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.第7章 大学1年、後期

158 慶次郎

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 翌日、慶次郎に連絡をした。
 時間があれば、お茶にでも行かないか、と。
 慶次郎からは、五時頃までなら空いてると返事があった。
 私は昼過ぎまでバイトだったから、私はバイト上がり、慶次郎はバイト前の一時間ほど、お茶をすることにした。

 バイトを終えた私が駅前のファストフード店に向かうと、慶次郎はもう中で待っていた。
 飲み物だけ頼もうかと思ってレジ前に立てば、「俺も腹減ったから」と慶次郎がハンバーガーとポテトのセットを頼む。

「飲み物はまだ残ってるからお前にやる。ポテト一緒に食お」
「うん、ありがと」

 店員から品物の置かれたトレイを受け取ると、カウンター席に並んで座った。

「何時からバイトだったの?」
「十時」
「昼一時間で実働四時間か」
「そだね」

 ポテトを横からつまみながら頷くと、慶次郎がふっと笑った。

「んぇ、何?」
「いや」

 そう言ってもどこか笑ったままなので、私は唇を尖らせる。

「何よ」
「だって怒るだろ」
「怒るようなこと思ってんの?」
「怒んない?」
「聞いてみないと分かんない」

 くだらない言い合いをしたら、慶次郎はくすりと笑った。

「リスみたいだよな。もしくはハムスター」
「は?」
「お前、ポテト食べてるとき無心だから面白い」

 そう笑う慶次郎に、顔が熱を持つのが分かる。気恥ずかしさをごまかすように、むくれてまたポテトを口に運んだ。
 慶次郎は笑いながらハンバーガーの包み紙を広げてかじった。

「んで、どうだったの? 楽しかった?」

 何となしに聞かれて、私は一瞬言葉に迷う。
 慶次郎の横顔を見ながら口を開いた。

「……栄太兄には、会えなかったの」

 ぽつりと言って、目を逸らす。
 それ以上、何を言うべきなのか、分からなくなった。
 言わなきゃいけないことは、他にあるような気がするのに。
 慶次郎は私の横顔を見て、またハンバーガーにかじりついた。

「……そっか。残念だったな」

 それは素直に、言葉通りの想いがこもった声だった。
 慶次郎は、僻むでも喜ぶでもなく、私の気持ちに共感しようとしてくれている。
 不意に、息苦しさを感じた。

「……慶次郎」
「あ?」

 ハンバーガーをかじりながら、慶次郎が私を見る。
 私は覚悟を決めて、その目を見つめた。

「今まで、ごめん。これから……ちゃんと、慶次郎に向き合うから」

 慶次郎はぽかんと口を開けたまま、一瞬私の言葉を理解しかねたようだったけれど、その後、どこか気まずそうに、ハンバーガーをひとかじりした。

「んー、まあ、無理すんな」

 もぐもぐしながらそう言う横顔は、でも、やっぱり少し嬉しそうにも見える。
 私は複雑な気持ちになった。
 笑おうとしたけどうまく笑えなくて、慶次郎の袖を少しつまんで、うつむいた。
 慶次郎はハンバーガーを食べ終えて、手の中にくしゃくしゃと紙を握りつぶした。
 何か言いたそうに口を開いては閉じ、開いては閉じして、ため息をつく。

「……何かあった?」

 慎重に訊かれて、息が詰まった。
 唇を引き結んでから、ゆっくり開く。息が震えたのが分かって、苦笑しながら吐き出した。
 目を閉じて、首を振る。

「……何にも」

 小さな声で、そう答えた。
 そう、何もなかった。
 何も。
 --だからこそ。

「……でも、ようやく分かったのかも」

 慶次郎が訝し気な顔をする。

「分かった? 何が?」
「……栄太兄と私が、どれだけ遠いのか」

 慶次郎は私を見下ろしていた。
 私はため息をつくと、顔を上げる。
 今度こそ、ちゃんと笑えたーーと思う。

「だってーー年に1回、会えるかどうか分かんない人ーーなんて」
「橘……」

 慶次郎が私に手を伸ばす。
 私はその手に甘えて、その肩に額を寄せる。
 昨日は耐えた涙が、頬を伝い落ちる。
 慶次郎のシャツの裾を掴んで、唇を噛み締めた。

「ごめん……ごめん……ごめん……っ」
「いや……」

 慶次郎が、戸惑ったように、私の背中に手を添える。私は両手で顔を覆って、しばらくそのまま、泣き続けた。
 慶次郎はじっと、私が落ち着くのを待ってくれている。
 馬鹿にすることも呆れることもなく、ただただ私を見守ってくれている。

