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本編
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翌朝、母と朝食の準備をしていると、兄の優一が部屋から出てきた。
眠そうに目をこすり、あくびしながらダイニングテーブルの椅子に腰掛ける。
まだ頭が起ききっていないのだろう。
「お兄ちゃん、おはよ。コーヒーいる?」
商社勤務の優一は、基本的に帰宅が遅い。昨日も遅番の紗也加より遅く帰宅していた。
「んー、もらう」
コーヒーメーカーには、すでにドリップされたコーヒーが入っている。少し冷めているそれは、父がいれたものだ。
毎朝早く起き、コーヒーを飲みながら新聞を読むのが父の日課だ。子どもたちが大きくなってからというもの、ドリップされる量は徐々に増え、家族五人に行き渡る量になった。
昨年定年を迎えた父は、そのまま会社に勤めている。早めに家を出るのが日課なので、既に出勤して家にはいない。
「はい、どうぞ」
「サンキュ」
兄のマグカップを出してやると、優一はぼんやりした目でそれを手にした。
その姿を見ながら、ふふ、と母が笑う。
「お父さんってばね、今日おもしろかったのよ」
「なに?」
優一と紗也加が母を見ると、母はトーストを皿に乗せ、机に運びながら言った。
「次に買うコーヒーメーカーは、小さいサイズかなぁって、寂しそうに言ってた」
母が優一の前にトーストを置く。優一がいいのかと目で尋ねると、母が微笑んで頷いた。
「なんで小さいのにするの?」
紗也加が首を捻ると、母は笑う。
「半年後には優一がいなくなるでしょ。紗也加もいつ家を出るか分からないし。健次はほら、お勤めが不定期だから、家にいるのも日によるじゃない。半日は寝てるし」
優一がトーストにかじりつきながら笑った。
「父さん、意外とそういうの、気づくんだね」
「ふと思ったんでしょうね。コーヒー豆掬いながら、何か考えてるなーと思ったら、いきなりそう言うもんだから」
笑っちゃった、と母が笑う。紗也加は思わず目を反らした。
「紗也加、決まるとなったら早そうだもんなー」
「そんなことないよ」
「それだけ遊び回っといて、誰かいないの? 優一、会社の人とか紹介してあげなさいよ」
「そうだなぁ……」
優一は母の言葉にちらりと目を上げ、探るように紗也加の顔を見る。
紗也加は感情を読み取られないよう顔を背けた。
「ジャム持ってくる」
「あ、トーストもう一枚焼いてくれる?」
「はーい」
紗也加が冷蔵庫へ向かうと、母は優一の前に腰掛けた。
「そういえば、結婚式と披露宴、本当に親族だけでいいの?」
「うん。友達だけで二次会やるから」
「あ、そうなんだ」
(そうなんだ)
母と同じ言葉を、紗也加は心中でつぶやく。
半年後の春、優一は大学時代の同級生と結婚する。彼と仲のいい友達は、当然披露宴に招かれるものと思っていた。
だからーー久々に「彼」に会えると、期待していた自分に気づく。
(スーツ姿とか、ほとんど見たことないし)
彼のスーツ姿を見たのは、就活中の数度だけだ。就職してからも休日にしか会っていないので当然といえば当然だが。
会う、と言っても、紗也加に会いに来るわけではない。彼は車を持っているので、兄を迎えに来たときに偶然会ったり、ときどき、ごく稀に、かなりの幸運が重なれば、兄を含めて三人で食事する程度のつき合いだが。
(かっこいいだろうなぁ、スーツ)
バレーボール部だった兄と同じく高身長の彼は、180センチ以上ある。すらりと伸びた背に無駄な肉のない身体
高校時代は兄と二人でセッターを務めていた。
「あ、でも翔(かける)は呼ぶよ」
不意に聞こえた兄の言葉に、呼吸が乱れ、ごふっとむせた。
「あれ。紗也加、どうした。大丈夫か?」
「大丈夫。気にしないで」
いきなり咳込み始めた妹に向ける優一の視線は意味深だ。それを遮るように手を振ると、チン、とトースターから音がした。
トーストを取り出そうとし、「熱ッ!」と悲鳴を上げて手を引っ込める。母が笑った。
「あらあら。大丈夫? お皿を近くに準備しなさい。相変わらずそそっかしいわね、紗也加は」
