この初恋は犬も食わない

松丹子

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本編

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 食事を済ませた紗也加は、翔と共に私鉄に乗り、数駅離れたホテルへ向かった。
 名古屋は車社会と聞くが、ホテルは駅から近いらしい。駅から職場まで送迎バスが出ているのだと将は言い、

「会社直行のバスなんて、気分はほとんど売られる子牛だよ」

 と肩をすくめた。
 その気持ちは分かる気もする。紗也加は苦笑した。
 翔がそうやって自分のことを話すのは珍しいことだ。もちろん日頃から冗談を言ったりもするが、口数自体は多い方ではない。だからこそ、よく話す優一と仲がいいのだろう。
 時々思い出したように話す翔と共に宿泊先へ向かいながら、紗也加は不思議な思いがしていた。
 隣に立っても、隣に座っても、紗也加と翔の身体が触れ合うことはない。
 温かく浮き立つ心と、切なく締め付けられる想いが、互い違いに去来しては紗也加を翻弄する。
 翔は横顔だけを向けていたかと思えば、ときどき紗也加に微笑んだ。
 それが嬉しくて哀しくて、紗也加の笑顔は泣き顔じみていた。

 * * *

 翔が紗也加にとった部屋は15階建てのホテルの14階だった。空いていたのがそこだというが、ビジネスホテルなので部屋のランクは関係なさそうだ。
 鍵を受け取ると翔がうらやましそうに言った。

「夜景見えるかな。俺5階だからいまいちなんだよね」
「さー、どうだろうね」

 エレベーターに乗ると、翔がパネルの近くに立った。14階を押したのを確認してお礼を言い、紗也加はぼんやりした。
 こんなに長い時間翔と二人でいるのは初めてだ。
 少し疲れたかもしれない、と思ったとき、パネル上の階表示が5階を過ぎているのに気づく。
 驚いて翔を見ると、いたずらな笑顔が返ってきた。

「ちょっとだけ。見晴らし確認」

 紗也加は顔を歪めてため息をついた。

 * * *

 カードキーを使ってドアを開け、明かりをつけて中へと入る。
 翔は形だけ「お邪魔します」と声をかけたが、遠慮なくずかずかと中まで入ってきた。
 既に閉まっていたカーテンを開けたが、部屋が明るくて外が見えないらしい。手を額に翳す形でべたりと窓に張り付いたが、ふぅんと勝手に納得して振り返った。

「サヤ、ここ座ってて」

 紗也加は困惑しながら、指示された通りベッドのふちに腰掛ける。
 ちょうど窓に正対したそこは、窓の外の見晴らしがいいのなら特等席だろう。

「よいしょ」

 翔はベッドサイドの明かりのパネルを操作した。
 部屋が真っ暗になる。

「へぇ、まあまあ」
「うん、まあまあ」

 感心する紗也加の声を、同意する翔の声が追う。
 二人はまたたく夜景から互いの顔に目を移して、ふと笑った。
 紗也加は息をつく。

「なんか……久々かも。こういうの」
「こういうの?」
「ゆっくりしてるっていうか……」

 満ち足りてる。
 自分の気持ちを言葉にしようとして、やめた。
 それは翔がいるからこそではないかと気づいたからだ。
 同時に胸を虚無感が襲う。
 温かさすら感じていた空間が、急に切ないものに思えた。

(いっそ、泣きたい)

 暗闇に浮かぶ夜景を目に、紗也加は思う。
 今日、このときばかりは、泣いても許されるような気がした。
 翔への想いを涙にして、全て出し切れればーー
 譲一の気持ちに答えることができるだろうか。
 紗也加は息を吸った。
 吐き出す前に、呼吸を一瞬止める。そのとき、翔が紗也加の背後に回り込む気配がした。
 抱きしめるというにはゆるすぎる抱擁が、紗也加の脇を通り膝上へ乗る。
 同時に、首後ろに擦り寄る翔の鼻先。

