さくやこの

松丹子

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第一章 こちふかば

18 信頼に足る

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「じゃ、そろそろ帰りましょうか。ヨーコさん」
 十一時を回ろうという頃、安田さんが時計を見て言った。ヨーコさんが頷く。
「えええええ。まだこれからじゃないですかぁああ」
 私がぶーたれると、ヨーコさんの苦笑が返ってきた。
「明日も仕事やで。ぼちぼち年寄りには堪えるわ」
「ヨーコさんは年寄りじゃないですー」
「それは同意するけど、無理してほしくないから」
 さらりと言うのは安田夫。私はむむむと限界まで眉を寄せる。
「咲也くんはどうなのよ」
 目が据わっているのを自覚しつつ、隣に座る好青年の顔を覗き込む。咲也くんはやや引き気味の体勢で苦笑した。
「ええと。明日は非番ですけど……」
 私はその肩をがっしりと掴んだ。
「よぉおし」
「いや、何も言ってません。俺、何も言ってませんよ」
「さっくん、きばりや」
 ヨーコさんはほんわりと笑って、さらっと諭吉さんを二枚置いていく。くは、惚れるわー。姐御、着いていきますぜ。
「いやぁんヨーコさんまだ一緒にいたいー」
「うちもやでー」
「二人とも会社でずっと一緒でしょう」
 ヨーコさんに抱き着くと、ふて腐れるのは安田さんだ。
 まあそうなんだけどね。ここ五年、ほとんど毎日、互いにいつでも見える距離で働いている。二年前ヨーコさんがチーフになってからも、その距離は大して変わっていない。
 ヨーコさんは夫のヤキモチをいつも通り適当に流し、安田さんが広げたコートに当然のように袖を通した。
「……安田さんて」
「はい?」
「そういうエスコート、どこで学んだんですか?」
 見ていると、常にヨーコさんの準備の先を備えている。もはや自然なので執事のようなのだが、最初からそうだったとは思えない。
 安田さんはちょっと嬉しそうな顔になった。
「少しでもヨーコさんの役に立ちたくて。俺が動けばその分ヨーコさんは動かなくて済むでしょ。何すればいいかなって考えてたら今みたいな感じに。……嬉しいな。少しはエスコートしてるみたいに見えるかな」
 照れ臭そうなその顔にこっちが照れ臭い。甘すぎて砂吐きそうってこういうことか。
 あーしまった、例の如く、普段クールな安田夫妻の甘々地雷を踏んでしまった。自己嫌悪に陥りつつ、引き攣った笑顔を返す。
「ええと、素敵デス」
 ほとんど棒読みになったが本人は気づいていないらしい。鼻歌すら歌いそうなご機嫌でヨーコさんの顔を覗き込んでいる。
「ね、ヨーコさんヨーコさん。エスコートしてるみたいに見えるって」
「さよか。よかったなぁ」
 妻の相変わらずの塩対応は安定感すら覚えるが、第三者の私からするともうお腹いっぱいだ。雑念を思い浮かべず済むよう、心と身体を切り離して上っ面だけの笑顔を浮かべる。
「じゃあ、ヨーコさん。また明日ー」
 私が手を挙げると、ヨーコさんも微笑んだ。
「はめを外さんようにな」
 私は敬礼を返す。
「心配ご無用です!いくら飲んでも翌日は出社する女、江原あきらですから!」
「ああ、そのことは心配してへんけど」
 ヨーコさんの視線は私から咲也くんに向く。
「軽く見えるかもしれへんけど、案外ちゃんと考えてる子やさかい。信頼したってな。ーーまあ、まだそれには時間が足らへんかもしれんけど」
 私が首を傾げる横で、咲也くんは変わらず爽やかな微笑で頷いた。
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