母は言って、そうだわと楽しげに続ける。
「翔くんはどうかしら。紗也加みたいな鈍臭いの、タイプじゃないかしら」
「さぁー、どうだろうなぁ」
「ほ、ほら、お母さん。パン焼けたよ!」
わざとらしく首をひねる優一の顔を見ないようにしながら、紗也加は二人の会話を終わらせようと、母の前にトーストを置く。そしてジャムを手に、自分の定位置に腰掛けた。
「翔くんなら、昔から知ってるし、ご両親も知ってるし、お母さん安心だけどなぁ」
「し、知らないよ。あっ、もうこんな時間。ほら、お兄ちゃんも急がなきゃ」
紗也加は時計を示して言うと、ジャムを塗ったパンを頬張った。
食事を終えた紗也加は洗面台で化粧を始めた。その横に優一が来て声をかけ、歯ブラシを取り出す。
鏡の近くで自分の顔に向き合う紗也加の後ろで、優一の動かす歯ブラシの音が聞こえた。
紗也加は化粧ポーチから口紅を取り出す。
「……今はこれに入ってんの?」
言われてはっと我に返った。いたずらっぽい顔をした優一の指には、化粧ポーチのチャックについたマカロン形のストラップがつままれている。数年前、「かわいい手作りコインケース」と流行ったときに友人と作ったものだ。
紗也加は顔が赤くなるのを感じた。
「な、な、何のこと!」
言って化粧ポーチを奪い返し、口紅をしまってチャックを閉める。そのとき、さりげなさを装って、手作りマカロンを手の内に隠した。
「ふぅん」と紗也加を見る優一の目は、意味ありげな視線のままだ。
「ま、いいけどさ。そういや、健次に合コン頼まれたんだって?」
「ぅ、え、ぁ、ぅん」
紗也加が目を泳がせた後頷くと、優一は笑った。
あまりつっこまれたい話題ではない。早々に立ち去ろうと洗面所から離れかけた紗也加の背を、優一の声が追って来た。
「二次会の幹事、大学時代の友達メインでお願いしてるんだけど、翔も一緒に頼もうと思っててさ」
紗也加は歩調を緩め、半身だけ振り向く。
「でも、一人だけ紛れてるのも悪いかなーって。お前、一緒に参加してくんない?」
「……い、妹が?」
「んー」
優一は首を傾げ、洗面所に顔を近づけた。唾を吐き出して口と歯ブラシを濯ぐ合間に、手元に視線を落としたまま続ける。
「八重の方も、高校時代の友達二人くらいお願いしてるんだよねー。仲良くなっちゃったりして」
「知らないよ、そんなの」
紗也加は顔を背けた。
振り向かないまま、思い直して付け足す。
「……しょーくんが私にいてほしいっていうなら、協力してあげないこともない」
振り向かずに歩き出す紗也加の後ろで、優一の噴き出す音がした。
「あ、そぉ。翔がそう言ったらね。おっけ、聞いてみるわ」
笑う合間に優一は言った。紗也加は赤くなった顔を隠すように、鞄を取りに自分の部屋へと向かった。
部屋に戻り、ベッドに腰掛けると、ため息をついて手の中に隠したマカロンキーホルダーを開けた。
中に入っているのは、一つの学生ボタン。
コロンと手に出てきたそれは、表面の塗装がくすみ、端の塗装は剥げかけて、経年を感じさせた。
指につまみ上げて目線にかざす。
(我ながら……女々しい)
女々しい、で済めばいいかもしれない。正直、「キモチワルイ」と言われても仕方ないとすら自覚している。
ボタンの元の所有者は、蓮田翔。
兄の同級生であり、部活仲間であり、親友だ。
そして、紗也加の想い人でもある。
高校生の頃からーーずっと。
* * *
『女が追いかけてくんの、面倒くさい』
卒業式の前日。そう言った彼に、優一が笑った。
『じゃ、先に取っちゃえば。第二ボタン』
二人は狛江家の前で話していた。高1だった紗也加は、帰宅したときその場面に遭遇したのだ。
紗也加の家は高層マンションの一室にある。オートロックの玄関の前で二人が話し込んでいるのはよく見かける光景だった。
それももう、卒業したら見られないのだろうーーそう感じた切なさを振り切るように、紗也加は無言で横を通りすぎようとしていた。
優一の発案に、翔は切れ長の目をまたたかせて笑った。
『いいかも、それ』
紗也加は思わず、足を止める。
呆れて眉を寄せると、口を挟んだ。
『やめなよー。ボタン取れてるなんてみっともないじゃん。写真にもそれで写るんだよ?』