「……落ち着く」

 翔が囁くように言った。
 紗也加の心臓は、とたんにばくばくと暴れ出した。
 落ち着いていた気持ちが乱れに乱れ、背後の翔の温もりに意識が集中する。
 せっかくしっとりしていた気分がだいなしだ。
 そう思いながら、紗也加は意識して規則的な呼吸を続けた。乱れた動悸につられて浅く速くなる呼吸をなだめる。
 翔は紗也加の髪質を堪能するように、頬を、鼻先を擦り寄せて来る。
 まるで翔自身が犬のようだ。
 思っていたら、翔がはぁとため息をついた。

「眠い。……ちょっと寝る……」

 紗也加を抱きしめたまま、ベッドに横になる。
 共倒れにされながら、紗也加は慌てた。

「ちょっと、しょーくん!」
「んー、こっち来てからあんま寝られてなくて……。ちょっとだけ……」

 半ば夢の中にいるように、その声音はすでに曖昧だ。
 紗也加は諦めて、「少しだけだからね!」と念を押した。

 暗い部屋の中で、服を着て靴も履いたまま。
 足だけを脇に投げ出し、翔とベッドに寝転んで。
 翔の手は紗也加の前へと回されていたが、どこかに触れているわけでもない。
 おそらく彼の顔だけが、意図的に紗也加の髪に触れている。
 後ろから聞こえて来る呼吸はまさに寝息そのものだ。
 緊張も何もなく、紗也加を腕に抱き、眠る翔。
 紗也加の目は冴えたままで、鼓動は引っ切りなしに紗也加の胸を叩き続けている。
 これが二人の関係だった。
 今までずっと。
 多分、これからも。
 紗也加は目を閉じて翔の気配に浸った。
 寝息に合わせて呼吸をしてみる。
 少しでも、翔と一体になった気分を味わいたかった。

 翔が面倒に思うのは、女性のアプローチだけではない。
 独占欲、嫉妬ーーそういう気配も嫌うのだ。
 そして紗也加は、薄々気づいていた。
 自分が嫉妬深く、独占欲の強い人間だということに。
 紗也加はまた目を開く。
 涙が目ににじみ、鼻がつんと痛くなった。
 じわりと込み上げる、哀しさ。

(あたしは到底……しょーくんに好きになってもらえるタイプの女じゃない)

 分かっていたつもりだった。
 だから、何度も、諦めようとーー

 翔がもぞりと動いた。
 片手が紗也加の髪を撫でる。
 愛おしそうに笑って、

「さやかちゃん……」

 寝言とはっきり分かる、つたない語調で紗也加を呼んだ。
 紗也加の身体は凍りつく。
 聞いてはいけないものを聞いてしまったような気がした。
 今の呼び方は、まるで。
 翔の腕が、紗也加の身体を明確に抱きしめる。
 そしてまた嬉しそうに、紗也加の髪に顔をうずめた。
 紗也加はすっかり混乱した。頭は変に冴えていて、それでも回転は鈍い。
 翔が足をベッドに上げた。靴を脱いでいないのにと、紗也加は思う。泣きそうだった。笑いそうだった。
 喜んでいいのか歎くべきなのか、はたまた怒ればいいのか分からない。
 翔の気持ちは、いつも、いつだって、紗也加には分からない。

 だから結局、翔が目覚めるまでじっとしていた。

 * * *

「うぁ。ごめん」

 たっぷり2時間ほどして、翔が目を覚ました。
 暗闇であることと、紗也加もうとうとしていたのでよく分からないが、翔が珍しくうろたえているのを背中に感じる。

「ごめん。ほんとに、ラブだと思ってて」

 紗也加がゆっくり起き上がると、翔も上体を起こした。かと思えばさっと立ち上がる。

「俺、部屋に帰るわ。お邪魔しました」

 いそいそと出て行きかけて、翔はドアの前でふと立ち止まった。

「俺の部屋、516だから。何かあったら内線でもして」 

 言って出て行きかけ、また立ち止まる。

「コンビニ一軒近くにあるけど、近いっつっても10分くらいかかるから。ホテル出るなら俺も行くから呼べよ。あと」

 翔はドアに手をかけて、言った。

「……部屋に他人入れちゃ駄目だぞ」

 紗也加が反応するより先に、翔は部屋を出て行った。
 そのセリフは、あまりにも。

「勝手……過ぎじゃない……?」

 取り残された部屋で一人、紗也加は呆れて呟いた。
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