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.第9章 穏やかな日々

214 二十歳の誕生日(1)

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 翌朝。私は早めに起きて、出勤する母を見送った。

「礼奈、おはよ! 今日は早く帰って来るからね!! 美味しいケーキ買って帰るから!! 楽しみにしてて!!」

 相変わらずばたばたにぎやかに出て行く母に、「うん、気を付けて行ってらっしゃい」と手を振ると、母は頷いて出て行った。
 母を見送ると、家事を引き受けていたのだろう父はエプロン姿で私に微笑む。

「さて、お姫様。朝食はどうしますか?」

 柔らかく微笑む父に、思わず笑って抱き着いた。「何だ、どうした?」と困惑気味に抱き止められて、首を振る。

「ううん。私、幸せものだなーと思っただけ」
「まーたファザコンしてんの? 相変わらずだねぇ」

 声が聞こえて、二階から降りてきたのは健人兄だ。昨日、勤務だった悠人兄はまだ帰って来ていない。
 私は頬を膨らませた。

「別にいいじゃーん。お父さん好きだもん」
「ふぅん。栄太兄とどっちが上?」

 意地の悪い笑顔に唇を尖らせる。

「比べらんないよ」
「あ、そ」

 兄はちょっと毒気を抜かれたように肩をすくめた。

「そんだけあっさり惚気られるなら大したもんだわ。いずれは父さんと母さんみたいになりそう」
「どういう意味だ」

 父の半眼に「言葉通りの意味ですけど」と笑って、兄は伸びをする。

「さーて。で、礼奈、夕飯は何食べたいの?」
「夕飯?」
「そ。昼は父さんと出かけるんでしょ。ケーキは母さん担当。で、飯は俺担当。さて、何がいい? 我が家のお姫様」

 父の胸に抱き着いたまま、私は兄と父の顔を見比べる。

「……私、こんなにたくさん執事がいたんだね」
「知らなかったか?」

 父が冗談めかして笑う。私もつられて笑った。

「何にしようかなぁ。チーズフォンデュとか」
「お、なかなかいいじゃん。そうしようか」
「え、いいの?」

 確かに好きなものだけど、手のかかるものを、半ばいたずら心で口にしただけだ。兄が乗り気なのを見てちょっと驚く。

「いいよ。つっても家にあるものでやるから、SNS映えするようなのは期待しないでね」
「うわぁ。すごい」

 目を輝かせた私に、健人兄が笑いながら腕を組む。

「そうだなぁ。あとは煮魚とかするか。アクアパッツァなんてどう?」
「いいね。それならイタリアン寄りで」
「了解。つまみもいくつか考えとくよ。兄さんにバゲッドでも買って帰ってもらおっかな」

 ぶつぶつ言いながら、兄が顔を洗いに洗面所へ向かう。私と父はその後姿を見送って、顔を見合わせた。

「えらい張り切りようだな」
「そうだね。何でだろ」

 私が首を傾げると、父は笑いながら私をリビングへと促した。

「あいつもたまには礼奈を喜ばせたいんだろ。いっつも意地悪して怒られてばっかりだから」
「それなら素直に優しくしてくれればいいのに」
「それができないんだろうなぁ、悠人とは違って」

 父の言葉に、肩をすくめる。
 食卓で私の定位置の椅子を引いた父は、「さて」と改めて私を見下ろした。

「それで、朝食のリクエストは? パン? ご飯?」
「じゃあ……フレンチトーストは?」
「いいよ」

 「やった」と喜ぶと、父が私の頭をぽんぽんと叩いてキッチンへ向かう。
 父が作ってくれるフレンチトーストは、中がトロンとして、ほのかに甘くて、とにかく美味しいのだ。砂糖の代わりにはちみつを入れているらしくて、風邪を引いたとき、よくリクエストしたのが父のフレンチトーストだった。
 そう間を開けず、父はお盆を手に戻って来た。お皿と共に乗せられたコップには、ホットカフェオレが入っている。
 優しい甘い香りが、鼻腔をくすぐる。

「ありがとう」

 緩んだ頬のまま受け取った私に、父は微笑みを向けた。

「これ、昔から好きだったもんなぁ」
「うん。なんか、自分で作っても違うんだよね。分量?」
「いや、他人が作ったから美味しく感じるんじゃないか?」
「お父さんの愛情が隠し味とか」
「ははは。どうだろうな」

 ちょっとだけ照れたような父は珍しくて、私もご機嫌になりながら手を合わせる。
 フォークだけでとろりと切れるフレンチトーストを口に運び、舌鼓を打った。

「絶品……」
「栄太郎にも教えてやらないとな」

 父がアーモンド型の目を細める。その優しい目に、私はふと、栄太兄を思い出す。

「……不思議」
「何がだ?」
「栄太兄とお父さん、顔、あんまり似てないと思ってたけど、やっぱり似てる」

 はむ、とフレンチトーストを口に運びながら私が言うと、父が困ったように笑った。

「まあ、叔父と甥だからな」

 言うと、自分の椅子に座って何か言いたげに私を見ている。私は首を傾げた。

「何?」
「いや……その」

 父は困ったように頭を掻いて、苦笑する。

「だから、血は近いぞ」
「?」
「いや、その――、子どもが欲しいと思うなら」

 私は思わずまばたきして、次いで顔に血が上るのを感じた。

「あ――うん――そう、だね」
「まあ、そんなにリスクは高くないと思うけどな、念のため」
「うん、あの、えっと、分かった」

 父の顔を見上げられず、視線を手元に落としたまま頷いていると、父がふっと笑った。

「それにしても……本当に、傑作だったな」

 くつくつ笑う父は、たぶん、バレンタインデーのときの栄太兄を思い出しているのだろう。私は父を見やって、「そんなに笑わなくても」と眉を寄せた。
 だいたい、自分がそう仕向けたくせに。
 そう思っていることが伝わったのだろう、父は「いや、ごめん」と手を振る。

「あいつ、小さいときから、口先では俺のこと、ライバルだとか何だとか言いながら、いっつもえらい素直にアドバイス聞くから面白くてさ。あの歳までよくもまあ、こう素直に育ったもんだ」

 父の言葉に、私も肩をすくめる。
 素直だっていうのは、確かにそうだと思う。

「心配だよね。あんなで大丈夫なのかなって」
「なんだ、お前にも心配されてるのか? 困った奴だな」
「うん――でも、いいの」

 私はカフェオレを口に運びながら唇を引き締めた。

「私がちゃんと支えてあげるから大丈夫」
「――なるほど」

 父が冗談めかして肩をすくめる。何かと思えば、

「健人が言うのも分かったよ。空気を吸うように惚気るようになったな」

 そう言われて、私は思わずカップで口を隠した。
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