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.第2章 ゆめ・うつつ

33 本音

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 雪は道の横に寄せたはいいものの、その後も曇天が続き、なかなか溶けずに残っていた。
 学校だけでなくどの道も同じようなもので、溶けるまでは徒歩通勤するしかない。
 となると、自然と朝方生活になった。
 重いものを持ち帰れないのは難点だけれど、片道1時間の徒歩はなかなかいい運動になる。
 寝入りの悪い方ではないけれど、布団に入るとすっと眠りにつくことができた。
 くよくよ悩む時間も悲しむ時間も、自然と短くなることに救われていた。
 この際、このまま朝方生活にシフトできるならそれもいいかもしれない。
 そう思いながら、早々に夕飯を済ませようとしていた三日後の夜。
 ありあわせの食事をあたためて食卓に並べたところで、スマホが鳴った。
 ヤスくんからの着信だ。
 湯気を立てるご飯とスマホをうらめしく見比べてから、受話ボタンを押した。

「もしもし。――ごめん、今帰ったところで。食事しながらでいい?」
『あー、うん。いいけど』

 平日に電話がかかってくるのは珍しい。スマホをスピーカー設定にして横に置き、ご飯を口に運びながら、「どうかした?」と尋ねる。

『響子、来週の土日、予定あんの?』
「予定? 期末テストの準備」
『仕事の話してないから』

 じゃあ何の話、と言いかけて、デスク上のカレンダーに目を向けた。

 ……あ、そっか。
 そろそろ、バレンタインデーか。

 面倒臭い、という言葉が、ずんと腹に落ちた。
 一気に低下した気分を悟られないよう、私は慎重に言葉を選ぶ。

「どうかなぁ……。時間あるか分かんない」
『なんだそれ』

 また彼が苛立った気配がする。私は息をつく。

「仕事ばったばたで、余裕ないよ。生徒たちもほら、2年の後期って、成績が内申に影響するし……しっかりがんばってもらわなきゃ」

 電話の向こうでため息をつくのが聞こえた。「何?」と言うと、低い声で彼が言う。

『俺、予定空けとく必要ある?』

 問われて、喉奥を鳴らした。もちろん彼が期待しているのは、「空けておいて」という言葉だろう。
 もしここで「ない」と言えば、どうなるんだろう。私は口を開きかけ、閉じた。

「……予定……」

 空けておいて。
 そんなこと、頼む必要があるんだろうか。
 プレゼントを期待しているのは彼の勝手だろう。
 だからといって、「バレンタインデーに会う気はない」と突き放してよいものか。
 恋人なのに? 恋人の日に?
 それは別れを意味していると思われても仕方ないのでは――
 彼には、私しかいないのに。
 良心の呵責がまたしても胸を苛む。

 そのとき、ピンポーン、と呼び鈴が鳴った。

「あ、ごめん。誰か来たみたい――宅配かな。後でメッセージ送る」
『え、ああ……うん』

 一方的に言うと、終了のボタンを押して通話を終わらせた。
 玄関へ向かって、念のため先に覗き穴から外を覗き――
 頭がその人を認識するよりも先に、鍵を開けてドアを開いていた。

「……橘くん」

 名前を呼ぶ、自分の声は震えていた。
 所在なさげに立っている橘くんは、気まずそうに目を泳がせ、ぎこちなく微笑む。
 スーツの上に、やや不釣り合いなモッズコート。
 白い吐息が、夜に漂う。

「――ごめん、夜中に」

 静かな声には元気がなかった。
 何かあったのだ、と察して、とっさに中へ導こうとし、ためらった。
 橘くんは顔をそらし、息を吐き出す。白いそれが、暗闇にたなびいて消えていく。
 その横顔は、どこか遠い場所を見ていた。
 以前とは違う、縮まない距離。
 懐かしさと切なさに、ぎゅうっと胸が締め付けられた。
 私は息を吸って、吐き出した。頭の片隅に、ブラックアウトしたスマホがちらついている。
 それを意識から振り払うように微笑んで、強引に橘くんの手を引いた。

「――寒かったね。上がって」

 橘くんの手は冷えきっていた。ずいぶん長いこと、外にいたんだろうか。
 もしかしたら、しばらく外でためらっていたのかもしれない。以前、私の家を訪れたときと同じように。呼び鈴に手を伸ばしてはやめ、伸ばしてはやめて――それでも、帰ることはできずに。
 玄関先まで橘くんを引き入れ、その顔を見上げる。
 もう、自分に言い訳をするのはやめよう。
 ――誰に何を言われようとも。

「待ってたよ。――ずっと」

 覚悟すると、言葉は自然と口から転がり出た。
 それは素直な気持ちだった。ずっと思っていた本心だった。
 ようやく言えた。そのことに、泣きそうなほど、胸が締め付けられた。
 橘くんは一瞬息を止めて、私の顔を見下ろす。
 微笑もうとして失敗したらしく、くしゃりと表情が歪んだ。
 かと思うと、私の手を掴んだまま、ずるずるとその場にしゃがみこむ。

「ごめん」

 ささやくような声の後、聞こえてきたのは、低い嗚咽だった。
 何かがあったのだろう。
 橘くんに合わせるようにしゃがみ込み、広い背中に手を回した。
 コートの上からその背を撫でる。
 ゆっくり、ゆっくり、彼をいとおしむように。
 もしも橘くんと過ごす時間が、これで本当に最後だとしても。
 私はちゃんと、受け止めてあげたい。
 他の誰でもない。橘くんを、受け止めてあげたい。
 縮こまって嗚咽する大きな身体を抱きしめると、橘くんの髪から、かすかに懐かしい香りがした。
 それが線香の匂いだと気づいて、唇を引き結ぶ。

「会えなかったんだ――俺だけ」

 嗚咽の合間に、うわずった声がした。

「孫の中で、俺だけ……」

 ぶつ切れの言葉が、胸にひりひりと刺さる。

「覚悟、してた筈なのに――」

 橘くんの頭に触れながら目を閉じる。
 まぶたの裏には、数日前に見た情景がちらついていた。

 雪の中で横転した自転車。隣に停まった救急車。
 真剣な表情でカルテに何かを書き込む隊員の姿。
 誰かの危機を救う仕事。
 ――それは同時に、大切な人の危機に、立ち会えない可能性の高い仕事でもある。

 橘くんはそのまましばらく、泣き続けていた。
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