 ***

「……落ち着いたか?」
「うん……落ち着いた」

 押さえたハンカチの下で鼻をぐずつかせながら、私は小さく息を吐き出した。
 泣きすぎて腫れぼったい目を上げられずに、うつむいたまま頭を下げる。

「……ありがとう」
「いや」

 慶次郎は短く答えて、何を言ったものかと戸惑っているようだった。
 私は自嘲気味に笑う。

「……笑っていいよ」
「何で?」
「だって……」

 言いかけて、あまりの情けなさにまた涙がこみ上げる。
 けれど嗚咽を飲み込んで、慶次郎を見上げた。

「フラれた半年後に、ようやく失恋の実感が湧いたなんて、馬鹿みたいでしょ」

 慶次郎はちょっと驚いた顔をして、私を見つめる。
 そして目を逸らすと、不満げに唇を尖らせた。

「……馬鹿なんかじゃねぇよ」

 慶次郎は言って、そっぽを向く。
 何か、怒らせるようなこと言ったのかな。
 なんだか心細くなって、慶次郎のシャツの裾をつかむ。慶次郎は私の手元を見て、戸惑ったように目を泳がせた。

「……中途半端なフりかたした奴が悪い」

 私はうつむく。きっと、そうなんだろう。傍から見たら、栄太兄の態度こそ責められるべきなんだろう。
 でもーー

「でも」

 私は慶次郎の言葉に、どきりとした。見上げると、慶次郎は不貞腐れたまま続ける。

「でも、それも、たぶんそいつの長所の裏返しなんだろ。優柔不断ていうか、八方美人ていうか……。あんだけイケメンで、如才なく振る舞えそうなくせに――仕事も、人からの誘いも断れない、お前と同じようなお人好しなんだろ」

 私は言葉を失う。そしてまた、涙が湧いてきた。
 そう。そうなんだ。私は、栄太兄を責めて欲しかったんじゃない。私に同情して欲しかったんじゃない。
 私が好きな栄太兄を、駄目な大人だなんて、言って欲しくなかった。
 誰にも、言ってほしくなかった。
 もうロンドンへ発ってしまった次兄の言葉を思い出す。
 たぶん健人兄だって、言いたくなかったはずだ。慕っている従兄の批判なんて。でも、私のためにあえて言ってくれたんだ。私がきちんと現実に向き合えるように。

「けぇじろぉおー」
「うわっ! 落ち着いたんじゃなかったのかよ!」

 慶次郎の肩に、また目を押し付ける。
 落ち着いてたのに、また涙腺が崩壊してしまった。

「だぁってぇぇー!」
「ああもう! 泣くな! 俺が泣かせてるみたいだろうが!!」
「それもあながち間違いじゃないー」
「何言ってんだ! くそ!」

 毒づく慶次郎は、私の頭を軽くたたくと、本当に悔しそうに言った。

「--他の男のことで泣かれて、嬉しいわけないだろ!」

 ……それも、そうだ。
 私はそう気づいて、思わず笑った。
 慶次郎が示してくれた理解のおかげで、少しだけ、心は軽くなっている。

「慶次郎さ」
「何だよ」
「どんだけ、私のこと好きなの」

 私がにやりと笑って言うと、慶次郎は頬を赤くして、「うるせーな」とむくれる。
 私はその肩を叩いて、「冗談だよ」と笑った。

 ありがとう、慶次郎。
 慶次郎がいてくれて、よかった。
 ほんとに……よかった。

 それでも、涙はすぐには止まらなかった。大切な人たちにそれぞれ抱く、複雑な感情が、順に私の胸を巡って、なかなか落ち着くことがなかった。
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