さくやこの

松丹子

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第三章 さくらさく

86 咲也からの手紙

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 咲也は、ある日突然、いなくなった。
 手紙一つを残して。

 手紙には、こうあった。

 ーーあきちゃんへ
 突然のことで、きっと驚くことと思いますが、僕は母を探しに行ってきます。
 きっと、父のところへ行ったんだろうと、思ってはいるのですが、あの母のことです。どうなっているか、どうしても気になってしまって、後を追うことにしました。
 とはいえ、父とは連絡も取れない僕なので、会うことができるかも分かりません。英語だって話せないし。あきちゃんに通訳を頼めばよかったかな、なんてね。
 僕は、自分が生きていくべきかどうか、生きていく努力をすべきかどうか、この旅の後で、ちゃんと考えたいと思っています。
 そう、僕にとっては、これがほとんど初めての旅なんだ。あきちゃんみたいに、ずんずん突き進んで行けない性格だから。
 あきちゃん。
 僕は、君にたくさんのカミングアウトをしたけれど、いつでも、最後には笑って僕に触れてくれたね。
 僕は君の恋人にはなれないけれど、僕にとって君は大切な人だよ。
 本当に、大切な人だ。
 寂しがりやな君のことです。僕がいなくなって、代わりを探そうとするかもしれない。
 見つかったらそれでもいいけれど、君を傷つける人間にだけは、近づかないで。
 僕にこんなことを言う権利はないかもしれないけれど、それだけが心配です。
 ーーでも、きっと大丈夫だよね。
 だって君には、たくさんの、素敵な先輩たちがいる。
 僕と君が一番違うのはそこだよ。
 君は早くに家族から離れた代わりに、自力で素敵な人と繋がっていった。そう、自力で。それって、すごいことだよ。
 そこに君の幸せがあると、僕も信じてる。
 君がサインをしてくれた書類は、お守りがわりに僕が持って行きます。
 もし、僕が、生きていくことを選んだら、そのときにはーー
 いや、これはずるいね。やめておこう。
 君の幸せを、誰よりも祈っています。
 心の友より。(って、古すぎるかな?)

 追伸
 ありがとう。君と出会えてよかった。
 本当に。心から、そう思うよ。ーー

 咲也は、必要最低限の荷物だけを持って行ったようだった。
 だから、家は、咲也がいたときとほとんど変わっていなくて、それが私をますます混乱させた。
 冗談じゃないか、と思った。たちの悪い冗談。二、三日したら、咲也がひょっこり帰ってくるのではないかと、そう思っていた。
 それくらい、変わりばえしなかったから。
 それでも、帰宅した私を迎える人気のない暗闇は、咲也の不在を告げていた。
「ただいま」
 小さく声をかけた私に、
「おかえり」
 という言葉は、どこからも返って来ない。
 たった半年足らずで、すっかり人のいる家に慣れてしまっていたのか。
 浮かべようとした自嘲の笑みは、途端に歪んで涙に変わった。
 他の誰でもない、咲也の温もりが――恋しかった。

 仕事をしているときが、一番マシだった。
 もともと咲也がいない空間だったから。
 自然と、同じフロアの神崎さんを避けるようになった。
 咲也をーー咲也の照れ臭い微笑みを、温もりを、思い出したくなかったから。
 ときどき、神崎さんが声をかけてきたけど、気付かないふりで通りすぎた。
 何となく様子の違う私に、最初に気づいたのはヨーコさんだ。
 近い場所で仕事しているから当然と言えば当然だけれど。
「何かあったら、遠慮なく言うてな。うちでよければいつでも聞くで」
 私の空元気を見抜いて、不思議そうに首を傾げながら、思いやりの言葉を投げてくれた。
 ――ヨーコさんに思いやってもらうほどの価値、私にはないのに。
 咲也を留める力すらなかった私には。
 自嘲と自虐の思いは時として心中を真っ黒に侵食したが、それを表には出さない。
 心を侵す暗闇には、慣れている。小さいときから。
 だからただ笑って、何でもないです、と繰り返した。
 ヨーコさんは、それ以来、私の様子を注意深く観察している。
 それでも、私は笑顔の仮面を崩さない。
 ひねくれにひねくれた私は、素直に甘えることを自分に許さないのだ。
「何ですか?私は元気ですよ」
「そんな、心配いりませんって」
 笑って手を振る。そんな自分の姿に、咲也に出会う前の自分を思い出した。
 ーーそうだ、戻るだけだ。
 笑顔の仮面をかぶって、明るく楽しいあきちゃんに。一人で生きていく強い女に。
 なのにそれがーーどうしてこんなに、辛いんだろう。
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