この初恋は犬も食わない

松丹子

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本編

04

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 翌朝、紗也加は喉の乾きで目が冷めた。時計を見ると早番の日と変わらない時間だ。休日なのにもったいない気がしながら、水を飲みにキッチンに向かった。
 ダイニングテーブルには、トーストにかじりつく優一の姿がある。

「おはよ」
「おはよ。遊び人」
「どっちが」

 兄の言葉に半眼を返し、コップに水を注ぐ。
 起きぬけそのままで来たので、結んでいない髪が肩周りにふわふわと広がっていた。乱雑にかき上げてコップの水を飲み干す。

「翔に会った?」
「……会ったよ」
「あ、そ。ならよかった」

 兄が言って、トーストの最後の一口を頬張った。手を合わせて「ごちそうさま」と立ち上がる。

「翔くん、どうかしたの?」

 紗也加に朝食はいるか聞いた母が、優一の言葉に首を傾げた。優一は軽く首を振る。

「別に、何でも。あ、でも紗也加がやるなら、二次会の幹事やってもいいって言ってた」
「何、それ。なんとなく上から目線」
「お前もな」

 優一は紗也加に笑う。紗也加はむすっとして、部屋へ戻ろうと歩き出した。

「あ、そーだ。紗也加。年末年始、仕事?」
「えー。まあ、うん。稼ぎ時だからね」
「あー、そうか……残念」

 心底残念そうに言われて、紗也加は立ち止まった。
 優一がそれに気づいて苦笑する。

「いや、翔と二人で宅飲みしようかって言ってたんだけどさ。翔んちのご両親、今年は田舎に帰省するらしくて。翔は留守番だって……ほら、あいつ犬飼ってるから」
「ああ、ラブちゃん」

 翔の家にいるゴールデンレトリバーだ。
 高校生になるや否や、「翔が構ってくれない」とすねた父親がいきなり買ってきたという。ネーミングも翔の両親がしたものだが、ラブラドールレトリバーを買うつもりでいて、購入前に決めていたらしい。翔の両親には紗也加も数度会ったことがあるが、なかなかお茶目なところがあった。

「でも、ラブちゃん何歳なんだろう。もう、相当おばあちゃんでしょう」
「15年くらいになるもんな。そうだと思うよ。散歩も家の周りぐるっとするだけだって言ってたし」
「そっかぁ。……元気だったときの印象しかないや」

 紗也加は動物が好きだ。一度、散歩を手伝いたいと言って優一と共につきそった。やたらと気に入られた優一が散々追いかけられ、なめ回されていたのを覚えている。

「ま、もしよければ来いよ。宅飲み。ラブに会いに」

 優一に言われて、紗也加は苦笑した。

「そんな、自分の家みたいに。ていうか、男二人で年越ししようとしてたの?」
「キモいこと言うな、八重も一緒だよ。……終電まではな」

 八重とは優一のフィアンセだ。紗也加にとってはもうすぐ義姉になる人である。
 落ち着いた、自立した雰囲気の女性だ。優一に言わせると「ときどきズレててツッコミ所満載」らしいが、それはおそらく彼なりののろけの一種だろうと見ている。

「八重ひとりじゃ後片付け大変だし。お前、飲みながら片付けんの得意だろ」
「家政婦代わりかい」

 呆れて半眼になりながら紗也加は言い、ため息をついた。

「……まあ、ちょっと……考えとく」

 百貨店では大晦日の夕方まで営業し、元旦には二日から始まる初売りのための準備をする。
 気分を新たに来客してもらうおうと、短期間で大幅に品物や掲示物を入れ替えるため、大晦日の営業終了後と元旦の勤務は毎年おおわらわだ。
 ただでさえ疲れ切ってしまう一大行事。--とはいえ。

(しょーくんちに行ける……ラブちゃんに会える……)

 それは大変、心ときめく提案だった。

 * * *

 優一と話してから再度一眠りした紗也加は、洗面所で身支度を整えた。
 軽く化粧をし、髪をとかす。
 絡まりやすく、色素が薄い髪は、ゴールデンレトリバーのしっぽに似ているーーと、言ったのはもちろん翔だ。
 極力髪を傷めないよう、ゆっくりと梳いていく。
 日頃ポニーテールにくくっているので、今日はハーフアップにしてみた。
 肩周りに広がるのが気になるが、いつも同じ結び方をしていると髪が薄くなる、と、友人の理都子に聞いてからちょっとだけ気にしている。
 手で自分の髪を撫でて、ため息をついた。

 朝食をとり、部屋に戻ってスマホを手に取ると、優一からメッセージが入っていた。

【幹事、やってくれるってことでいい? 翔に連絡しといて】

 続けて「一応、連絡先」と記載がある。優一が学生の間、連絡がつかないときなどに翔に連絡したことがあるが、社会人になってからは一度も連絡したことはない。
 連絡先を目にして唇を引き締める。
 自分の肩先にかかった髪を指先にくるくると巻付けた。
 散々迷った挙げ句、優一が送ってくれた連絡先をタップする。

【おはよー】
【しょーくんが寂しいらしいから、私も幹事を引き受けてあげることにしました】

 送って、時計を見やる。10時半。もう仕事中なのだろう、すぐに既読になることはない。
 紗也加は自分から引きはがすようにスマホを机に置き、ベッドに横になる。
 ごろりと横向きになると、広がった髪がふわふわと頬を撫でた。
 少しでも女らしく見られたくて、伸ばしたままの髪。
 ーー残念ながら、犬のしっぽとしか認識されなかったようだが。
 それでも、事あるごとに引っ張って来るのは、学生の頃から変わらない。
 変わらないからこそ、髪型を変えることもできないまま、今に至っている。
 色気も何もない、じゃれ合いのような触れ合い。
 それでも、紗也加にとっては、大切なひとときなのだ。

(髪を切れば……忘れられるのかな)

 幾度もよぎった想いが、改めて脳裏をよぎる。
 翔に会っても会わなくても、自分の髪が目に入るたびに、翔のいたずらっぽい笑顔を連想する。

 大学1年のとき、一度だけ髪を切ったことがあった。
 進展の望めない翔との関係を諦めて、告白してくれた男子とつき合ったときだ。
 みんなからは一様に似合っていると褒められたボブショートは、翔には大変不評だった。

『……せっかく、ふわふわの髪してるのに。そんな髪型したら、普通の女みたい』

 普通の女って何だ、と心中でつっこんだが、口に出すことはできなかった。
 言いたいことを言った翔が、途端に紗也加に興味を失ったように、優一と話しはじめたからだ。
 そして、髪を伸ばしていれば、翔にとって「その他大勢の女」にならずに済むのかと、一瞬で計算した自分に気づいたからでもある。
 当然、そのときの彼氏とはすぐに別れた。

 その後も、告白されてつき合った男は何人かいた。
 ただ、それは紗也加にとっては友達の延長のようなつき合いだった。恋人らしく手を握っても、キスをしても、紗也加の気持ちは変わらなかった。
 恋人との肌の触れ合いよりも、愛の囁きよりも、翔の少年じみた笑顔や、髪に触れる手の方が、紗也加をときめかせるのだ。
 スマホが鳴った。どきりと心臓が高鳴る。
 机に手を伸ばして引き寄せると、翔からのメッセージがあった。

【年末の宅飲み、優一から聞いた? 俺も彼女紹介するから、サヤも来てよ】

 メッセージに次いで、写真が送られて来ている。

【これ、俺の女。15歳。超可愛いから】

 そこには柔らかそうな毛並みのゴールデンレトリバーが、笑っているような顔で写っていた。
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