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.第12章 親と子

337 久々のお泊まり(4)

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 お風呂から上がると、前に買っておいてくれた部屋着に着替えた。彩度の低いピンク色のスウェットを身につけて髪をざっと乾かし、脱衣所を出る。
 栄太兄がそれを見て苦笑した。

「髪、まだ生乾きやん。ちゃんと乾かせよ。また風邪引くで」
「大丈夫だよ……そんなに長くないし、すぐ乾くもん」
「またそんなん言うて」

 意外とズボラやな、と笑って、栄太兄がドライヤーを手に取る。手招きされて、前に座るように言われた。大人しく従うと、あぐらをかいた栄太兄が私の髪に触れた。
 栄太兄がドライヤーのスイッチを入れると、温風と栄太兄の指が髪を撫でた。それが心地よくて、思わず目を閉じる。耳にはただ、ドライヤーの音が響いていた。栄太兄の指が頭皮に触れるたび、なんとなくそわそわする。安心するのに、ドキドキする。けど、胸はふわふわして、あたたかい。
 ――いつまでもこの時間が続けばいいのに。
 けど、そう思う間にも、髪は乾き切ったらしい。ふっ、とドライヤーの音が消えて、ちょっと残念に思いながら目を開く。耳にはドライヤーの音の名残が響いていた。

「ありがと――」

 言って振り向こうとしたけれど、栄太兄の手が私の髪を掬いあげたのに気づいて動きを止めた。

「……礼奈」

 ゆっくりと私の髪を指で梳きながら、栄太兄が囁く。
 その声は静かで、でも艶めいて聞こえて、思わずどきりとした。

「な……なに?」

 心臓のリズムが少し、速くなる。かすれた声で問えば、栄太兄は「いや」と微笑んで、私の髪から手を離した。
 私は栄太兄の方を向く。

「知っとるか? お前が産まれたときな。政人と彩乃さんは、礼、って名前にしようとしてたんや」
「……う、うん?」

 そんなこと、聞いたような気が、しなくもない。
 けど、今から栄太兄が何を話そうとしているのか、よく分からなくて戸惑った。
 見上げたその顔は、ひどく穏やかで、懐かしそうな目をしている。
 そして同時に切ない気配を見て取って、どことなく、不安がよぎった。
 向き合った私の頭を撫でた手が、頬の横で止まる。

「でも……礼って聞くと、零を想像するから嫌やって俺が言った。そんで、奈、がついた。――礼奈。橘礼奈」

 言って、ふ、と栄太兄が笑う。私はじっと、栄太兄の言葉の続きを待つ。

「――名付け親が夫になるなんて、普通思わへんな。……まるで最初から俺のものにしようと思うてたみたいや」

 まるで独白のようなその台詞に、私は思わず、頬を染めた。

「……そんなこと、誰も思わないよ」
「そうやろか」

 栄太兄は静かに笑った。
 そして不意に、その目が揺れる。

「――ほんとにええんか? 礼奈」
「え?」
「お前はまだ知らへんだけで……世の中にはもっと、いい男がいっぱいおるで」

 冗談めかして、栄太兄は言う。
 けどその声はどこか寂しそうで、一瞬言葉を失った私は、下唇を噛み締めた。

 ――どうして、そんなこと、言うの。

 苛立ちに任せて、手を伸ばす。

 こんなにも、私は。
 ――栄太兄が、欲しいのに――

 もやっとして、力任せに栄太兄の襟首を掴んで引き寄せると、唇を重ねた。
 離れるや、栄太兄がうろたえる。

「……何やねん、急に」
「うるさい」

 答えた声は震えた。じわり、と目が潤んだ。

「……そんなこと、言うのは、ひどい」

 栄太兄の服を掴んだ手が震えた。涙が出そうになって、顔を見上げられずにうつむく。
 栄太兄が一瞬後、息を吐き出して「すまん」と謝った。
 ふわりと抱きしめられて、ぬくもりに包まれる。
 大好きな匂い。
 また涙が込み上げた。

「……礼奈の気持ち、信じてへん訳やないで。幸せに……できへんと思うてる訳でもない」

 栄太兄は、ゆっくり、ゆっくり、私の頭を撫でる。

「でも……俺より魅力的な男が、これからお前の前に現れるやろうと思う。年齢とか、いろいろ、もっと近い感覚でお前と寄り添える男もおるやろうと思う。せやから……ときどき、思うことがあるねん。お前が……可愛くて、たまらんとき……こんなええ子、本当に俺が縛り付けてええんやろか、て――」

 広い胸に抱き締められたまま、めいっぱいに息を吸う。栄太兄の匂いが胸いっぱいに満ちていった。いつでも私を守ってくれた人。意地悪を言って泣かせては、「悪かった」と抱きしめてくれた人。
 いつも強がってばかりで、素直になれない私が、それでも肩の力を抜けたのは、いつもこの声を聞いたときだった。匂いに満たされたときだった。
 ――失うなんて、考えられない。
 涙が頬を流れ落ち、鼻水が出てきそうになって鼻をすする。それでもやっぱり出てきそうになるから、開き直って栄太兄に抱き着いて、その胸に涙をすりつけた。
 大好きな温もりと大好きな匂いが、私の顔を覆う。愛しさと切なさが込み上げて、力いっぱい抱き着いたまま本格的に泣き始めた。
 困惑した栄太兄が、私の頭を、背中を、撫でては優しく叩く。

「――嫌だ」

 しばらく泣きじゃくってから、私は言う。

「私をぎゅってしてくれるのは、栄太兄だけでいい」

 言ってまた、涙が込み上げた。
 好きだとか愛してるとか、そんな言葉、今はどうでもよかった。私のこの気持ちは、もっとシンプルで、幼稚で、原始的だ。
 ただこの腕の中にいたい。この腕を独占していたい――
 これを失ったら、きっと私は私ではいられない。
 だって、気づいたときには、栄太兄は私の側にいたんだから。
 産まれたときから、栄太兄は私に話しかけ、笑いかけ、抱き上げて、抱きしめて、頭を撫でてくれていたんだから。
 それを失うなんて――考えたくもない。

「……礼奈」

 えぐえぐとみっともなく泣く私に、栄太兄は優しい声をかけた。
 私は涙でぐちゃぐちゃ顔で、栄太兄を見上げる。
 栄太兄は困ったような笑顔を浮かべて見下ろしてきた。
 顔が近づき、自然と唇が重なる。
 涙の味のキスに、栄太兄は困ったように笑った。

「……しょっぱいな」
「……ふふふ」

 その顔が愛おしくてたまらなくて、思わず笑う。
 その胸にまた、涙に濡れた顔をすり寄せた。

「Tシャツ、ぐしょぐしょにしちゃおう」
「何やそれ、勘弁してぇや」

 そんなやりとりをしながら、2人で笑った。
 笑いながら、私は思う。

 誰が何と言おうと、私はこの人といる。
 この人と、一生を共に、歩いて行く。
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