『どうせ俺ら後ろの方だし、目立たねぇよ』
紗也加と優一が言い合うう内に、翔は迷わず、第二ボタンを引きちぎった。
ブヂッ、と鈍い音がしたかと思えば、紗也加の前に大きな握り拳が差し出される。
『はい』
『はっ?』
『俺が持ってたら追っかけの餌食になるだけだろ。預かってて』
翔は涼しげな目を細めた。
女子に羨ましがられるほどきめ細かい白い肌。けだるげに開いた制服の胸元。しかしおしゃれは好きな彼らしく、軽く立てた短めの髪。
ーー預かってて。
『仕方ないなぁ』
言いながら受けとった顔は、必死で無表情を装ったが、その分耳が熱くなった。
できるだけ唇を尖らせて、不承不承というていを繕った。それでも目を上げて二人を見ることはできず、ふんと鼻で息を吐き背中を向けた。
『じゃあね。私、宿題あるから』
さも、「つき合ってられない」とばかりの口調で言いながらその場を立ち去り、二人の視線から逃れる。
見えないところまで来ると、ボタンをにぎりしめた手を胸元に添えた。
心臓は、喉から心臓が出るのではと心配になるほど、強く、激しく、胸を内側から叩いている。
顔が真っ赤になっている自覚があった。
(お兄ちゃんが帰ってくる前に家に帰らなきゃ)
エレベーターを呼びながら思うが、真っ赤な顔で帰れば母に驚かれるだろう。紗也加は頬を両手で冷やそうとしたが、無駄な努力だと察してため息をついたのだった。
* * *
ーーそんな日も、既に10年以上前のことになっている。
そう気づいて額を押さえた。
(……いろんな意味で……イタい……)
ため息をつきながら、マカロンキーホルダーにボタンをしまう。
以前、婚約した友人がこんなことを言っていた。
『婚約指輪って、なんかすごい、お守りみたいなんだよね。私には彼がいてくれるって、落ち着くの』
えらい乙女なのろけだなと、そのときは笑ったものだった。だが、冷静に考えてみれば紗也加こそ、どこに気持ちがあるのか知れない男のボタン一つをお守りにしているのだ。
それも、十数年来もの間。
またため息がこみ上げる。
そのとき、アラームがそろそろ家を出る時間だと知らせた。
紗也加は化粧ポーチをトートバッグに放り込んで、よっこらせと立ち上がった。
眠そうに目をこすり、あくびしながらダイニングテーブルの椅子に腰掛ける。
まだ頭が起ききっていないのだろう。
「お兄ちゃん、おはよ。コーヒーいる?」
商社勤務の優一は、基本的に帰宅が遅い。昨日も遅番の紗也加より遅く帰宅していた。
「んー、もらう」
コーヒーメーカーには、すでにドリップされたコーヒーが入っている。少し冷めているそれは、父がいれたものだ。
毎朝早く起き、コーヒーを飲みながら新聞を読むのが父の日課だ。子どもたちが大きくなってからというもの、ドリップされる量は徐々に増え、家族五人に行き渡る量になった。
昨年定年を迎えた父は、そのまま会社に勤めている。早めに家を出るのが日課なので、既に出勤して家にはいない。
「はい、どうぞ」
「サンキュ」
兄のマグカップを出してやると、優一はぼんやりした目でそれを手にした。
その姿を見ながら、ふふ、と母が笑う。
「お父さんってばね、今日おもしろかったのよ」
「なに?」
優一と紗也加が母を見ると、母はトーストを皿に乗せ、机に運びながら言った。
「次に買うコーヒーメーカーは、小さいサイズかなぁって、寂しそうに言ってた」
母が優一の前にトーストを置く。優一がいいのかと目で尋ねると、母が微笑んで頷いた。
「なんで小さいのにするの?」
紗也加が首を捻ると、母は笑う。
「半年後には優一がいなくなるでしょ。紗也加もいつ家を出るか分からないし。健次はほら、お勤めが不定期だから、家にいるのも日によるじゃない。半日は寝てるし」
優一がトーストにかじりつきながら笑った。
「父さん、意外とそういうの、気づくんだね」
「ふと思ったんでしょうね。コーヒー豆掬いながら、何か考えてるなーと思ったら、いきなりそう言うもんだから」
笑っちゃった、と母が笑う。紗也加は思わず目を反らした。
「紗也加、決まるとなったら早そうだもんなー」
「そんなことないよ」
