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.第12章 親と子

326 親族会議(3)

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 家に着くと、栄太兄は祖母が靴を脱ぐのを手伝った。祖母がひと眠りすると言うので、そのまま寝室へと連れて行く。私はその様子を、廊下から見守っていた。
 栄太兄は寝室から出てくると、私の背中を軽くたたいた。

「おおきに。――礼奈がいてくれてよかったわ」

 小さな声で言われて、私はどうしてと問うつもりでその顔を見上げる。

「礼奈がおったから、ばあちゃんもちょっと安心したろ。――みんな頭がキレすぎて、ばあちゃん話について行けへんようなってたし」
「そう……なのかな」

 思いつきで連れ出したのは、迷惑だったかと思っていたけれど、それならよかった。栄太兄は私の頭をぽんぽんと叩き、居間に続くドアを見やる。

「今後の話も大事やし、みんな集まれる機会なんて早々ないからな。決めることも確認することも、あれこれあるのは分かる。――けど、人の気持ちはそうそう簡単に割り切ることなんてできへんやろ。ついていけへんばあちゃんに、黙って寄り添ってやる人も必要やった。――俺もそれを忘れてたわ」

 栄太兄は困ったように微笑んだ。
 私はその顔を見上げて、うつむく。

 少しは、役に立てたんだろうか。
 ――何もできない無力さを、感じてばかりだったのに。
 来年は、おじいちゃんと花見に行こう。
 ――そんな優しい嘘すら、口にできなかったのに。
 
「……少しは役にたてたなら……よかった」

 身体の前で自分の手を握り、呟くようにそう言う。
 栄太兄が不思議そうに私を見下ろした。

「……礼奈? 大丈夫か?」

 栄太兄が、そっと私の頬に手を伸ばす。
 大丈夫。
 そう言おうとしたのに、顔を上げて栄太兄と目が合うや、何も言えなくなった。
 開いた口を、震わせながら閉じる。
 唇をぎゅっと引き結んで、またうつむいた。
 衰えた祖父の手、それぞれにできることを話す父や兄、祖母のやつれた横顔、栄太兄の優しい嘘――
 そのどれもが、私に自分の無力さを感じさせるもので。
 その場に立ちすくんだまま、顔を覆ってため息をつく。

「……礼奈?」
「……うん……」

 コンコン、と居間からノックの音がして、居間から廊下に繋がるドアが開いた。

「……お話中かな? あたたかいお茶淹れたから、よければ飲んで。外、冷えたでしょ」

 気遣わしげに顔を出したのは朝子ちゃんだった。栄太兄が「おおきに、朝子。今行くで」と微笑む。
 朝子ちゃんは私と栄太兄を見比べて笑顔を残すと、さっとドアの内側に引っ込んだ。
 できるだけ音を立てないように閉じられたそのドアを、私はぼんやりと見つめていた。病院から到着したときにも、朝子ちゃんはささっと動いて、お茶を淹れ、椅子を譲ってくれたのだった。その動きはすごく自然で、まるでこの家に住んでいるみたいだった。
 それもそうだろう。祖父が倒れてから、栄太兄に次いで何度も鎌倉を訪れていたのは朝子ちゃんだったそうだから。
 栄太兄と朝子ちゃんがかち合うこともあっただろうし、それぞれ分担して祖母を支えてもいただろう。
 朝子ちゃんの方が、よほど――
 ぐらり、と足元が揺れたような錯覚に、思わず栄太兄の腕に手を伸ばした。栄太兄が驚いたように私の腕を取る。

「礼奈?」

 戸惑ったような栄太兄の声に、私は何かを答えようと思ったのに、声が出ない。胸の内側で、喉の奥で、何かが詰まってしまった。震える手で、栄太兄の腕にしがみつく。呼吸が、できない。おかしい。息が。苦しい。喉に――何かが――

「礼奈」

 私の様子がおかしいのを察して、栄太兄が私の背中に手を回す。ぐらぐら、足元が揺れている。大丈夫、栄太兄。大丈夫。私は、大丈夫だから――そう言いたいのに、口から洩れるのはヒューヒューとかすれた音ばかりだ。それなのに、吸えない。酸素が、息が、おかしい、おかしいな、どうやって、息って、呼吸って、わたし、いままで、

「礼奈! 鼻から息吸え! 口から吸うな!」

 知らない間に、私の身体は崩れ落ちて、栄太兄に支えられていた。ガタンとドアが開いて、「どうしたの!?」と朝子ちゃんの声がする。目の前が、だんだんと、色を失っていく。

「過呼吸や。礼奈、聞こえるか!?」

 栄太兄の声がした。えいたにい、と言おうとしたのに、声が出ない。「口閉じろ、鼻で呼吸させろ!」父の声がして、大きな手に口を覆われる。くるしいよ、くるしい、くち、開けたいのに。手、はなして、
「礼奈、大丈夫やで」背中を大きな手がさすっている。「健人、2階でベッドの準備してくれ」「了解」珍しく上擦った父と兄の声がする。「礼奈、大丈夫か? 聞こえるか?」栄太兄の声。
 聞こえるよ。聞こえる。こくこく、頷く。でも、息が、苦しい。身体中が心臓になったみたいにざらついている。くるしい。かこきゅう、そうか、過呼吸ってこんなに苦しいのか。知らなかった、部活の仲間で、なってる子を見たことあるけど、こんな風に、
 「栄太兄、上連れて来れる? 俺抱えようか」「いや、大丈夫や。俺が連れてく」健人兄と栄太兄の声がして、口を塞いでいた手が離れる。ぷはっと息をついたら、私の両手をぐいと口の前に持って行かれた。

「礼奈、口で息するなよ、鼻で呼吸しとけ。行くぞ」

 よく分からないまま、こくこく頷く。膝の下に手が入り込んだと思ったら、ふわっと、身体が浮いた。浮遊感に、身体がこわばる。「大丈夫や、礼奈。力抜いて」栄太兄の声がして、私は口を手で押さえながら、またこくこく頷く。真っ白だった視界が、少しだけ、ざらついた色味を取り戻す。他のものは何も見えないのに、栄太兄の顔だけがはっきり見えた。切羽詰まった表情。大好きな人の顔。目が合ったのが分かったのか、栄太兄が微笑む。

「二階行って休むで。俺が抱えて行くからな。安心しろよ」

 その声だけははっきり聞こえて、私もこくこくと頷く。栄太兄は、私を抱えて、階段を一段一段昇っていく。「礼奈、大丈夫なの?」と母の声がした。「大丈夫だろ、栄太郎の声は聞こえてた」と父の声。
 「過呼吸って何か落ち着く方法あったっけ。水とか持って行く?」健人兄が言うのが聞こえた。「あいつ、予定詰め込みすぎだよ。バイトとインターンで息つく暇なかったんじゃないの?」と揶揄するような声は、たぶん私のことを想って言ってくれている。
 兄の言う通り、春休みはめいっぱい就活とバイトの予定を入れた。母に文句を言われたくなかった。文句を言われないように、がんばらなくちゃと思っていた。
 がんばらなくちゃって。
 だって、私だけだから。
 まだ、子どもなのは、私だけだから。

「礼奈」

 階段を登り切った栄太兄が、少し息を乱しているのが分かった。
 ごめんね、栄太兄。重いよね。ごめん。
 ふわりと、頬に何かが触れて、それが栄太兄の髪だと分かる。抱えたまま頬を摺り寄せるように、栄太兄は耳元で囁いた。

「――ほんまいつも、がんばりすぎやで」

 その声が、優しくて、切なくて。
 私は本当に、大切に想われているんだと、実感した。
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