さくやこの

松丹子

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第三章 さくらさく

83 婚姻届

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 二月に入ったとき、出社した私は山崎部長に呼ばれた。私はわずかな緊張感を覚えつつ部長の後へ続き廊下に出る。
 周りに他の社員がいないことを確認して、部長は口を開いた。
「ほんとはオフレコなんだけど」
 そして、小さな声で耳打ちする。
「海外勤務、決まったよ。正式な内示は三月。どこに行くかはまたそのときにね」
 言い終えると、少し距離を置き、私の表情をうかがった。
「ほんとに大丈夫?」
 私は無理矢理笑顔を浮かべた。
「ーー大丈夫です。もちろん」
 表面上の言葉と笑顔とは裏腹に、心の中は泣きそうだった。
 つい数ヶ月前まで思い描いていた期待と、咲也の笑顔を天秤にかけているような、そんな感覚。
 咲也ーー
 私は本当に、海外へ行きたいんだろうか?
 君を、日本に置いて。

 咲也の話では、ウィルスの影響が出るのは感染から数年後のことらしい。自覚症状が出る前に気づけたのは幸運だったと言えるが、感染後もう三年経っている。症状はいつ出始めるか分からない。
 感染したと分かれば、当然、早めの処置が望ましいーーが、治療を始めたとなれば、中断もできない。一度薬を中断すると、薬の効能が低下するリスクがあるからだ。
 薬の副作用の影響もあるため、治療を始めるのであれば会社に伝えるべきだが、会社に言うとなれば、叔父に話すことになるだろう。叔父は咲也の性指向を疑い、母にもそれは伝わるかもしれないーー
 咲也は、それを最も嫌がった。
「どうしても、お母さんに言いたくないの?」
 私が問うと、咲也は珍しくーーほとんど初めて見た、自嘲気味の笑顔で答えた。
「お母さんのおかしな性癖のせいで、俺がゲイになったって?」
 私は思わず、息を止める。咲也は、ああごめん、と言って俯いた。
「もちろん、それが理由だと思ってる訳じゃないんだけど。親って、そういうとこあるから。ーーあんまり、母を刺激したくないんだ」
 言うと、遠い目をした。壁には新年から新しくなったカレンダーがかけてある。
「年始に会ったとき、また増えてたから」
「え?」
「リストカットの傷」
 私は反応に迷い、俯いた。冬なのだから、当然、咲也の母が着ていたのは長袖だ。その陰にある傷跡に、私は全く気づかなかった。
 そういえば、初めて会ったときにも、咲也の母は長袖を着ていた。まだ暑いくらいの時期だったのに。あれは傷跡を隠すためだったのかーーと、いまさらながらに気づく。
 死そのものーーいや、死に臨むこと、は、咲也にとっては日常だったのかもしれない。私の幼少期のように、自分自身の身の危険としてではなく、身近な存在ーー母の姿において。
 咲也は全身の空気を吐き出すように長く嘆息して、乾いた笑いを浮かべた。
「でも、結局先延ばしにしているだけなのかなぁ。あきちゃんみたいに、一歩踏み出す決意が、俺はどうしてもできないんだ。色々考えてたらーーううん、考えれば考えるほど、そこまでして生きていく価値が俺にあるのかなって」
 本人は多分、いつもと同じ笑顔を浮かべているつもりだろうが、それはほとんど泣いているように見えた。
 私は飲み込むものの何もない喉を上下させて、言った。
「やめちゃえば。仕事」
 咲也は目を見開いてから噴き出す。
「やめて、どうするの。それこそ、生きていけないじゃない」
「生きていけるよ」
 私は鞄の中から、一枚の紙を取り出した。
「ーー私が、養う」
 テーブルの上にそれを広げる。
「……これって」
 咲也はそれを見て、一瞬言葉を失った。私は息を吐き出し、気合いを入れ直すように胸を張る。
 できるだけ強い意思を思わせる顔つきをし、咲也をまっすぐ見つめた。
 内心の不安をおし隠して。
「何か問題が?」
「いや、だって……」
 咲也は戸惑いながら私と紙を交互に見比べる。
「……どういうつもりなのか分からないのですが」
「どういうって、見た通りだけど」
 紙には、婚姻届、と書いてある。そして私のサイン。
「でもーーあれだけ、結婚しない、って言ってたのに」
 私は口を開けて、閉めてーーまた開けた。 
「咲也が、生きていく選択をしてもしなくても」
 声はひどくか細くなった。
「咲也が、私の隣で生きてた証が欲しいの」
 搾り出すような声で、続ける。
「籍を入れれば……あんたがいなくなっても、隣にいるような気がするんじゃないかって」
 咲也はまた、唖然とした。その後、ふと微笑む。
「あきちゃん」
「……何」
「あきちゃん、寂しがりやだからさ。俺がいなくなったら、次探しなよ。男でも女でもいいから。ちゃんとあきちゃん大事にしてくれる人」
 穏やかな口調はいつも通りで、私の願いを聞いてくれていると錯覚するほど温かい。
「じゃあ、あんたのゲイの友達でも紹介してもらおうかな。そしたら咲也の思い出話で盛り上がれるでしょ」
 ――やっぱり、イエスとは言ってもらえない。
 そう気づいて泣きそうになるのを堪え、せめてもの強がりに、口をとがらせながら言うと、咲也は笑った。
「嫌だなぁ。そんなじゃ悪口でも言われやしないかって、気になってうかうか成仏もできないじゃない。死んだ後くらい静かに眠らせてよ」
「成仏しなければいいじゃない。ずっといなよ」
 ずっといてよ。ーー私の側に。
 口にできない言葉の代わりに、涙が一気に込み上げてきた。
「ちょっと、あきちゃんーー」
 咲也は慌てて私の肩に手を置いた。
 涙は次々と私の頬を濡らして顎に、胸元にと落ちていく。
 咲也。ーー咲也。
 声を大にして、彼の名前を叫びたかった。なりふり構わず彼に抱き着き、ずっと私の手の届く場所に繋ぎ止めたかった。
 私たちの関係には、何の名前もない。
 でも、この想いは、世間一般の夫婦と、一体何が違うだろう。
 ただ身体の関係を伴わないだけだ。ただ互いが恋愛の対象にはならないだけだ。
 それでも側にいたいという気持ちは変わらない。相手を支えたいと思うのも変わらない。
 この気持ちに誰が文句を付けられるだろう。誰が馬鹿にできるだろう。
 これを愛と言わないなら、愛なんて言葉、要らない。もう、一生信じることなど、できない。
 この歳になってようやく、その温もりを知ることができたのに。
「まだ、俺、死ぬって決まった訳じゃないし」
 咲也は私の頬を流れる涙をすくって苦笑する。
「だって、生きる気ないって言ったじゃない」
「生きる価値があるのか、分からないなって思ってるだけだよ」
「似たようなもんでしょ」
 鼻水をすすり上げる私を、咲也が微笑んで見ている。
「ありがとう」
 咲也は穏やかに言った。
「俺のために泣いてくれて」
 私は唇を尖らせる。
「違うよ。ーー自分のためだよ」
 そう、自分のためだ。
 私はもう、咲也がいない毎日を過ごすのが――怖くて仕方ない。
 咲也の首にしがみついた。
「生きてよ、咲也。ーー私と一緒に、生きて」
 駄々をこねる子供のように、泣きじゃくりながら叫ぶように言う。
 私の頭を、咲也は黙って撫でていた。
 いつかしてくれたように、ゆっくりと。
 撫でながら――
 それでも、首を縦には振らなかった。
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