マイ・リトル・プリンセス

松丹子

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.5 マシな生き方

23 叔父たちとの飲み会

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 年度末の繁忙期が過ぎたら、就活を始めることに決めた。とはいえ、今の仕事を放り出すわけにもいかんから、仕事の合間の就活になる。
 条件は、鎌倉から片道一時間以内。週休がきちんと取れること。何なら、全部とまではいかずとも、有給もとれること。
 仕事の内容は――といえば、学生の頃考えたことよりも、意外となんでもええのやった。
 ただ、淡々とデスクに向かうより、人と接する仕事の方が好きや。営業の経験もあるから、知らないところに飛び込んで行って話をするのも苦手やない。特にじいさんばあさんには人気がある方だから、そういう人と話すのは苦やない。
 学生の頃もやった自分自身の棚卸しのワークを、懐かしく思いながら試してみたけど、思ったより変わってへんかった。変わったことといえば、忍耐力やら耐久力がついたことくらいなもんやろうか。それは営業で鍛えられたところやと思う。
 あのときと今、何が違うかて、一番違うのは気持ちやろうと思う。
 あの頃は、何でもやれる気がした。何でもなれる気がした。好きなことはもちろん、嫌なことでも、やってるうちにどうにかなるやろ、と思うてた。
 まあ、実際そういうことが大半やったけど、結局性分っちゅうもんは変わらんで、自分が好きなもん磨いた方がええ方に行くもんらしいっちゅうんは、不思議と感じるようになった。
 俺は逆立ちしても背伸びしてもジャンプしても、俺でしかないねんな。
 それを諦めというか、許容というかは分からんけど、そう腹をくくってしまえば気が楽になった。

 政人から「飲みに行こう」と誘われたのは、二月に入る頃やった。もう一人の叔父、隼人兄ちゃんも一緒にと。
 誘われるがまま、三人で都内に集まった。

 ***

 乾杯を済ませて、それぞれビールを口に運んだ。一瞬の沈黙の後、最初に口を開いたのは政人や。

「正月に会えなかったから、久しぶりだな。元気だったか」
「うん、まあ」

 鷹揚に微笑まれて、曖昧にうなずく。
 実際には、仕事の合間に転職情報に目を通してるから、なかなか疲れとる。
 けど、あえて心配させる必要はないやろ。
 心中でひとりごちて、ビールを再び口に運ぶ。

「栄太郎、転職考えてるんだって?」

 次いで切り込んできたのは隼人兄ちゃんやった。思わず口に含んだビールを噴き出しそうになり、むせた俺の背を、政人が軽くたたく。

「隼人……お前、いきなりだな」
「え? だって今日、その話で集まったんじゃないの?」

 首を傾げる隼人兄ちゃんは、政人と似た顔立ちやけど雰囲気が全然違う。王子様。若様。そんな雰囲気がある人やって、言えば天然な節がある。

「まあ、そうっちゃそうだけど……」

 呆れる政人の横で、俺は喉の調子を整えると椅子に座りなおした。

「……なんでそれ」
「そりゃ、姉さんから聞いたから。ねぇ?」
「まあな」

 隼人兄ちゃんと政人が視線を交し合う。俺はため息をついて頭を抱えた。

「あのオバハン……プライバシーも何も無しやな……」
「それ本人に伝えていい?」

 無垢な笑顔でスマホを手にした隼人兄ちゃんに、俺と政人は蒼白になった。

「あかん。あかんで、隼人兄ちゃん。それはほんまあかん」
「隼人……お前、何て残酷で恐ろしいことを……」

 引きつった俺たちの顔に、隼人兄ちゃんは「冗談だよー」と笑うたけど、ほんま笑えへん。
 隣に座る政人が引きつった顔してはるけど、きっと俺もそんな風なんやろうな。
 母さんの恐ろしさ、隼人兄ちゃんは知らんのや。
 俺の母さんは、二歳年下の政人にはキビシイシツケを施したらしいけど、九歳年下の隼人兄ちゃんには甘々やったらしいねん。まあ九つ離れてればそりゃそうやろと思わんでもないけど、おかげで隼人兄ちゃんは、政人と俺が抱いている恐怖心がまったく分からんらしい。
 もしRPGのキャラやったら、うちの母さんラスボスやからな。絶対そうやからな。
 表情を引きつらせる俺に、政人はちらっと気づかわし気な目を向けた。

「新年に鎌倉に集まったとき、母さんたちから、お前がちょこちょこ顔出してるらしいって聞いたんだよ。月に一回とか二回とか……。こまめに来るようになって、家の中のことあれこれしてくれるから助かる、って、そんな話だったんだけどな」

 ああ……ばあちゃんがそう言ったんか。そうか、役に立ててるんならよかった。
 そう思いながらあいづちを打つ。

「でもほら、お前、今まで仕事仕事で忙しかったろ。どういう心境の変化かなーと思って……新年の挨拶かたがた、姉さんとこに電話したんだよ。色々事情もあるかもしれないから強引に聞くつもりはなかったけど、『私も別に口止めされてないし』とかってあっさり話してて」

