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.第12章 親と子

320 お見舞い(1)

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 祖父は翌日に目を開いたそうだけれど、まだどこかぼんやりしていて、ほとんどを眠って過ごしているそうだ。
 退院するまでに、一週間はかかるだろうという見込みだった。それまで毎日祖父の病室へ通う祖母は、日を経るごとに疲労するだろう。そう心配した栄太兄は、ときどき鎌倉から出勤するようになった。
 職住の近い香子さんや朝子ちゃんも、日代わりで休みを取って、祖母の付き添いをすることになったらしい。
 週末、健人兄が鎌倉に行くというので、私は「みんなによろしく」と声をかけた。
 集まれる人は鎌倉に集まり、今後のことについて話し合いするということだ。健人兄は「うん」と頷いて、暗い表情の私の頭を叩いた。

「礼奈もがんばって来いよ。お前が今できることは、自分のすべきことをこなすことだ」
「……うん」
「そんな顔じゃインターン先も困るだろ。ほらほら、スマーイル」

 健人兄は私の頬を引っ張って、無理やり笑わせようとした。私はそれを手でやんわり解くと、「分かってるよ」と苦笑する。
 最後のインターン先はイベント系の会社だった。土日も関係ない。あえてそういう場所を選んでみたのだけれど、正直ハズレだったと思っている。年度末イベントの人手を得るためにインターン生を使おう、という魂胆らしく、面倒見もよくない。健人兄が言っていたブラックな会社、といえなくもなかった。
 けれど、それも十日間足らずの間の社会勉強だ。たまたま祖父のことが重なったのは予想外だったけれど、こういう仕事もあるしこういう会社もある――そう知るにはいい機会だった。

「……行ってらっしゃい」
「礼奈もな」
「うん。行って来ます」

 私は出て行きかけて、後ろ髪を引かれる気分で振り向いた。健人兄は手を挙げると、言葉を口ににできないまま立ちすくむ私に、「帰って来たら教えてやるよ、何話したか」と微笑んで、私の背をぽんと押し出してくれた。
 ――今の私が、やるべきことをする――
 駅に向かって歩きながら、自分のパンプスがたてる硬い音を聞いていた。
 コツ、コツ、コツ、コツ。胸に広がる複雑な感情を、どうにか腹の下に押し込んでいく。
 ――社会人になったら。
 と、不意に思った。
 社会人になったら、こういう日が増えるんだろうか。大切なものを大切にできない職場もあるんだろう。前に、栄太兄がそういう働き方をしていたように。
 でも、それは本当に、私の幸せなんだろうか。
 思わず、足が止まった。駅はもう目の前に見えている。
 立ち止まったまま、後ろを振り向く。健人兄はあと三十分ほどしたら鎌倉へ向かうと言っていた。震える手で、スマホを持ち上げる。
 コール音が耳元で鳴る間、私の身体は震えていた。唇を噛み締めて、じっと息をひそめる。
 もしもし、と声がして、どきんと心臓が跳ねた。
 緊張で速まる鼓動を手で抑えつけるようにしながら、私は息を吸う。

「――すみません。今日、体調が悪くて――」

 ***

 家に戻って来た私に、健人兄は目を丸くした。何も言わずに後ろ頭を掻き、ため息をついた。

「……母さん、怒るよ」
「……お兄ちゃんが口裏合わせてくれれば、バレない」

 まっすぐ兄を見上げて言い返しながらも、心臓は速いリズムを刻んでいた。本当は、嘘なんてつきたくない。こんなの、私らしくない。
 けど、それでも、大事な人の大事な話から外されるのは嫌だった。今日のインターンが、それより大事だとは思えなかった。
 悔しさを押しとどめて、祖父のことを気にかけながら、知らない誰かに愛想笑いを振りまく生き方に、自分の幸せがあるとは思えない。
 同じ会社のインターン生が、そんなに真面目でなかったことも、社員たちからの扱いがバイトとさして変わらなかったことも、決断を後押ししていた。
 健人兄は私を見下ろすと、またため息をついた。
 かと思えば、ふっと口の端を引き上げる。

「――仕方ねぇなぁ。特別だぞ」

 私がこくりと頷くと、健人兄は腕組みをして首を傾げる。

「さて――どう言い訳しようか。急にイベントが中止になった?」
「……それは無理がある」
「じゃあ、礼奈の事情を聞いた社員さんが、休んでもいいよって言ってくれた」

 健人兄は、明らかにろくに考えず口にしている。
 私はまた笑って首を横に振った。

「イベントで予定してた催しが一つキャンセルになって、人手が余った」
「ふーん。……ま、いいか。それで行こう」

 健人兄はいたずらっぽい目で笑うと、「それなら、スーツは着替えろよ。出勤しようとしてたのバレバレじゃん」と私を家へ入れてくれた。
 嘘も方便。そう、聞いたことはあったけど、こういうことなのか。
 初めて理解できた気がする。
 これが大人になるってことなのかな、なんて思いながら、手早く着替えを済ませた。
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