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.第9章 穏やかな日々

212 今までとこれから

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 夕飯を終えると、栄太兄は私たちを見回した。

「さて。じゃ、今日はもう帰り。後は俺ひとりでどうとでもなるから」
「え? でも、まだやることあるでしょ?」

 私がまばたきすると、栄太兄は目を細めて私の頭に手を置く。

「ええから。もうオオモノは終わっとるし、あとはぼちぼちやるわ。おおきにな、悠人、健人」
「うん。また何か必要だったら呼んで」

 あっさり頷く悠人兄に、健人兄も笑う。

「お礼は俺の引越しの手伝いで」
「ああ、そういやそうやったな。お前、どこに住むつもりなん? 勤めはS区やろ」
「そうそう。でもさー、めちゃくちゃ地価高くて。マジでびっくり」
「そりゃ、そうやろな。あんまり焦らんと、ぼちぼち探しや」
「うん、そうする」

 健人兄はそう言って肩をすくめた。

「せいぜい、栄太兄みたいに社畜にならないように気を付けるわ」
「お前の場合は社畜やなくて公僕やろ。霞が関なんかは不夜城やって聞くけど、区役所はどうなんやろな」
「まあ、どこもそんなに楽じゃないよ、仕事ってのは」
「ずいぶん、分かったような口利くなぁ」

 健人兄と栄太兄が、そう言い合って笑っている。その横でじっと二人を見守っていたら、栄太兄が私に視線を向けた。

「じゃあな、礼奈。またそのうちな」
「ざっくりしてんなぁ。いついつ会おうねーって言ってやんなよ」
「いや、まあそうできればええねんけど」

 相変わらず煮え切らない栄太兄に、私は思わず噴き出す。

「いいよ、無理しなくても。ちゃんと待てるから」
「あ、そうね。二年も待ったもんね。優しい彼と」
「健人兄!」

 何かにつけ茶化す健人兄を睨みつけると、栄太兄が苦笑した。

「ほんま、悪かったなと思うてるわ。あのときも、あのときなりにベストな答えやったつもりなんやけど……」
「別に責めたりしてないよ」

 私は慌てて首を横に振った。

「私も、よかったと思ってるもん。二年間、ゆっくり考えて……」
「他の男とキスもしてみて?」
「け、健人兄ってば!!」

 大慌てで腕を叩けば、健人兄はけらけら笑いながら数歩離れる。
 悠人兄が首を傾げて「あー」と頷いた。

「そういえば、そんなこと言ってたね。ファーストキスはもらいました、とか」
「ゆ、悠人兄までっ……!」

 ったくもう! どうして今さら……いや、そもそも慶次郎のせいだ! あんなこと、わざわざ、兄二人の前で言わなくたってよかったのに!!

 真っ赤になった私の顔と、兄二人の顔を順に見回して、栄太兄は苦笑する。

「まあ、いろいろ経験できたっちゅうことやな。とにかく、今日は暗くならへんうちに早う帰り。また、連絡するから」

 柔らかく頭を撫でられて見上げると、そこには優しい笑顔があった。

「おやすみ、礼奈」
「……お、おや……すみ」

 なんだか照れて、語尾が小さくなる。「きゃー、初々しー」と騒ぐ健人兄に、「うるさいっ!」と怒ると、悠人兄が苦笑していた。

「じゃあ、栄太兄。おやすみ」
「ああ、またな」
「じゃあねー」

 それぞれ挨拶を交わして、駅へと歩いて行く。少し歩いたところで振り向くと、私たちを見送っている栄太兄がいて、健人兄が大きく手を振り、私も軽く手を振った。栄太兄は微笑みながら手を振り返す。
 前へと向き直った健人兄が、「いやー、でもよかったよねぇ」と相変わらずの調子で話し始めた。

「仕事しながら転職先探すの、結構大変だったみたいよ。外からだけじゃ雰囲気分かんないし、かといってじっくり吟味するような時間的な余裕もないし」
「そうだろうね」

 悠人兄があいづちを打つ。

「聞いたときは意外だったよ。栄太兄が転職するなんて」
「あー、そうね。一年前には考えてもいなかったみたいだけど、まあ、これも縁だよねぇ」

 悠人兄の言葉に健人兄が話し始める。

「俺の壮行会の日さー、栄太兄、来なかったじゃん。あれ、倒れてたおばあさん助けてたらしいんだけどね、その娘さんが、転職先の部長さん? だとか、何とかって」
「え? あの日、そんな事情があったの? てっきり、仕事だとばっかり」

 知ってた? と悠人兄に問われて、私は首を振る。
 そんなの――それなら、そう言ってくれれば。
 思ったけど、そんなのは今さらだ。そういえば、私もその翌月、祖母から何となく聞いていたのだから。
 敬老会で、朝子ちゃんと栄太兄が何か話していたらしいーーと。
 本当に気になったなら、栄太兄に事情を訊いてもよかったのに、私はそうしなかった。

 壮行会のあの日、私は栄太兄を一度、諦めた。
 栄太兄は、私とは違う世界の人なんだ、って。遠くで生きていく人なんだ、って。
 でも、そうじゃなかった。やっぱり、栄太兄は栄太兄だった――
 じわ、と目に涙が浮かぶ。

「……健人」

 ちょいちょい、と悠人兄が健人兄をつつくのが見えた。「なに」と健人兄が振り向いて、私を見下ろした二人が顔を見合わせる。

「……俺、何か変なこと言ったっけ?」
「さー。あれじゃない? 生理前で情緒不安定とか」
「違うっ! 健人兄、ほんっと、最低!」

 めいっぱいの力で健人兄の背中を叩くと、ばしーん、と小気味いいほどの音がして悲鳴が上がった。

「痛いぞ礼奈!」
「変なこと言うからでしょ! ほんっとデリカシーない!」

 頬を膨らませた私が前に出ると、健人兄は肩をすくめる。

「どーせデリカシーないですよーっだ」
「そんな子どもみたいな言い合いしなくても」

 二人の声を背中に聞きながら、私は目じりに浮いた涙を指先で払った。
 もう、いい。過ぎたことを考えたって、どうしようもない。
 でも、よかった。栄太兄は私たちのことを蔑ろにしたわけじゃなかった。
 栄太兄は、やっぱり、ちゃんと寄り添ってくれる。
 私に。――私たちに。
 駅前の青信号が点滅を始めた。「早くしないと置いてくよ!」と振り向くと、兄二人が軽い足取りで走って来る。

「あ、食い過ぎて身体重い」
「そりゃそうでしょうよ、あんだけ食えば」

 悠人兄と健人兄が言い合うのが聞こえて、私は笑った。

 ――ほんと、しょうもない兄たちだ。
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