 口止め……は、してへんな。確かに……。
 はー、とため息をついて、またビールを口に運ぶ。苦い味が口の中に広がり、喉を炭酸がちくちくと刺激して行った。

「栄太郎、あの家に住むつもり?」

 またしても直球。
 何気ない調子で口にされた隼人兄ちゃんの言葉に、政人が「だからお前なぁ」と呆れてはる。
 いや、たぶんあれやねん。隼人兄ちゃん、頭の回転が速すぎんねん。会話しとって二手三手先に思考が跳んでんのや、仕方ないわ。
 俺は言葉を探しながら口を開いた。

「そうやな……もし、そうしてもええてみんなが言うなら、そうしよかと思てるけど……」

 あの家。――鎌倉の家。
 ばあちゃんもじいちゃんも、維持が大変になってきたのは見てて分かる。庭も雑草だらけやし、水回りなんかも汚れてきてるし。昔はピカピカに磨いてあった家ん中が、どんどんくすんでいくのは見てて切ない。
 せやから、ばあちゃんたちが少しでも楽になるなら、俺が一緒に住むのはどうやろ――と、思うのは俺の勝手な妄想や。まだ誰の前でも口にしてへん。母さんの前でも。

「でも、じいちゃんとばあちゃんの生活に邪魔なようやったら、ええねん、他に家借りるつもりやわ。……とにかく、今は……」

 ふと言葉を止め、息を吐き出す。
 じわり、と苦い想いに口が歪んだ。

「……今は、ちょっとしんどくてな。ビルのないとこに行きたくなってん。ただの逃げかも知れへんけど」

 吐き出した空気の塊の中に、胸にもやついていた暗い想いが混ざった。
 政人と隼人兄ちゃんが顔を見合わせる。
 先に微笑んだのは政人やった。

「いいんじゃないか、逃げても」

 その声は意外なほど平坦やった。慈愛に満ちてるわけでも、なんでもない。あっけらかんとしたもんで、思わず顔を上げる。
 叔父はビールジョッキをこつこつと指で叩きながら、一言ずつ確認するように続けた。

「お前が息をするために、他の場所に行きたいなら、そうすればいい。誰に文句を言われる筋合いもない、お前の人生なんだから。お前が、呼吸しやすいと思えるところに行けばいい」

 それは抽象的で具体的で、なのに今の俺にはしっくりきた。
 呼吸しやすい場所。
 高層ビルもマンションもほとんどない、広い空。歩けばどこにでも目につく瓦屋根の神社や寺。一歩境内に踏み込むと漂ってくる焼香。風に揺れる木々のざわめき。雨が降れば広がる土の匂い。椿、梅、桃、桜、紫陽花、朝顔にキンモクセイ、紅葉に銀杏――四季にうつろう、草花。
 そういうものの中でこそ、俺はちゃんと、呼吸ができる。

「……そういえば、そうだったな」

 ビールをまた一口飲んだ後で、政人は思い出したように微笑んだ。
 視線はジョッキに向けられてるのに、懐かしげに遠いところを見ている。

「姉さん――お前の母さんも、鎌倉に似てるから気に入った、って言って奈良に進学したんだった。奈良育ちのお前は鎌倉に行くと安心するのか。やっぱり似てるのかな、街の雰囲気が」

 その横顔に、家族を想う優しさを感じた。
 ああ、そうやんな。怖がってたって何やって、政人にとって母さんは、大人になるまでを一緒に過ごしたかけがえのない姉弟なんやな――

「どうやろな」

 ジョッキを両手で包み、でも、と続けた。

「どっちの街にも、大切にしたい人がおるんは確かや」

 ふっ、と、俺を見て政人が笑う。ジョッキから手を離すと、手についた水を手拭きで拭った。
 隼人兄ちゃんがジョッキを掲げる。

「栄太郎にいい出会いがあることを祈って」
「……それは仕事? それとも女?」
「どっちでもいいんじゃない」

 茶化すような政人の問いに隼人兄ちゃんは笑って、俺の方にジョッキを向けた。

「大丈夫だよ、栄太郎。前よりもずっと、近づいてる気がする。栄太郎が求めてる何かに」
「なんだそれ……ざっくりしてんな」

 政人が笑いながらジョッキを持った。俺も笑いながらジョッキを手にする。

「でも、隼人兄ちゃんに言われると、何や説得力あるわ」
「おい。それは俺だと説得力に欠けるってことか?」
「そうは言ってへんやん。――でもまあ、どっちかっていうとそうやな」
「あははは、栄太郎ってば言うー」
「笑うな、隼人」

 賑やかに笑いながら、がちんとジョッキを合わせる。政人が笑った。

「――ったく、お前らもすっかりかわいげがなくなったな」
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