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.第9章 穏やかな日々

229 懇親会(2)

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 少しすると、お手洗いに行こうと席を立った。掘りごたつから立ち上がったところで、一瞬足元がふらつく。それを見た芦田さんが手を差し伸べてくれたけれど、丁重にお断りして自力で歩いた。
 知らない内に、飲み過ぎたらしい。教授につき合って日本酒を飲んでいたのがよくなかったのかも。
 誕生日を過ぎてから、たまに家族と晩酌する日もあるけれど、こんなにゆっくり飲むことはあんまりない。それに、家にあるのは洋酒が中心だから、日本酒なんてめったに飲む機会がなくて調子に乗ってしまった。
 今日はもうお酒はやめておこう。そう決めて用をたし、個室から出ようとしたところで、不意に声が聞こえた。

「――だよね」
「え、やっぱりあなたもそう思った?」
「だって、珍しいもん。――芦田さんが女の子に話しかけるなんて」

 その言葉にぎくりとして、ドアを開けようとしていた手を止めた。
 声はたぶん、先輩の女子のものだ。三人いるみたいだった。
 一人が「はぁー」と悩まし気にため息をつく。

「眼鏡の貴公子がとうとう誰かのものになっちゃうなんて……」
「まあまあ、そうと決まったわけじゃないんだから」
「でもさぁ」

 潜めて話していた声が、少し賑やかになる。今なら大丈夫かなと算段をつけ、思い切ってトイレの個室を出た。
 何も聞いてなかったふりで、「お疲れさまです」と笑顔で声をかける。――けれど、内心何か言われるのではとヒヤヒヤだ。
 けど、先輩たちは顔を見合わせただけで、厭味な態度を取ることはなかった。手を洗う私をじっと見つめていたかと思えば、するすると寄って来る。

「ね、ね、橘さん」
「え、あ、はい? 何ですか?」

 ドキドキしながら手を拭いている私に、先輩たちは声を潜めて訊ねる。

「芦田さんと、何話してたの?」
「なんであんなにすぐ名前覚えてもらったの?」
「前にも話したことあるの?」
「えっ、あ、あの……?」

 うろたえる私を、先輩たちは手を組んで見つめて来る。

「芦田さん、眼鏡フェチの女子に大人気なの。知らなかった?」

 し、知りません、けど。

「手も綺麗なんだよね、すっとしてて」

 あ、そ、そう、なんですか。

「声もだよー。ちょっと可愛い系なんだけどね、似てる声優いるの」

 へ、へぇ……。

 引きつりまくっている私の表情を気にもせず、先輩たちの芦田さん談義は盛り上がる。
 四年の先輩たちにとって、院生の芦田さんはちょっと年上の素敵な男の人、なんだろう。
 ――けど、兄二人を見慣れた私にとっては、そんなに大人、という印象もなくて。
 微妙な笑顔を浮かべていたら、先輩たちの何かのスイッチが入ったらしい。
 急に、がばっと抱きしめられた。

「――っていうか、橘さん超可愛いー!」
「お肌つやつやー」
「え、もしかしてノーファンデ!? 触っていい!? 触っていい!?」

 目を輝かされ、うろたえながら否定もできずに頷くと、「きゃー」と三人に取り囲まれる。
 いったい何が起こっているのか、よく分からないままもみくちゃにされてしまった。

 ***

 トイレから戻って少しすると、懇親会はお開きになった。みんながばらばらと帰って行く。
 私も三年の仲間と一緒に駅に向かって歩き出して、あれ、と気づいた。
 学生証とICカードが入ったカードケースがない。店に忘れたのかもしれない。
 「先、帰ってて!」と声をかけて、慌てて引き返した。

 ああ、もう。ICカード失くすの、これで何回目だろう。ホント、抜けてる自分が情けない。今度、リール付きのケースにしてちゃんと鞄につけておこう。そうすれば、失くすこともなくなるはず――
 そんなことを考えながら店に着き、入ろうとした横から、、ぐい、と腕を引っ張られてまばたきした。見上げると、そこには小谷さんがにやにやして立っている。