「それだけ遊び回っといて、誰かいないの? 優一、会社の人とか紹介してあげなさいよ」
「そうだなぁ……」
優一は母の言葉にちらりと目を上げ、探るように紗也加の顔を見る。
紗也加は感情を読み取られないよう顔を背けた。
「ジャム持ってくる」
「あ、トーストもう一枚焼いてくれる?」
「はーい」
紗也加が冷蔵庫へ向かうと、母は優一の前に腰掛けた。
「そういえば、結婚式と披露宴、本当に親族だけでいいの?」
「うん。友達だけで二次会やるから」
「あ、そうなんだ」
(そうなんだ)
母と同じ言葉を、紗也加は心中でつぶやく。
半年後の春、優一は大学時代の同級生と結婚する。彼と仲のいい友達は、当然披露宴に招かれるものと思っていた。
だからーー久々に「彼」に会えると、期待していた自分に気づく。
(スーツ姿とか、ほとんど見たことないし)
彼のスーツ姿を見たのは、就活中の数度だけだ。就職してからも休日にしか会っていないので当然といえば当然だが。
会う、と言っても、紗也加に会いに来るわけではない。彼は車を持っているので、兄を迎えに来たときに偶然会ったり、ときどき、ごく稀に、かなりの幸運が重なれば、兄を含めて三人で食事する程度のつき合いだが。
(かっこいいだろうなぁ、スーツ)
バレーボール部だった兄と同じく高身長の彼は、180センチ以上ある。すらりと伸びた背に無駄な肉のない身体
高校時代は兄と二人でセッターを務めていた。
「あ、でも翔(かける)は呼ぶよ」
不意に聞こえた兄の言葉に、呼吸が乱れ、ごふっとむせた。
「あれ。紗也加、どうした。大丈夫か?」
「大丈夫。気にしないで」
いきなり咳込み始めた妹に向ける優一の視線は意味深だ。それを遮るように手を振ると、チン、とトースターから音がした。
トーストを取り出そうとし、「熱ッ!」と悲鳴を上げて手を引っ込める。母が笑った。
「あらあら。大丈夫? お皿を近くに準備しなさい。相変わらずそそっかしいわね、紗也加は」
母は言って、そうだわと楽しげに続ける。
「翔くんはどうかしら。紗也加みたいな鈍臭いの、タイプじゃないかしら」
「さぁー、どうだろうなぁ」
「ほ、ほら、お母さん。パン焼けたよ!」
わざとらしく首をひねる優一の顔を見ないようにしながら、紗也加は二人の会話を終わらせようと、母の前にトーストを置く。そしてジャムを手に、自分の定位置に腰掛けた。
「翔くんなら、昔から知ってるし、ご両親も知ってるし、お母さん安心だけどなぁ」
「し、知らないよ。あっ、もうこんな時間。ほら、お兄ちゃんも急がなきゃ」
紗也加は時計を示して言うと、ジャムを塗ったパンを頬張った。
食事を終えた紗也加は洗面台で化粧を始めた。その横に優一が来て声をかけ、歯ブラシを取り出す。
鏡の近くで自分の顔に向き合う紗也加の後ろで、優一の動かす歯ブラシの音が聞こえた。
紗也加は化粧ポーチから口紅を取り出す。
「……今はこれに入ってんの?」
言われてはっと我に返った。いたずらっぽい顔をした優一の指には、化粧ポーチのチャックについたマカロン形のストラップがつままれている。数年前、「かわいい手作りコインケース」と流行ったときに友人と作ったものだ。
紗也加は顔が赤くなるのを感じた。
「な、な、何のこと!」
言って化粧ポーチを奪い返し、口紅をしまってチャックを閉める。そのとき、さりげなさを装って、手作りマカロンを手の内に隠した。
「ふぅん」と紗也加を見る優一の目は、意味ありげな視線のままだ。
「ま、いいけどさ。そういや、健次に合コン頼まれたんだって?」
「ぅ、え、ぁ、ぅん」
紗也加が目を泳がせた後頷くと、優一は笑った。
あまりつっこまれたい話題ではない。早々に立ち去ろうと洗面所から離れかけた紗也加の背を、優一の声が追って来た。
「二次会の幹事、大学時代の友達メインでお願いしてるんだけど、翔も一緒に頼もうと思っててさ」
紗也加は歩調を緩め、半身だけ振り向く。
「でも、一人だけ紛れてるのも悪いかなーって。お前、一緒に参加してくんない?」
「……い、妹が?」
「んー」
優一は首を傾げ、洗面所に顔を近づけた。唾を吐き出して口と歯ブラシを濯ぐ合間に、手元に視線を落としたまま続ける。
「八重の方も、高校時代の友達二人くらいお願いしてるんだよねー。仲良くなっちゃったりして」
