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.第2章 高校2年、夏休み

30 地区大会(1)

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 私たちの出番は午後の部だ。前の学校が演奏している間、舞台の袖でじっと待つ。暗い舞台袖から見ると、舞台に反射した照明がひどく眩しい。
 あと数分で、あそこに立つのだ。熱を帯びた照明に照らされ、音が壁に吸い込まれていくような広いホールで、知らない大人やライバル校の生徒たちに見つめられ、2曲を演奏する。
 心臓が喉のあたりで動いているような気がした。

「キンチョーする……」

 ナーガが、人、という字をてのひらに書いては口に持っていく。昔ながらのおまじないにすがる姿を見て、トランペット仲間同士笑った。

「あーっ。ナルナルも緊張しすぎ。落ち着けー」

 コアラに肩を叩かれたナルナルは、びくり、と身体を震わせた。その手が震えている。

「楽譜落とすなよー。そんなに手、震えてたら、めくりそびれるぞー」
「コアラ……そういう不安を煽るようなこと……」

 本番を前にして言うべきじゃない、と言いかけたとき、コアラの手も震えているのに気づいた。彼女も彼女なりに緊張していて、周りを茶化して落ち着こうというのだろう。
 私ははしもっちゃんと顔を見合わせて苦笑した。

「礼ちゃんは落ち着いてるよね」
「そうでもないよ。緊張してるよ」

 よく知った人には「本番に強いタイプ」と言われるけれど、自分ではそうとは思っていない。ただ、一番実力が発揮できる緊張感、というのは感覚的に知っている。
 場を楽しむ。全部出し切る。空気に飲まれるんじゃなくて、空気を飲みに行くくらいの気持ち。
 やるしかない。だって、もう、戻ることはできないのだから。
 私はナルナルの袖を引いた。ナルナルが揺れる目で私を見返す。

「大丈夫。楽しもう」

 前の学校の演奏は、ちょうどサビのところだ。フレーズが繰り返される中に、雑音が混ざる。
 上手い学校の後でなくてよかった。
 内心そんなことを思う。

「ナルナルも楽しんでね」

 ナルナルは微笑んで頷いた。手はまだ震えていたけど、少しは落ち着きを取り戻したようだ。
 前の学校の演奏が終わる。下手の袖から、急いで舞台から掃けろと手ぶりで指示を出す生徒が見えた。持ち時間が残りわずかなのだろう。時間をオーバーすると、それだけで失格となる。
 ーー12分。
 練習してきた数百日を、何時間もの成果を、そんなに短い時間に出し切らなくてはいけないーー

 前の学校は舞台を去った。
 いざ、本番。
 武者震いに似た緊張が身体を走る。腰の横で拳を握る。
 アナウンスが私たちの高校名と、演奏する曲名を告げた。部員がぞろぞろと舞台へ上がっていく。みんな、緊張している。当然だ。
 楽譜を譜面台に広げながら、舞台から客席を眺めた。ホールの定員は300人と言ったか、400人と言ったか。予想以上に人で埋まった客席は、緊張のまま始まって終わった去年よりも、少し近く感じた。
 舞台だけにつけられた照明が、客席に座る人の目に映り、そこだけがぽつりぽつりと浮き上がって見えた。舞台上のパイプ椅子に腰掛けたとき、出入口が一度開く。入ってきたのは、一人のサラリーマンだった。
 その人は、出入りする人のために、そのままドアを支えている。
 すらりとした長身、スマートな身のこなしーー

 あれってーー
 いや、でも、まさか。

 戸惑ったとき、ナルナルが舞台に出てきた。お辞儀をし、私たちに向き直る。

 ーーた、の、し、も、う。

 口を大きく開閉して、ナルナルが言った。みんなが頷く。私ももう、客席を気にしている余裕はない。
 つるりとしたトランペットの表を撫でる。
 細い指揮棒を持った手が挙がった。その先端が、照明を受けて光る。

