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第一章 こちふかば
49 悪酔い
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アパートの前まで来ると、やっぱり道端にタバコの吸い殻が落ちていた。この前よりも本数が多いことは一見して分かったが、近づきたくないので遠巻きに横を通り、部屋へと向かう。
私がタバコの吸い殻に極力意識を向けないようにしているのを察したのだろう、咲也も吸い殻を目に留めながら何も言わなかった。
ドアの前に立ち、先日封筒が差し込まれていたあたりなどにざっと目を通す。よし、ない。そう確認して鍵を差し込み、開錠した。
自宅に帰るだけなのに、ドアノブに手をかけたまま一息ついた。決心をして一気にドアを開く。中は誰もおらず何もなっていないーー当然なのだがその事実にほっとする。
足元を確認し、ドア裏についている郵便受けを確認して、何もないと分かるとようやく人心地ついた。
「はあ……」
思わず壁に手をつきつつ息を吐くと、咲也が静かに私の方を見続けていることに気づいて苦笑を返した。
「とりあえず、大丈夫そう」
咲也はポケットに手をつっこんで、首後ろに手を当てる。そうしていると普通の男性みたい。ーーいや、普通の男性なんだけど。と自分で突っ込む。緊張感が解けたためにちょっとだけ混乱しているらしいと自覚しながら、咲也の応答を待たず家に上がった。
咲也は玄関先まで入ってきたが、靴は脱がずに腕組みをして立っている。ドアがその背中で閉まった。
「あきちゃん。二、三日分の着替え、俺にちょうだい。持って帰るから」
咲也の言葉に、私は部屋の中からぐいと首を回した。
「何言ってるの?」
「俺の家の合い鍵」
言いながら、咲也は鍵を差し出した。私が身動きできずにためらっていると、咲也は息をついた。
「心配だよ」
その顔からはすっかり笑顔が抜け落ちている。笑顔だけではない、表情らしい表情が見えない。冷たく突き放したようにも見えるその態度に、しかし私が感じたのは安堵だった。その事実に自分の歪みを感じて、笑いが込み上げる。
「大丈夫だよ」
きっと何もないから大丈夫。ーーそういう意味で言っていないことを、咲也は察したのだろう、眉を寄せた。
大丈夫。何があっても咲也に迷惑はかけないし、他の誰にも迷惑はかけない。そりゃ出勤しなかったなら会社の人には迷惑をかけるだろうけど、それだって少しの間だけだ。欠員を穴埋めできればそれまでの話。“育ちのいい“先輩たちは、もしかしたら心配してくれるかもしれないけど、それだって一時のことだ。
たとえ今、この場で、私がいなくなったって、本当の意味で悲しむ人はいないだろう。
「大丈夫じゃない」
咲也が吐き捨てるように言った。彼の不機嫌な声を聞くのは初めてで、新鮮だった。
「俺が、大丈夫じゃないよ」
咲也は私を見たーー睨みつけた。その視線の鋭さに、たじろぐほどの迫力に、喜びを感じて目を反らす。馬鹿みたいだ。
「馬鹿みたいだよ」
言葉は口をついて出た。
「私も、咲也も」
馬鹿みたいだ。切り離したいものばかりの世の中なのに、繋がろうとする私たちは、本当に馬鹿みたい。
「仕方ないよ」
咲也は本当に仕方なさそうに言った。
「会っちゃったんだもん。俺と、あきちゃん」
言われて、私は息を吸い、そのままゆっくり吐き出した。
ーー会わなければよかった。
そうすれば、きっとずっと一人でいられた。一人でいる自分をそのまま肯定できた。
ーーそれなのに。
「……仕方ないよ」
咲也の再度の呟きを聞きながら、私はボストンバッグを取り出した。箪笥の中からバッグへ、服を乱暴に詰め込み、洗面所で化粧品もまとめる。
「咲也」
声をかけると、うなだれていた咲也が顔を上げた。私は黙ってボストンバッグを差し出す。咲也は神妙な顔でそれを受け取り、肩にかけた。その何気ない動作を見て、彼と私は身体の構造が違うんだと改めて気づく。私にはそんなに軽やかに持てる重さではない。
「ごめん」
目を見れずに俯いて、ぽつりと言った。咲也はボストンバッグに目をやり、うん、と頷く。
じゃあ、と咲也はドアノブに手をかけた。私はうん、と応える。咲也はそれ以上の挨拶を交わすことなく、外へ出て行った。ドアがぱたんと乾いた音を立てる。
