さくやこの

松丹子

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第二章 ふくらむつぼみ

56 ユニオンジャックのマグカップ

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「辞令が出るとしたら三月頭かな。繁忙期と重なるから少し早めに教えてもらえるといいけどねぇ」
 聞きたいこととかあったらいつでも声かけて。もし決まったらアキちゃんを送る会、しようね。
 アヤさんは笑ってそう言った。私も笑って、ありがとうございますと返す。フロアの違うアヤさんとはエレベーターで分かれて、ヨーコさんと歩いて行くと、また神崎さんに会った。手には湯気の立つコップが二つ。
「あ、名取さん。ちょうどよかった」
 神崎さんのいる事業部も同じフロアだが、エレベーターホールを挟んでいる。
「コーヒー要ります?ジョーに聞いたら、名取さんが要るようならあげてくれって」
「何や、わざわざ会社にドリッパー持ってきたんか?」
「いや、こないだ備品整理してたら壊れたコーヒーメーカーが出てきて。本体捨ててドリッパーとポットだけもらいました」
 神崎さんは言いながら、どうします?と片方のマグカップを差し出す。ユニオンジャックのデザインだ。神崎さんのは、シンプルなモノトーン。
「ほな、もらうわ」
 ヨーコさんは言いながらマグカップを受けとった。
「洗って返すて言うといて」
「洗わなくていいって言ってましたよ」
「どうせそのまま使うからとか言うんやろ。気色悪いわぁ」
「それであいつのやる気が出るなら俺も助かりますけど」
 言いながら、神崎さんは一口だけ自分のコップのコーヒーを口にし、少しだけ顔をしかめた。
「ちょっと苦めかも。お口に合わなかったら捨ててください」
「そんなもったいないことせぇへんよ」
 ヨーコさんは両手でマグカップを包みながら微笑んだ。
「マーシーが愛をこめていれてくれたんやろ」
「コーヒーへの、ね」
 神崎さんが苦笑しながら釘を刺すと、ヨーコさんはわざとらしく拗ねた顔をして見せた。
「ええやん、少しくらい夢見せてくれたって」
「見ないでくださいよそんな夢。ああほら、貴女を生き甲斐にする男が来ましたよ」
 神崎さんが私たちの後ろに視線を投げるので、振り向くと安田さんが立っていた。すらりとした長躯に細身のスーツがよく映える。さすがに安田さんはノーネクタイ、ノージャケットだ。大きめの衿のワイシャツはぴしっとノリが効いているけど、そういえばアイロンて誰がかけてるんだろう。と不要な疑問を抱く。ヨーコさんはしそうにないから、自分でやってるのかなぁ。
「嬉しいなぁ」
 安田さんは人懐っこい顔を破顔させ、ますます人懐っこく感じさせた。
「ヨーコさんと昼休みにも会えるなんて。ラッキー」
 いやいや、朝晩だって会ってるでしょう。行きも一緒、帰りだって、一人では心配だからと付き添う過保護っぷりだ。私とヨーコさんが話しながら帰るときは、さすがに駅で合流したりするけど、それもヨーコさんの指示による。
 まったくどの夫婦も鬱陶しいくらいに近距離で生活をしている。ときには離れたくならないものかしら。
 私はついつい想像してしまった。もし、咲也と、朝昼晩、毎日顔を合わせることになったら。
 ーーうん?
 悪くない。
 え?
 どういうこと?
 心中の自問自答が、ついつい顔に出ていたらしい。神崎さんと安田さんが顔を見合わせて首を傾げた。
「何だ江原、どうした。腹具合でも悪いか」
「昨日飲みすぎたとか?」
「違いますよ。昨日は飲んでません」
 言い返すと、安田さんが笑いながら指を立てる。
「じゃランチで飲んだ?」
「飲むわけないじゃないですか!」
「それなら、昨日飲まなかったから調子が出ない」
「神崎さん!人をアル中みたいに!」
「違うのか?」
「違います!」
 言っているうちに、昼休みの終わりを告げるチャイムが鳴った。
「やべ。ジョー、行くぞ」
「はーい。ヨーコさん、また後でね」
「マーシー、コーヒーごちそうさん」
「あ、そのカップ洗わずに戻してくださいね!」
「必ず洗って返すさかい、安心しぃ」
「えええええ」
 その会話を聞きながら、やれやれと嘆息すると、私は財務部のドア前で社員証を掲げた。ICカードでロックを解除して入る仕組みだ。
「アキちゃん、飲んでみる?」
 ヨーコさんが湯気の立つマグカップ片手に首を傾げた。私はその顔とユニオンジャックのコップを見やって、いいえと首を振る。
「安田さんのコップ使うのはちょっと嫌です」
「確かにそうやな」
 ヨーコさんは笑いながら部屋に入って行った。
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