまだ学生なわけで。
 別居婚生活の中、礼奈の就活は一番忙しい時期にさしかかった。
 俺と会えるのは月に一、二度。来訪は平日のときもあれば休日のときもある。もちろん俺も仕事があるから、二人で過ごす時間は限られとる。せいぜい話しながら夕飯を食って、一泊して、帰って行くのを送るくらいや。
 それでも、まあ、やっぱり、頭のどっかに「結婚した」という意識があるからやろう。それまでほとんど軽く触れるだけやったキスは、少しずつ、深いものに変わってきた。
 礼奈はそれを「おとなのキス」なんて言うて――せやろ、かわいいやろ? ときどきそういうこと言うんやもん、語彙力ぱーんてなるの分かるやろ? ――まあとにかく、少しずつ、関係は発展してるわけや。

 それにしても、少女やった子が女の顔になっていくのを目の当たりにするのが、こんなに心臓にクるとは、正直予想外やった。きゅん、なんてかわいいときめきちゃうで。音で表現するならぎゅんぎゅんや。
 百メートル全力疾走したみたいな動悸がするもんやから、三十路過ぎた男の心臓には結構堪えるんやて。いや、他の男に譲る気はもちろんないで。ないんやけどな。でも完全に過負荷やわ。
 いやー、ほんま転職しといてよかったわ。元の職場いて週末にこんなんなってたらたぶん心臓保たんで死んでたと思う。
 まあそんなわけで、礼奈がどう思てはるかは分からへんけど、俺はすっかり夫――なんやまだそう言うんも照れくさいけど――の立場に満足しとるわけや。

 ***

 七月末のその日も、礼奈は俺の家に来ていた。もう二社からは内定をもらっとるらしいけど、まだ本命はこれからや言うて、就活を辞める気はないらしい。
 就活するにも交通費やら何やら、金がかかるのは俺もよう知っとる。俺が出してもええて言うてんねんけど、それはあかんて当人がかたくなに拒否するから支援もできん。となると自然、就活、学校、バイトの三カ所を休む間もなく行き来することになるから、その顔は心なしかやつれとるように見える。
 礼奈はほんま、頑張りやさんやからなぁ。結婚前も、インターンとバイトで倒れたことあってん。ストレスもあるやろうけど、主に過労やと思う。「あいつ、やるとなるとほんとぶっ倒れるまでやるから」言うて呆れたのは健人で、いつもおちゃらけてるあいつも、さすがに心配しとったくらいや。

 そんなわけで、俺は正直心配でたまらんし、早く就活が終わればええな思うてる。けどこればっかりは本人がどこで満足するかっちゅうことが一番大事や。
 せやから、俺にできることは少しでもゆっくり過ごしてもらうこと。姫にかしずくナイトのごとく、給仕役を買って出る。
 とにかく、エネルギーを削ぐようなことはしちゃあかんからな。お茶を出して飯を用意して、礼奈に風呂を勧めた隙に食器の類いを片付け、礼奈に続いて風呂に入った俺が、ふぅ、今日もよく務めたと満足したところで――
 リビングに戻るや礼奈からタックルされて、一瞬、呼吸が止まった。
 身長的にな、頭がちょうどみぞおち辺りに入ってん。ぐふ、て息出て、軽く咳払いをしてから見下ろした。
 お、俺なんかしたか? 新手のイタズラか?

「れ、礼奈?」
「……はい」

 俺の胸のあたりで、礼奈の声がする。覚悟を決めたような、真剣な声音。俺を見上げる丸みのある猫目と目が合った。

「どうかしたか?」

 問うと、「別になんでも」とモゴモゴ言った後、じゃっかん不安そうに眉を下げて俺を見上げてきた。

「こうするの……いや?」

 ――嫌なわけあるかーい!

 要するにあれや、抱きつこう思うて勢い余っただけやねんな。俺に攻撃するつもりのタックルやないと分かってほっとする反面、あまりのかわいさに顔を背ける。
 あかん、あかん。ペースに飲まれんようにせな。
 礼奈のデレは本気で俺を翻弄してくるから心臓に悪い。
 まずは呼吸を整えて――

「お前、明日もバイトやろ。そろそろ寝――」
「やだ」

 や・だ。

 幼い声音が、脳内で反響する。やだ。やだ。やだ……くっはー、かわいい。かわいすぎてつらい。何度でも聞きたい。

「だって……」

 礼奈は唇をとがらせた。俺はぐっと息を止める。
 この顔はあれや、えらいかわいいこと言う前触れや――覚悟したとき、言葉が聞こえた。

「栄太兄……一緒にいても、ぜんぜん構ってくれないんだもん……せっかく……ふうふになったのに」

 最後の言葉は、ほとんどささやくような声音や。ふうふ、が夫婦、に時間差で変換されてから、俺は唾を飲み込んで――ごきゅ、てえらい音して自分でも引いた――なだめるつもりで口を開いた。

「せやかて……就活もあって、バイトもして……疲れてるやろ?」
「そうだけど……だからこそ、栄太兄に癒やされたいのに」

 しょげた猫みたいにうなだれた、礼奈のつむじに目が引き寄せられる。

 い、癒やされる? 俺に? どうやって?
 どうすれば礼奈の疲れが癒えるのか、俺にはよう分からん。マッサージでもすればええのか? 子守唄でも歌うか? それとも……

 思っていたら、不意に袖を引かれた。

「……栄太兄」

 見下ろすと、桃色の唇がゆっくりと動く。

「……おとなのキス、して?」

 吐息のような声。
 潤んだ目。
 横から殴られたような衝撃に、頭が一瞬真っ白になる。

 ――これを断れるやつがいるなら会うてみたいわ!

 心中言葉をなくして悶えながら、俺は礼奈の頬に手を添えた。
 ふにっ、と指先に触れる柔らかさ。
 あ、あかん、あまりのかわいさに動揺して、指先震えとるやん。
 礼奈はほっとしたように、一方で何かを決心したように、ゆっくりと目をつぶった。
 そこにないはずの白いヴェールが見えるくらい、清くて尊いその唇に、そっと唇を近づける。
 ……結婚式は和服やったけど、やっぱりチャペルも捨てがたかったなぁ……
 心の中で思い返しながら、軽く触れた唇を離したら、礼奈はもう目を開けとった。
 不満げに俺を見上げて、きゅっと俺の袖をつまみ、唇を尖らせる。

「……それだけ?」
「へっ?」
「……それじゃ、おとなのキスじゃない」

 ぷぅっと頬を膨らませたと思えば、泣きそうな目を向けてくる。

「……一緒にいられる時間は、できるだけ近くにいたいって思ってるの……私だけ?」

 ぎゅむっ、と心臓が掴まれて、息が詰まった。
 いや、そんな……こと、ないで。ないけど……ないけどな、その……。
 ぐらんぐらん、揺れるのが決意なのか身体なのかよう分からん。最後の一押しをするかのように、礼奈が俺の手を取った。

「……栄太兄」

 両手で俺の手を包むように握ったまま、小さく呼んで、切なげな目で俺を見つめる。
 ごくり、という喉の音が、身体中に響く。

「……もっと……触って?」

 小首をかしげるように、俺の手に頬をあずけて。
 懇願するような一言に、頬に押し当てられた俺の指先が、びくんと震えた。
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