「知らないよ、そんなの」
紗也加は顔を背けた。
振り向かないまま、思い直して付け足す。
「……しょーくんが私にいてほしいっていうなら、協力してあげないこともない」
振り向かずに歩き出す紗也加の後ろで、優一の噴き出す音がした。
「あ、そぉ。翔がそう言ったらね。おっけ、聞いてみるわ」
笑う合間に優一は言った。紗也加は赤くなった顔を隠すように、鞄を取りに自分の部屋へと向かった。
部屋に戻り、ベッドに腰掛けると、ため息をついて手の中に隠したマカロンキーホルダーを開けた。
中に入っているのは、一つの学生ボタン。
コロンと手に出てきたそれは、表面の塗装がくすみ、端の塗装は剥げかけて、経年を感じさせた。
指につまみ上げて目線にかざす。
(我ながら……女々しい)
女々しい、で済めばいいかもしれない。正直、「キモチワルイ」と言われても仕方ないとすら自覚している。
ボタンの元の所有者は、蓮田翔。
兄の同級生であり、部活仲間であり、親友だ。
そして、紗也加の想い人でもある。
高校生の頃からーーずっと。
* * *
『女が追いかけてくんの、面倒くさい』
卒業式の前日。そう言った彼に、優一が笑った。
『じゃ、先に取っちゃえば。第二ボタン』
二人は狛江家の前で話していた。高1だった紗也加は、帰宅したときその場面に遭遇したのだ。
紗也加の家は高層マンションの一室にある。オートロックの玄関の前で二人が話し込んでいるのはよく見かける光景だった。
それももう、卒業したら見られないのだろうーーそう感じた切なさを振り切るように、紗也加は無言で横を通りすぎようとしていた。
優一の発案に、翔は切れ長の目をまたたかせて笑った。
『いいかも、それ』
紗也加は思わず、足を止める。
呆れて眉を寄せると、口を挟んだ。
『やめなよー。ボタン取れてるなんてみっともないじゃん。写真にもそれで写るんだよ?』
『どうせ俺ら後ろの方だし、目立たねぇよ』
紗也加と優一が言い合うう内に、翔は迷わず、第二ボタンを引きちぎった。
ブヂッ、と鈍い音がしたかと思えば、紗也加の前に大きな握り拳が差し出される。
『はい』
『はっ?』
『俺が持ってたら追っかけの餌食になるだけだろ。預かってて』
翔は涼しげな目を細めた。
女子に羨ましがられるほどきめ細かい白い肌。けだるげに開いた制服の胸元。しかしおしゃれは好きな彼らしく、軽く立てた短めの髪。
ーー預かってて。
『仕方ないなぁ』
言いながら受けとった顔は、必死で無表情を装ったが、その分耳が熱くなった。
できるだけ唇を尖らせて、不承不承というていを繕った。それでも目を上げて二人を見ることはできず、ふんと鼻で息を吐き背中を向けた。
『じゃあね。私、宿題あるから』
さも、「つき合ってられない」とばかりの口調で言いながらその場を立ち去り、二人の視線から逃れる。
見えないところまで来ると、ボタンをにぎりしめた手を胸元に添えた。
心臓は、喉から心臓が出るのではと心配になるほど、強く、激しく、胸を内側から叩いている。
顔が真っ赤になっている自覚があった。
(お兄ちゃんが帰ってくる前に家に帰らなきゃ)
エレベーターを呼びながら思うが、真っ赤な顔で帰れば母に驚かれるだろう。紗也加は頬を両手で冷やそうとしたが、無駄な努力だと察してため息をついたのだった。
* * *
ーーそんな日も、既に10年以上前のことになっている。
そう気づいて額を押さえた。
(……いろんな意味で……イタい……)
ため息をつきながら、マカロンキーホルダーにボタンをしまう。
以前、婚約した友人がこんなことを言っていた。
『婚約指輪って、なんかすごい、お守りみたいなんだよね。私には彼がいてくれるって、落ち着くの』
えらい乙女なのろけだなと、そのときは笑ったものだった。だが、冷静に考えてみれば紗也加こそ、どこに気持ちがあるのか知れない男のボタン一つをお守りにしているのだ。
それも、十数年来もの間。
またため息がこみ上げる。
そのとき、アラームがそろそろ家を出る時間だと知らせた。
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