モテ男とデキ女の奥手な恋

松丹子

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第二章 はなれる

94 セクハラ疑惑

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「マーシー、ちょっと」
 阿久津の不機嫌な手招きに応じて廊下に出てみれば、同じく不機嫌そうに立つ江原さんがいた。
「何、二人とも」
「何じゃないですよ。自分にどんな噂立ってるか知ってるんですか?」
 江原さんは我がことのように怒っている。俺は苦笑した。
「この土日に聞いたよ。すげぇ噂だよな」
「その噂、誰が撒いたかも知ってるのか?」
 阿久津が睨みつけるように問う。怒りを感じている相手が俺ではないことは分かったが、なかなか迫力のある顔である。
「さあ。それは知らないけど、まあ撒かれたもんは仕方ないだろ」
「絶対、YZさんですよ」
 江原さんが間髪おかずに言った。憤りが伝わる勢いで、まったく!と腕を組む。
「人事から私に電話かかってきたんですよ。私がセクハラ受けてるんじゃないかって。神崎さんから!」
 ーーああ、なるほどね。他人事じゃなかったってわけだ。
 俺はやや納得して苦笑した。
「そっか、江原さんも巻き込んでたか。悪いな」
「じゃーなーくーてー!!」
 ああもう!と江原さんは腕をぶんぶん振り回す。阿久津が危ねぇなと文句を言ってその腕を押さえつつ、
「元々噂が立ってるのは知ってたんだ。本社にいる同期の奴らがそんな話してたから。マーシー何しでかしたんだ、すげぇ噂立ってんぞって」
 さすが阿久津、情報が早い。そう感心している間に、阿久津は腕組みをして眉を寄せた。
「でも、人事まで動くと思わなかった。ただの馬鹿げた噂で、同期だって誰も信じちゃいなかったし」
「ダイバーシティ推進室の人が強力に人事に主張したらしいです。今までの神崎さんの噂とか振るまいとか、いいように脚色してーー」
 ダイバーシティ推進室は、女性活用や障がい者雇用、その他様々な人の活躍を推進するための部署だ。自然、セクハラやパワハラについては敏感に反応する。
「まあ、そこから言われちゃ、人事としても動かざるを得ないってとこだろうけどな。で、そこの室長補佐、YZの同期みたいよ」
 阿久津が言ったとき、事務室に通じるドアが開いた。階段の踊り場に半分踏み込んで話していたのだが、事務室のドアが開けばすぐに見える。
 出て来たのは噂の主、桑原さんだった。
 薄ら笑いを浮かべつつ、無遠慮に俺たちに近づいて来る。
「これはこれは、未成年を家に連れ込んだと噂の神崎さん」
「その噂は誰が撒いたんでしょうねぇ?」
「君もどうせ初っ端の出張のときにでも抱かれたんだろ」
 食ってかかってサラリとそう返された途端、江原さんの顔は怒りで真っ赤になった。
「それこそ、セクハラ発言じゃない!」
「落ち着け、アキ」
 つかみかからんばかりの江原さんを、阿久津が止めた。
「昨年末の財務部の忘年会では、女子ばかり侍らせて喜んでいたとかーーそれも身体的な接触もあったらしいねぇ。受付の子たちがドン引きしたって話したそうだよ」
 ーーいやあれは俺もドン引きだったけど。名取さんに。
 苦笑しながら、敢えて言い返す気にもならない。江原さんはそれが不満なようだ。
「何で言い返さないんですか!神崎さんがそんな七面倒くさいことするわけないじゃないですか!!」
 江原さんの言葉にますます苦笑する。割と分かってるな、こいつ。
「まあ、説明すりゃわかるし、2、3ヶ月我慢すりゃ噂も落ち着くだろ」
 俺が応じると、桑原さんは鼻で笑った。
「どうだかねぇ」
 その目が獲物を捉えた蛇のように俺を捉える。
「どうせ、経験したこともないんだろう。自分の存在が否定されるような場なんて」
 薄い唇に浮かんだ笑みは、変に歪んでいた。
「チヤホヤされて、いい気になってばかりいるなよ。お前をこの会社から追い出すことくらい、簡単なんだ」
 俺はその顔に、息詰まったような苦しさを見て、思わず哀れみを感じた。
「なるほどね」
 特段表情を浮かべずに、俺は応じる。
「そのときには、おとなしく出て行きますよ。ーー出て行けと言われればね」
 桑原さんは鼻の上に思い切りしわを寄せ、不快感を顔全体に表してから、俺たちに背を向けた。
「ちょっと、神崎さん」
「本気かよ」
 江原さんと阿久津がいぶかしげに俺を見る。
「本気といえば本気だけど。そんなきっつい思いしてすがりつく気もないし」
 俺はスラックスのポケットに手をつっこんで答えた。
 阿久津は俺の顔をまじまじと見て、わざとらしいほど深々と嘆息する。
「まあ、お前はそういう奴だよな」
「そうそう、そういう奴」
 俺は笑って阿久津の肩を叩くと、桑原さんの後を追うようにデスクに戻った。
 阿久津と江原さんの嘆息を背に聞きながら。
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