モテ男とデキ女の奥手な恋

松丹子

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第一章 ちかづく

42 ただの同期

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 一息ついた俺は、橘の社内チャットに、メッセージを送った。
【今、廊下に出てこれる?】
【OK,5min later】
 橘からは即座に返事があった。区切りのいいところまで作業してから出てくるつもりだろう。
 俺はコンビニの袋から出しておいた小さな包みを持って立ち上がる。
「ちょっとトイレ」
「行ってらっしゃい~」
 ジョーとクリスがひらりと手を振った。

 本社のビルは7階建て。2階までが直営店で、3階以降がオフィスになっている。
 この6階には、橘のいる財務部と、俺のいる事業部がある。金を作る部署と使う部署。管理する方と管理される方。
 二つの部はエレベーターやトイレのあるホールで隔てられている。セキュリティのためそれぞれ扉がついていて、その先に入るには、社員証のICカードを翳す必要がある。
 そのドアから、橘が出てきた。
 例によって、緩く巻いた髪、フェミニンなシフォン地のミニスカート。やっぱりなんとなく違和感がある。
「お待たせ」
 オフィス使用の橘は、以前と変わらない、ビジネス用のさばけた口調で微笑んだ。
 最近図らずも見慣れてしまったくしゃくしゃの笑顔とは違うそれに、懐かしさに近い不思議な既視感を覚える。
「気使わせて悪かったな。美味そうなコーヒー、サンキュ」
 俺は無造作に手を差し出した。橘がコーヒー豆のチョコレート菓子を受けとる。
「あら。こちらこそ、気を使わせちゃったみたいね」
「気にすんな。コンビニだから」
 俺は言って、一歩後ろに下がった。
 黒い革靴がコツリと音を立てる。オフィスは音を吸収する絨毯敷きだが、エレベーターホールは無機質なリノリウムだ。
 橘は黒いタイツにグレーのショートブーツ。ヒールの高さを見て、小柄なのを忘れるのはこれのせいもある、と一人納得した。8センチはあろうかというハイヒールだ。
「脚、疲れねぇの。そんなヒール高い靴履いて」
「だって、私身長160ないから、せめてヒール履かないと子供に見えるのよ」
「155くらい?」
「156」
 橘は訂正するように言った。小さな違いだが本人にとっては大事なことらしい。
「神崎は?180あるでしょ」
「183。弟は185」
「大して変わらないじゃない」
 自分にとっての1センチは大切でも、人にとっての2センチはたいしたことではないらしい。
 俺は思わず笑った。
「何よ」
 言う橘は、ややオフィス使用から崩れはじめている。
「何だろうな」
 笑った理由。馬鹿げていると思ったわけではない。強いて言うなれば、むきになって強がる栄太郎を見たときのような。
 ーー可愛い。
 言葉が脳裏に閃いた瞬間、俺は咄嗟に口元を手で覆った。
 もしかしたら、先にオフィス用の仮面を外したのは、俺の方だったのかもしれない。
 それに気づいていたたまれず、俺は顔を橘から逸らした。
「……俺、近々……」
 言いかけて、やめる。
「どうしたの?」
 橘が首を傾げた。
 それを目でとらえながら、ようやく察する。俺にはもう、ただの同期として見られない。見えない。どうやっても。
「ーー橘。今日、残業?」
「まあ、残ろうと思えばいくらでも残れるけど」
 一呼吸置いて尋ねた俺を不思議そうに見ながら、橘は自嘲気味に笑う。確かにそうだろうな。
「コーヒー飲みに来いよ。……俺んちで」
 言いながら、橘の顔が見られなかった。
 橘は驚いたように一拍置き、上を見て下を見て、さらに横を見て、小さく小さく言った。
「き、着替え持っていく必要、ある?」
 俺は何も言わず橘の後ろ頭をはたいた。
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