「……ごめん」
私は息を吐き出しながら片手で顔を覆った。もう片手は壁に置いて。昨晩から今朝にかけて、一気に、そして久々に、自分の中の忘れていたい部分を揺さぶられて、ほとんど悪酔いしかけている。
一人で、生きて行きたいと。
ーー思っていた、はずなのに。
私がタバコの吸い殻に極力意識を向けないようにしているのを察したのだろう、咲也も吸い殻を目に留めながら何も言わなかった。
ドアの前に立ち、先日封筒が差し込まれていたあたりなどにざっと目を通す。よし、ない。そう確認して鍵を差し込み、開錠した。
自宅に帰るだけなのに、ドアノブに手をかけたまま一息ついた。決心をして一気にドアを開く。中は誰もおらず何もなっていないーー当然なのだがその事実にほっとする。
足元を確認し、ドア裏についている郵便受けを確認して、何もないと分かるとようやく人心地ついた。
「はあ……」
思わず壁に手をつきつつ息を吐くと、咲也が静かに私の方を見続けていることに気づいて苦笑を返した。
「とりあえず、大丈夫そう」
咲也はポケットに手をつっこんで、首後ろに手を当てる。そうしていると普通の男性みたい。ーーいや、普通の男性なんだけど。と自分で突っ込む。緊張感が解けたためにちょっとだけ混乱しているらしいと自覚しながら、咲也の応答を待たず家に上がった。
咲也は玄関先まで入ってきたが、靴は脱がずに腕組みをして立っている。ドアがその背中で閉まった。
「あきちゃん。二、三日分の着替え、俺にちょうだい。持って帰るから」
咲也の言葉に、私は部屋の中からぐいと首を回した。
「何言ってるの?」
「俺の家の合い鍵」
言いながら、咲也は鍵を差し出した。私が身動きできずにためらっていると、咲也は息をついた。
「心配だよ」
その顔からはすっかり笑顔が抜け落ちている。笑顔だけではない、表情らしい表情が見えない。冷たく突き放したようにも見えるその態度に、しかし私が感じたのは安堵だった。その事実に自分の歪みを感じて、笑いが込み上げる。
「大丈夫だよ」
きっと何もないから大丈夫。ーーそういう意味で言っていないことを、咲也は察したのだろう、眉を寄せた。
大丈夫。何があっても咲也に迷惑はかけないし、他の誰にも迷惑はかけない。そりゃ出勤しなかったなら会社の人には迷惑をかけるだろうけど、それだって少しの間だけだ。欠員を穴埋めできればそれまでの話。“育ちのいい“先輩たちは、もしかしたら心配してくれるかもしれないけど、それだって一時のことだ。
たとえ今、この場で、私がいなくなったって、本当の意味で悲しむ人はいないだろう。
「大丈夫じゃない」
咲也が吐き捨てるように言った。彼の不機嫌な声を聞くのは初めてで、新鮮だった。
「俺が、大丈夫じゃないよ」
咲也は私を見たーー睨みつけた。その視線の鋭さに、たじろぐほどの迫力に、喜びを感じて目を反らす。馬鹿みたいだ。
「馬鹿みたいだよ」
言葉は口をついて出た。
「私も、咲也も」
馬鹿みたいだ。切り離したいものばかりの世の中なのに、繋がろうとする私たちは、本当に馬鹿みたい。
「仕方ないよ」
咲也は本当に仕方なさそうに言った。
「会っちゃったんだもん。俺と、あきちゃん」
言われて、私は息を吸い、そのままゆっくり吐き出した。
ーー会わなければよかった。
そうすれば、きっとずっと一人でいられた。一人でいる自分をそのまま肯定できた。
ーーそれなのに。
「……仕方ないよ」
咲也の再度の呟きを聞きながら、私はボストンバッグを取り出した。箪笥の中からバッグへ、服を乱暴に詰め込み、洗面所で化粧品もまとめる。
「咲也」
声をかけると、うなだれていた咲也が顔を上げた。私は黙ってボストンバッグを差し出す。咲也は神妙な顔でそれを受け取り、肩にかけた。その何気ない動作を見て、彼と私は身体の構造が違うんだと改めて気づく。私にはそんなに軽やかに持てる重さではない。
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一人で、生きて行きたいと。
ーー思っていた、はずなのに。
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