「何、礼奈ちゃん。もしかして飲み足りなくて戻って来た? 俺と一緒に二次会、行く?」

 何人かの人たちが、二次会に行こうと言っているのは聞こえていた。けど、もちろん私にその気はない。断ろうと息を吸ったとき、後ろで店のドアが開く音がした。

「――ああ、橘さん。よかった。これ、忘れてたよ。取りに来たんでしょ?」

 吸った息をそのままに振り向く。店から出てきたのは芦田さんだ。幹事をしていたからか、それとも気質か、最後に残って忘れ物を確認していたらしい。
 差し出されたケースを手に取って、ほ、と息をついた。

「――よかった。ありがとうございます」
「ううん。もう、帰る?」

 私がこくりと頷くと、「そう」と芦田さんが小谷さんたちを見た。

「君たちも飲み過ぎないようにね。じゃあ、橘さん、行こう」
「え、あ、はい」

 自然な振る舞いで促されて、私は慌てて頷くと、芦田さんについて歩き始めた。

「大丈夫だった? 今日、小谷くん」
「えっと、あの、はい。大丈夫です」

 答えながら、お酒で回転が鈍くなった私の頭は思い出している。トイレで女子の先輩たちが言っていたこと。――まるで、芦田さんが私を気に入った、みたいなこと。
 いや、それは困る。私が好きなのは栄太兄なんだから。栄太兄に、変な心配かけたくないし。――でも、芦田さんが本当にそうだと、決まったわけでもない。
 ひとりでそんなことを考えて、あっちこっち目を泳がせていたら、芦田さんがくすりと笑った。

「何か考え事?」
「えっ、あ、えーと」

 私は肩をすくめた。

「……私、そんなに分かり易いですかね」

 ほんと、自分が情けない。ため息混じりに問うてみれば、芦田さんはくすくす笑った。

「うん、そうかも。――でも、ちょっと似てるんだ、僕の知人に」
「知人?」
「うん……知人、ていうか……一応、彼女、かな」

 照れ臭そうに、芦田さんが笑った。照れたようなその笑顔に、思わず私も顔がにやける。

「え、え、彼女さんですか。大学に?」
「いや、違うんだ。大学にはいない――今はもう」
「え?」
「就職したんだ、この四月から」

 芦田さんは微笑んで、前を向いた。

「僕の二つ上の人でね。博士まで取るって、がんばってたんだけど……いろいろあって諦めて、この春就職したんだ」
「……そうなんですか」

 この春、ってことは、バラバラになったばかりということだろうか。私は首を傾げる。

「他の人は、そのこと、知らないんですか?」
「うん。あえて、言う必要もないし――気恥ずかしかったから」

 芦田さんは肩を竦める。けれど、とても幸せそうに言った。

「それに、まだつき合い始めてから日が浅いんだ。ずっと、僕の片想いで……彼女が就職するって決まって、ようやく年末に告白して、彼女が年明けに返事をくれて……それからだから」

 わー、わー。先輩の恋バナ、なんだか嬉しい。
 それに少し、今の私と重なる気がして、他人事に思えなかった。

「……ちょっと、寂しいですね。離れちゃうと」
「そうだね。だから、彼女も悩んだみたい。生活が変わったら、気持ちも変わるんじゃないか、って。僕は、会えなくても平気だって言ったんだけど――」

 言いかけて、芦田さんはぱっと顔を赤くした。私がじっと見上げていると、苦笑が降って来る。

「駄目だな。橘さん、聞き上手だからついつい話しちゃう。――この話はここまで。ほら、駅についたよ」
「え、芦田さんは?」
「僕は近くに独り暮らししてるから。――おやすみ、橘さん」
「はい……おやすみなさい」

 わざわざ、駅まで送ってくれたんだ。
 そう思いながら、ちょっとだけ、騒いでいた女子の先輩たちの気持ちが分かった。
 おやすみ、って言った声は、確かに、柔らかくて優しくて、耳障りのいい声だったから。
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