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.第10章 インターン

259 社内恋愛(4)

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 ランチを食べ終え、食後の飲み物も飲み終えると、矢司部さんが「そろそろ行こうか」と席を立った。さっと伝票を手にして、3人分の会計を済ませようとするので、私も慌てて財布を出す。

「あ、あの、自分で――」
「いいから、いいから」

 矢司部さんは笑った。

「午前中、不真面目な仕事につき合わせたからお礼」
「不真面目な仕事?」

 首を傾げる千草さんに、私は「いえ、私はただ」と説明しようとしたけれど、矢司部さんの長い指がすっと差しのべられて、いたずらっぽい笑顔で「だめだよ、千草ちゃんには内緒」と囁かれた。

「きっと怒られちゃうもん」
「またまた。そうやって共犯者にしようって魂胆ですね」

 千草さんもくすくす笑う。私は曖昧な笑顔で「ごちそうさまです」と頭を下げた。
 矢司部さんはうんと頷き、会計を済ませると社ビルへと歩きだした。

「橘さん、素直な上に機転もきくし、いいね。うちに就職しなよ」
「それで、矢司部さんのサポート役させるんですか?」
「欲しいねーそれ。橘さんに仕事させて、俺はのんびり」
「それはそれで、違う仕事が降って来るだけですよ」

 二人の会話を聞きながら、一歩後ろを歩いて行く。
 千草さんがハワイではどこに行ったのか問うと、矢司部さんが旅行での出来事を話す。そこには、妻の長時間の買い物につき合わされてうんざりしたとか、同じホテルに泊まった中に日本人の女性客がいて、ちょっと手助けしただけでヤキモチを妬かれたとか、そんな話も混ざっていた。
 矢司部さんも千草さんも、普通のテンションで話しているだけなのだけれど、聞いている私の方が落ち着かない。
 矢司部さんは、千草さんの気持ちに、気づいていないんだろうか。
 そう、とも見えるし、そうでもない、ようにも見えた。
 その辺が駆け引きってやつなのか。絶妙で、言質を取られないような振る舞い。ギリギリの恋愛ゲームを楽しんでいるようにしか思えなくて、距離を置きたい気持ちが歩調に出てしまった。歩みがゆっくりになった私に、気づいたのは矢司部さんだ。立ち止まって「橘さん? どうかした?」と振り向く。

「いえ、すみません。ちょっとぼうっとしてました」

 慌てて笑って、足を前に進めたけれど、私は気づいてしまった。
 矢司部さんの隣に立つ千草さんが、私の方を冷めた目で見ていることに。
 ――彼との時間を横取りしないで。
 そう言われているみたいに感じて、背中に悪寒に似た感覚が走った。
 庶務課のフロアは人財課の一階下だ。私と矢司部さんがエレベーターを降りたら、千草さんも「私もちょっと運動」と一緒に降りた。
 いたたまれなくなって「お手洗いに寄って行きます」と声をかけると、千草さんと矢司部さんが「行ってらっしゃい」と軽く手を振る。私はほっとしながらお手洗いに入った。
 用を済ませて、軽く歯磨きをした後にトイレを出たら、矢司部さんと千草さんはまだ立ち話をしていた。トイレは通路から少し奥まったところにあるから、思わずそのまま身を隠す。
 笑っている二人の姿は、やっぱりお似合いだった。誰もそれを注視することなく行き来している。矢司部さんが何かを差し出して、千草さんが驚きながら受け取った。簡単な包装の施されたそれは、たぶんお土産。それも、ハンドクリームか何か――コスメの類いだろう、と見当がついた。
 職場の仲間に配っていたのはお菓子の類だったけど、それは愚痴を聞いてもらったお礼、アドバイスのお礼、ということだろう――それにしては、女性の心に配慮しすぎているようにも思える。
 私は思わず、ため息をついた。
 栄太兄、こんな中で仕事してたの?
 心の中でそう問いかける。
 けど、そんな話は全然、聞いたことがなかった。仕事が大変だ、っていう話は聞いたけど、人間関係のごたごたとか――恋愛関係なんてなおさら、聞いたことはなかった。
 栄太兄の容姿なら、たぶん寄って来た女性はいただろう。あれだけ気さくに話せる人だし、後輩の面倒見もよかったみたいだし、それなりによく気づくし。千草さんみたいに、憧れた人もいただろう。
 栄太兄も、矢司部さんのように振る舞っていたんだろうか。自分に憧れている女性を振り回すような、変に期待させるような振る舞いをしたんだろうか。そうだったら嫌だな、と思う。
 けど、そもそも、千草さんたちの本当の関係なんて分からない。すべて私の思い込みかもしれない。千草さんの話を聞いたから勘ぐっているだけかもしれないし、もしそうだとしても、矢司部さんは気づいていないのかもしれない。そもそも、千草さんが話していた憧れの先輩、は矢司部さんじゃないかもしれない。
 全部私の推測に過ぎないのだから、それでこうやって気を揉んでいるのはくだらないといえばくだらないことなのだ。大体、仕事には関係ない。――そうだ、仕事には関係ない。
 私はひとり頷いて、通路に足を踏み出す。
 その瞬間、近くに人の気配を感じて、驚いて顔を上げた。
 そこには、目を細めて私を見下ろす矢司部さんが立っている。

「橘さん、遅いから大丈夫かなと思って。具合悪い?」

 その目は優しく細められていたけど、何となく、狡猾な色を宿して見えた。私はどうにか笑顔を取り繕って、「大丈夫です」と明るい声で答える。
 大丈夫。大丈夫――だって、仕事に恋愛感情は関係ない。
 そう思っていたのに、矢司部さんはくすくす笑うと、私の頭をぽんぽんと叩いた。

「橘さんって、可愛いね。流されるタイプかと思えばちゃんと自分を持ってるし。――いいね、そういう子。俺、好きだよ」

 さらっと、あくまでさらっと、矢司部さんはそんなことを言う。私はぎくりとして、思わず千草さんの姿を探してしまった。――けれど幸い、もう千草さんは人財課のフロアへと階段を登って行った後らしい。
 私は思わず、ほ、と息を吐き出した。矢司部さんはくすりと笑って、「千草ちゃんのこと怖いの?」とあくまで優しい笑顔を見せる。私は慌てて「違います!」と答えた。
 午前中までの私だったら、たぶん「千草さんみたいな人は憧れです」と続けただろう。けど、今はそう口にすることはできそうになかった。
 母に似てる、と思った第一印象も、今はもう、なんだかズレているような気がして、とにかくぐだぐだ考えるのはやめて、仕事に集中しよう、とオフィスへ足を向けた。
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