 ーー私たちの時間の始まりだ。

 指揮棒と左手が空を切る。みんなが息を吸う音がした。

 ***

 楽譜通りに弾くべき課題曲は、気持ち早めのリズムで演奏した。これは作戦通りだ。文化祭では手間取ったこともあり、1分近く時間をオーバーしてしまったので、余裕を持って自由曲を演奏しようということになったのだ。
 課題曲を終えて自由曲に移ろうとしたとき、バタン、と音がした。トロンボーン担当の1年生が楽器を譜面台にぶつけて倒してしまったらしい。
 慌てて直そうとして、隣の譜面台も倒しそうになる。隣の子がとっさに手で押さえて事なきを得たけれど、当人はちょっとした混乱状態になってしまっているらしい。
 ナルナルは「大丈夫だから、落ち着いて」と息だけで声をかけた。1年生は涙を浮かべて、泣きそうになっている。
 落としてしまった楽譜をもう一度広げ直そうとしているけど、慌てているからうまくいかない。

「大丈夫だよ」

 ナルナルよりも、私の方が近い。そう判断して小声でかけた声は、どうにか当人に届いたらしい。許しを乞うような目で見られて微笑み返し、ナルナルを見るよう促す。
 いつも通り穏やかなナルナルの微笑がそこにあった。頷くナルナルに頷き返し、どうにか楽譜を広げ直す。

 オッケー?

 ナルナルが口の動きで問う。みんなが頷いて、ナルナルはまた両手を掲げた。

 各学校の持ち時間は12分。

 今のできごとで、貴重な数十秒を使ってしまった。
 リズムを速めれば間に合うけれど、いつも通りでは間に合わなくなるかもしれない。
 脳裏をそんな計算がよぎったのは、私だけではなかっただろう。
 ナルナル、どうする?
 そう心の中で問うたけれど、空を切るナルナルの手の動きはいつもと変わらない。

 内心、ほっとした。
 同時に、腹をくくる。

 ーーこれが最後の演奏だ。

 トランペットに反射する照明が、より一層眩しく見えた。

 ***

 ナルナルは徹底していつも通りの指揮をした。
 みんなが解釈をぶつけ合った自由曲は、結局今日に至るまで、噛み合った感覚が得られていない。
 一番気持ち良くみんなの音がかみ合ったのは、文化祭のあの一度きりだ。
 みんなが奏でる音が、ホールの隅々から反響して戻って来る。私の目には、ナルナルの指揮と、キラキラ輝くトランペットしか映らない。照明の熱で頬がほてる。手の内側には汗をかいているのに、指先は冷たく、緊張で震えている。息を吸うタイミングは合っている。音の重なりも悪くない。
 あともうちょっと。あとーー

 サビに入る直前、音が重なった。

 ナルナルの目が輝く。唇を引き結ぶ。それでも、文化祭のときのような動揺はない。指揮は走らず、着実にリズムを刻む。
 行ける。このまま。このままーー
 最後までそのまま、演奏をしきった。小さなミスもあったけど、何より、みんなの音が、心が、重なっている感覚があった。気持ちがよかった。
 演奏が終わった。ナルナルが壇上を下りてお辞儀をする。舞台を照らし出す照明が、楽器や客席の何かに反射していた。
 乱れた息を吐き出す。こめかみがわずかに汗ばんでいる。
 舞台にちらばる光がぼやけて見えた。
 涙が落ちないよう唇を引き結び、楽器や楽譜、譜面台を手に立ち上がる。
 拍手は、心なしか前の学校よりも大きく聞こえた。
 少しは、残せただろうか。私たちの音を。ナルナルの指揮を。客席の人たちの心に。
 私たちの曲が始まる前に入ってきた例のサラリーマンは、出入口の横に腕組みをして立っている。
 表情までは見えないけど、多分、微笑んでいるんだろう。いつだって余裕しゃくしゃくなあの人なら。

 ーーどうして急に、このホールに現れたのかは分からないけど。

 全員が舞台袖へ引っ込んだとき、ストップウォッチを持っている係員が言った。

「12分24秒です」

 みんなは視線を交わさないまま、舞台袖から廊下へ、静かに滑り出た。
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