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第二章 ふくらむつぼみ
57 逃走と葛藤の書斎
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【今日、会える?】
残業が一段落つくと、もうしっかり夜だ。咲也に送ったメッセージは、すぐに返事が返ってきた。
【会える、じゃないよ。ちゃんとうちに帰って来なさい】
お叱りのメッセージに苦笑する。世間一般のお母さんみたいと思いつつ、はぁいと返事を送った。
「ヨーコさん、まだ残ります?」
私が問うと、ヨーコさんはちらりと目を上げた。
「せやな」
言って左手首の内側にある腕時計の文字盤を見やり、
「そろそろ帰ろか。駅まで一緒しよ」
言いながらスマホをタップした。多分、安田さんに駅で待てと連絡しているんだろう。
夫がいないところで、女子トークをしたいときだってあるのだろう。私ははいと答えながら、パソコンの電源を落として身支度を整えた。
「アキちゃん、実家は福岡やったな」
「ええ。ヨーコさんは京都でしたっけ」
「せや」
肌に纏わり付く湿度を感じながら、二人で夜道を駅へと歩いていく。周りはオフィス街だ。味気ないビルの並びに紛れて、飲食店の明かりの中から賑やかな声が聞こえていた。開放感を喜ぶ声音に、そうか、今日は金曜日だった、と思い出す。
「実家、言うても、ほとんど他人の家みたいなもんやけどな。アーヤの家の方がよっぽど落ち着くわ」
私は何も言わず、ヨーコさんの横顔をちらりと見た。私との話は、女子トークというには重い話かもしれない、と気づく。
「安田家はどうなんですか?落ち着きます?」
ヨーコさんは笑った。自分の家だから当然だと言うのだろうか。そう思ったが、
「ある意味落ち着くし、ある意味落ち着かんなぁ。大型犬がおるさかい、纏わり付いてうるさい」
私は噴き出した。さもありなん。
「でも、書斎ありますよね。ヨーコさんの」
「せや。あの部屋は、ジョーも苦手で入って来ぉへん。もしうちに泊まるときがあったら、あそこに一緒に寝よか」
「いいですねぇ。修学旅行みたいに」
言いながら、ふと気づく。私はそういう、和気藹々とした、賑やかな学校行事というものを経験していない。
それはひとえに家庭環境と、私が根暗だったからなのだけど。
「ええなぁ。アーヤも呼べればええけど、子どもがおるさかいしばらくは無理やろな」
「そうかも。でも、あの壁際に並んだ本棚、いいですよねぇ」
ヨーコさんは読書家だ。家の中で一番小さい四畳ほどの部屋を書斎にして、壁の一面を本棚にしている。文庫で揃えるのが好きだからと基本的には文庫なのだが、ハードカバーしかないものや全集なんかは大きいものが並ぶ。
「安田さん、本苦手なんですか?」
「そうみたいやな。うちの持ってる本、読もうとして挫折してたさかい」
「普段読み慣れない人には結構ハードかもしれないですね、あのチョイスだと」
いわゆる文豪、と呼ばれる作家の著書ばかりが並ぶ本棚を思い出しつつ言う。そこには現代作家などほとんど見かけなかった。芥川龍之介、太宰治、カフカやトルストイーー社会の歪みや人間のエゴを描き出す作家陣。その中で、車輪の下だけがやや浮いていたが、古くて読みこまれたものらしく見えた。高校時代からよく読んだと聞き、ちょっとだけ、どきりとしたのを覚えているーー私は大学生のときに読んで、学生時代に読むべきではないと後悔したのだーー生きているのが嫌になるから。
「まあ、本なんか無くても、楽しく生きてこれたんやから、うらやましいもんやわ」
ヨーコさんがさらりと言った。
「本を読む楽しみがあるのだって、まだ救われてる方です」
私が呟く。
ヨーコさんはふ、と笑った。
「確かに、そうやなぁ」
私が本を読み始めたのは、父から離れた後だ。それまでは、そんな余裕すらなかった。
でも、一度読みはじめたら、楽だった。現実逃避も、暇つぶしも、人生勉強も人避けも、全部全部、本が叶えてくれた。図書館を利用すればお金だってかからない、しかも、誰からも肯定的にとらえてもらえる。こんなに便利な趣味が他にあるだろうかーー
「アキちゃん」
物思いにふけっていた私を、ヨーコさんの声が引き戻した。
「あ、すみません。なんですか?」
明るく問いかけると、ヨーコさんは静かに私を見つめた。表情は穏やかに微笑んでいるが、目は凪いだ海のように静かだ。
「案外、逃げ切るのは難しいもんやで」
私は表情を顔に張り付かせたまま、黙ってヨーコさんの顔を見ている。
「逃げ切ったつもりになっても、結局自分からは逃げられへん」
立ち止まりかけた歩みを進めながら、ヨーコさんは言った。
「うちも、それに気づいたのは最近やけどな」
駅が見えてきた。そして、長身のシルエット。
「でも、同じときにもう一つ、気づいたことがあるんや」
私たちにーーいや、ヨーコさんに気づいた安田さんは、手を挙げてにこりと笑った。
「一人で向き合う必要はないんやな、て」
ヨーコさんも微笑みを返しながら軽く手を振る。
いい夫婦だなぁ、と私は思った。
あくまでそれは、他人事の感想としてだけれど。
「そうかもしれませんね」
私は一言だけ言った。
ヨーコさんは、横目で私の横顔を見やりーー
それ以上、何も言わなかった。
残業が一段落つくと、もうしっかり夜だ。咲也に送ったメッセージは、すぐに返事が返ってきた。
【会える、じゃないよ。ちゃんとうちに帰って来なさい】
お叱りのメッセージに苦笑する。世間一般のお母さんみたいと思いつつ、はぁいと返事を送った。
「ヨーコさん、まだ残ります?」
私が問うと、ヨーコさんはちらりと目を上げた。
「せやな」
言って左手首の内側にある腕時計の文字盤を見やり、
「そろそろ帰ろか。駅まで一緒しよ」
言いながらスマホをタップした。多分、安田さんに駅で待てと連絡しているんだろう。
夫がいないところで、女子トークをしたいときだってあるのだろう。私ははいと答えながら、パソコンの電源を落として身支度を整えた。
「アキちゃん、実家は福岡やったな」
「ええ。ヨーコさんは京都でしたっけ」
「せや」
肌に纏わり付く湿度を感じながら、二人で夜道を駅へと歩いていく。周りはオフィス街だ。味気ないビルの並びに紛れて、飲食店の明かりの中から賑やかな声が聞こえていた。開放感を喜ぶ声音に、そうか、今日は金曜日だった、と思い出す。
「実家、言うても、ほとんど他人の家みたいなもんやけどな。アーヤの家の方がよっぽど落ち着くわ」
私は何も言わず、ヨーコさんの横顔をちらりと見た。私との話は、女子トークというには重い話かもしれない、と気づく。
「安田家はどうなんですか?落ち着きます?」
ヨーコさんは笑った。自分の家だから当然だと言うのだろうか。そう思ったが、
「ある意味落ち着くし、ある意味落ち着かんなぁ。大型犬がおるさかい、纏わり付いてうるさい」
私は噴き出した。さもありなん。
「でも、書斎ありますよね。ヨーコさんの」
「せや。あの部屋は、ジョーも苦手で入って来ぉへん。もしうちに泊まるときがあったら、あそこに一緒に寝よか」
「いいですねぇ。修学旅行みたいに」
言いながら、ふと気づく。私はそういう、和気藹々とした、賑やかな学校行事というものを経験していない。
それはひとえに家庭環境と、私が根暗だったからなのだけど。
「ええなぁ。アーヤも呼べればええけど、子どもがおるさかいしばらくは無理やろな」
「そうかも。でも、あの壁際に並んだ本棚、いいですよねぇ」
ヨーコさんは読書家だ。家の中で一番小さい四畳ほどの部屋を書斎にして、壁の一面を本棚にしている。文庫で揃えるのが好きだからと基本的には文庫なのだが、ハードカバーしかないものや全集なんかは大きいものが並ぶ。
「安田さん、本苦手なんですか?」
「そうみたいやな。うちの持ってる本、読もうとして挫折してたさかい」
「普段読み慣れない人には結構ハードかもしれないですね、あのチョイスだと」
いわゆる文豪、と呼ばれる作家の著書ばかりが並ぶ本棚を思い出しつつ言う。そこには現代作家などほとんど見かけなかった。芥川龍之介、太宰治、カフカやトルストイーー社会の歪みや人間のエゴを描き出す作家陣。その中で、車輪の下だけがやや浮いていたが、古くて読みこまれたものらしく見えた。高校時代からよく読んだと聞き、ちょっとだけ、どきりとしたのを覚えているーー私は大学生のときに読んで、学生時代に読むべきではないと後悔したのだーー生きているのが嫌になるから。
「まあ、本なんか無くても、楽しく生きてこれたんやから、うらやましいもんやわ」
ヨーコさんがさらりと言った。
「本を読む楽しみがあるのだって、まだ救われてる方です」
私が呟く。
ヨーコさんはふ、と笑った。
「確かに、そうやなぁ」
私が本を読み始めたのは、父から離れた後だ。それまでは、そんな余裕すらなかった。
でも、一度読みはじめたら、楽だった。現実逃避も、暇つぶしも、人生勉強も人避けも、全部全部、本が叶えてくれた。図書館を利用すればお金だってかからない、しかも、誰からも肯定的にとらえてもらえる。こんなに便利な趣味が他にあるだろうかーー
「アキちゃん」
物思いにふけっていた私を、ヨーコさんの声が引き戻した。
「あ、すみません。なんですか?」
明るく問いかけると、ヨーコさんは静かに私を見つめた。表情は穏やかに微笑んでいるが、目は凪いだ海のように静かだ。
「案外、逃げ切るのは難しいもんやで」
私は表情を顔に張り付かせたまま、黙ってヨーコさんの顔を見ている。
「逃げ切ったつもりになっても、結局自分からは逃げられへん」
立ち止まりかけた歩みを進めながら、ヨーコさんは言った。
「うちも、それに気づいたのは最近やけどな」
駅が見えてきた。そして、長身のシルエット。
「でも、同じときにもう一つ、気づいたことがあるんや」
私たちにーーいや、ヨーコさんに気づいた安田さんは、手を挙げてにこりと笑った。
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ヨーコさんも微笑みを返しながら軽く手を振る。
いい夫婦だなぁ、と私は思った。
あくまでそれは、他人事の感想としてだけれど。
「そうかもしれませんね」
私は一言だけ言った。
ヨーコさんは、横目で私の横顔を見やりーー
それ以上、何も言わなかった。
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